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メンデルスゾーンをめぐる歴史について

2014-03-05 01:18:32 | インポート
 前回の続きで、とても大回りをしましたが、やっとメンデルスゾーンにたどり着きました。
 彼は、銀行家として著名なユダヤ人の家系に属していました。この一家は、西洋社会に馴染むべく、改宗するなどをして同化をはかったのですが、それでも差別の渦から抜け出ることができませんでした(この辺りは前回述べたアーレントの指摘が正鵠を射ていると思います)。

           
           13歳のメンデルスゾーン、女の子みたいで可愛い

 音楽家のフェリックス・メンデルスゾーンも生前においてすでに差別的な扱いを受けてきたようです。
 ワーグナーは当初は匿名で(後には実名で)「音楽におけるユダヤ主義」という文章を音楽雑誌に載せ、以下のようにメンデルスゾーンを批判しているようです(私自身は未読)。
 いわく、「ユダヤ人は創造するのではなく模倣しかしない」「彼らの容貌はとうてい美術の対象にはなりえない代物だ」「ユダヤ人が歌うと、彼らの喋り方の嫌なところ がそのまま歌の中にあらわれて、即刻、退散したくなる」「メンデルスゾーンはヨアヒムだのダヴィッドだのをつれてきて、ライプツィヒをユダヤ音楽の町にし てしまった」「メンデルスゾーンは才能や教養はあったが、人に感動を与える音楽は作れなかった」などなど(ドイツ文学、西洋文化史専攻 中野京子氏のブログより)。

 ナチスドイツのもとにあっては1936年以降、メンデルスゾーンの曲はすべて演奏禁止になりました。「メンデルスゾーンの名前は教科書から消され、ゲヴァントハウスの前に建っていた彼の銅像は破壊され、彼の作品の出版は禁止されました」(この項も中野京子氏の情報による)。一方、ワーグナーの方はドイツを代表する音楽家として顕彰され、この時期、ワーグナーの本拠地バイロイトは大いに賑わったようです。

           
            聖トーマス教会とメンデルスゾーンの銅像
 
 それでは、ナチスの支配が終わった戦後、メンデルスゾーンの音楽はドイツにおいて復活したのかというとそうばかりもいえないようなのです。

 メンデルスゾーンがもっとも活躍した都市はライプツィヒです。ここの、ゲヴァントハウス管弦楽団は1743年、王侯貴族や教会とは独立し、世界に先駆けて創立された市民階級のオーケストラでした。このオケの質的な向上に貢献し、合わせて、ベートーヴェン・シューベルト・メンデルスゾーン・シューマン・ブラームス・ブルックナーをはじめ、多くの作曲家の作品を世に紹介してきたのがメンデルスゾーンが楽長時代のことなのです。

 したがって、このライプツィヒにおいてこそメンデルスゾーンは名誉回復を果たし、ふたたび陽の目を見るべきでしたが、そうすんなりとことは運びませんでした。「イージーリスニング的な軽薄な音楽」という一度貼られたレッテルを浄化するにはある程度時間がかかったのと、上に述べた彼の主たる活躍の場、ライプツィヒが不幸にして東ドイツに属することになったからです。

              
                 メンデルスゾーンの像


 もちろん、ナチス時代のような抑圧はありませんでしたが、それでもなお、メンデルスゾーンの出自が大ブルジョアとあって、「労働者階級の国」にそぐわないという抑制が働いたようなのです。上に述べたナチスの時代に撤去された彼の銅像が、復元されたのは、なんと、つい数年前の2008年だといいます。
 なお、この銅像の場所は、彼が発掘したバッハの最高傑作「マタイ受難曲」が作曲された聖トーマス教会の前だと言われています(Googleの地図と航空写真でそれらしいものを見つけました)。
 
 なお、バッハといえば、上記の「マタイ受難曲」のほか、「ゴルトベルク変奏曲」、「音楽の捧げもの」などもこの地で作曲し、1850年に亡くなるまで、この聖トーマス教会の楽長を務め、その墓もこの教会内にあります。またその銅像も教会の敷地内にあるようです。
 あ、この教会についてはもうひとつエピソードがあって、1789年、この地を訪れたモーツァルトがバッハが愛用していたオルガンで即興演奏を披露したという記録があります。

           
                  こちらはバッハの像
 
 話が逸れました。 
 メンデルスゾーンは「メンコン」の名で親しまれている「バイオリン協奏曲」や、広くは「結婚行進曲」でも知られていますが(世に広く知られている結婚行進曲が、このメンデルスゾーンのものとワーグナーのものだというのは皮肉ですね)、室内楽やピアノ曲にもいいものがたくさんあります。
 いずれにしても、たぐいまれなメロディメーカーであることは間違いないように思います。

 メンデルスゾーンの抑圧の歴史をみてきましたが、総じていって、音楽は音楽の範疇で語られるべきで、余分な尾ひれをつけての話がいかに変なところへ行き着くかは、先ごろの佐村河内守氏を巡る騒動がよく示しています。

           
               ゲヴァントハウスは今年来日         
 
 ということで、今日聴いたCDは以下のものです。

今日のCD

作曲者 メンデルスゾーン
 曲1:ピアノ協奏曲第一番 ト短調 Op.25
 曲2:ピアノ協奏曲第二番 ニ短調 Op.40

 曲3:華麗なカプリッチョ ロ短調 Op.22
 曲4:華麗なロンド   変ホ長調 Op.29
  
いずれも 
  ・ピアノ ベンジャミン・フリス
  ・スロヴァキア国立コッシェ・フィルハーモニー管弦楽団
  ・指揮者 ロベルト・スタンコフスキー
   
曲1 第一楽章6分ほどのところにベートーヴェンの「月光」のクライマックスに似たメロディが出てきます。また、7分ほどのところにベートーヴェン「レオノーレ第三番」8分ほどのところとよく似たファンファレーが出てきますが、このメロディはヨーロッパにおいてはけっこう普遍的だったようで、ハイドンの交響曲第100番「軍隊」の第二楽章にも似たものが出てきます。




上記の記事に対し、当ブログの熱烈な読者、「九条護。」さんから、マタイ受難曲の演奏などについて事実誤認があるのではとのご指摘があり、あらためて確認しましたところ、ご指摘のように初演と復活上演の混乱がありましたので、以下のように整理しなおしました。

   ・バッハによる初演 1727年4月11日 聖トーマス教会にて
   ・メンデルスゾーンによる復活上演 1829年3月11日 ベルリン・ジングアカデミーにて


コメント (2)
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