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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

なごり雪と日本のカルチェ・ラタン

2014-03-22 02:06:02 | 日記
   写真は本文とは関係ありません。
 
これでは「寒さ暑さも彼岸まで」ではなくて、「寒さ暑さは彼岸でも」というべきでしょうか。北の方は雪が激しいようですし、岐阜県でも飛騨地方は雪のようです。今年はいつまでも寒いし、雪も多いですね。
 東京の場合、観測史上、これまで一番遅い降雪をみたのは1969年の4月17日だそうですが、実はこの日、私は東京にいたのでした。
 
 当時はまだサラリーマンで居酒屋を始める前でしたが、まあまあ出世をして、東海三県と静岡県の西部、北陸三県を束ねる名古屋事業所の責任者になっていました。

                   
 
 それで、全国8グロックの責任者が毎月一回、当時は東京の八重洲にあった本社での会議に引っぱり出されるのですが、結構厳しい会議で、本社側の高い目標設定を巡っての地方の抵抗といった攻防戦が展開されたりしました。
 
 とはいえ、時代は高度成長期で右肩上がりは当たり前で、私の記憶では、名古屋地区は年々20%ほどの上昇を達成していました。
 で、会議が終わると、今度は社長以下打ち解けて、銀座周辺へ繰り出しての慰労会ということで、「鞭」のあとの「飴」をしゃぶらせてもらったものでした。

                    
 
 それでも飲み足りないと、今度は自前の二次会で場末の酒場へ繰り出し、そして宿へ帰っ て宿泊するという段取りでした。宿泊費は実費ではなく規定で決められていましたから、安いところを確保すればその差額は懐へ入るというか、まあ、それを当 てにして、二次会で飲んでしまっていたわけです。
 
 宿泊はたいてい、御茶ノ水から医科歯科大学の傍らを通って湯島天神の方へ向かうごちゃごちゃしたところの木賃宿で、部屋数も少なく、一階は帳場と台所、二階に2、3部屋といった感じの宿でした。
 半分腰が曲がったようなばあさんが仕切っていて、二階の部屋へ案内するときも、狭い階段を四つん這いになって上がってゆくそのばあさんのお尻を拝みながら寝床へ辿り着くのでした。

                    
 
 いつもそこへ泊まるのは、割合、気が合って一緒に飲んでいた九州の所長と新潟の所長、それに私の三人で、もちろん三人で一部屋でしたから、驚くほど安い料金で泊まることができたのでした。
 
 朝食は下へ降りて、ちゃぶ台を囲んでばあさんの給仕で頂くのですが、そのばあさんがけっこう世話好きの江戸っ子気質で、「お前さん方、遊ぶのは結構だけ ど、変なのにつかまっちゃぁいけないよ」と、以前、泊まった客で、靴まで盗られて帰ってきたひとの話だとか、白塗りの狐の話など朝っぱらから結構面白い話 を聞かせてくれるのでした。

                    

 4月の雪を経験したのも、その宿を出た時でした。御茶ノ水までの道すがら、新潟の所長が、「今頃は新潟だって雪などは降らないぜ」といったのを覚えています。
 結構何度も利用したのですが、今となってはその宿の名前も忘れましたし、場所ももちろんわかりません。
 
 この宿にまつわるもう一つの思い出があります。前年の68年、何月だったかは覚えていませんが、宿を出た私は、新潟や九州の所長に、「ちょっと寄ってゆくところがあるから」と別れ、御茶ノ水駅の反対側、日大の駿河台キャンパスに行ったことがあります。
 日大闘争の最盛期で、連日、機動隊や右翼学生との衝突が繰り返されていた頃で、周辺にはツンと鼻を突く催涙ガスの残臭が漂い、日本のカルチェ・ラタンといわれた一帯にはただならぬ雰囲気が漂っていました。

                    
 
 遅い春、東京の雪、などと聞くと、それに、イルカの「なごり雪」を聞いたりすると、これらのことが走馬灯のように蘇ってくるのです。
 
 東京へはもうずいぶん行っていません。
 オリンピックブームで荒れつくす前に、一度ふらりと行ってみたいと思っています。
 誰か相手をしてくれるひといます?
コメント
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