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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「お釣りの人生」について考える

2014-03-19 02:05:23 | 日記
 高齢者社会といわれます。
 確かに人口構成はそうなってきています。古希をとっくに過ぎ、今や後期高齢者である私も含めてです。

          

 若い人たちから見たら私のような老人はどう見えるのでしょうね。50年前に、私が今の私ぐらいの人たちをどう観ていたのかを思い起こせば何らかの参考になるのですが、それがよく思い出せないのです。 
 これはおそらく、私の年齢のせいばかりではなく、いま50代の人が20代の折に50代の人をどう思っていたのかもよく思い出せないのではないでしょうか。 

 ここには観察していた自分と、今や観察対象である自分との間の差異と同一の入り組んだ関係があるようです。

          
           
 この老齢者社会にあって高負担を強いられる若い人たちにとっては私たちはお邪魔虫で「お釣り」で生きているような人種なのかもしれませんね。一方、高齢者自身が「私はもうお釣りで生きていますから」といったりする場合もあります。

 若い人たちの「お釣り談義」はすでに終わったひとたちという見方を含むものでありそれはそれであり得るでしょう。
 
 しかし高齢者自身の「お釣り談義」はいささか違った響きを含むように思います。というのは、ひとの生は何らかの有意義なことをなすためのものであり、自 分はもはやそれをなし終えた、つまり、人間の本来性をすでに成就し、いまはその余剰(=お釣り)を生きているという不遜さを秘めているようにも思えるから です。

          

 しかし、ここでいわれている「有意義なこと」「本来なすべきこと」というのは、それが労働であれ、学問であれ、たかだか現業への参加でしかなかったわけです。ようするにそれは、その人が「何」であったか示しているにしか過ぎません。
 ですから、それを「本来」として、それ以外を「お釣り」とすることには抵抗があるのです。
 むしろ、私たちがそうした機能としての、あるいは交換可能としての「何」からは自由になり、「誰」として登場するのはその余剰(=お釣り)の方にこそあるのではないでしょうか。
 もちろんそれは、現業を終えてからというより、現業に従事している折にも要請されていたことなのでしょう。

 そんなわけで、そのお釣りを軽く見るのではなく、あらゆる分野で、その価格が不当と思われるときには執拗にお釣りを請求したり、またある時には「釣りは要らないよ。とっときな」といなせにいい切ることが必要なのではと思ったりするのです。

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