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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

飛翔すること そして、金のシャチホコなど

2013-03-09 15:05:28 | よしなしごと
  写真は過日、愛知県の日間賀島で撮ったものです。 

 人間は空飛ぶ事を夢みて飛行機を発明したなどといわれ、そうだろうとは思うのだが、飛行機に乗っても飛んでるという実感はとんとない。たぶん、機械によって運ばれているに過ぎないからだろう。
 その点、グライダーやハンググライダー、パラグライダーなどを操縦する人は自分が飛んでいると感じていることだろう。

         

 子供の頃、石川五右衛門は偉いと思っていた。
 そのひとつは、捉えられ、釜茹での刑にされるとき、煮えたぎる湯のなかで、一緒に処刑された息子を頭上に差し上げて力尽きるまで支え続けたと聞いたからであった。
 その折の彼の辞世の歌は、
   
    石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ
 
 だそうだが、それから400年以上経った現在も、まさに「種は尽きまじ」は真実である。

        

 五右衛門についてもう一つ感心したのは、大凧に乗って名古屋城天守閣の金の鯱の鱗、3枚をまんまと盗み取ったというものである。その発想の面白さ、そしてその大胆さに少年の私はほとぼと感心したものである。まさに彼は大空を飛んだのであった。

 しかし、長じて知ったところによると、この私が感嘆した事件は石川五右衛門とはまったく関係がなく、時代も下って1712年、尾張国、柿木村の百姓、金助というひとのしでかしたことで、その手段が大凧によるものかどうかも定かではないという。それどころか、金鯱の鱗を盗ったというのも事実と違うようで、実際には名古屋城本丸の土蔵に盗みに入ったということらしい。

         

 五右衛門ファンとしては夢破れることしきりだが、史実とあっては致し方ない。どこかの歴史修正主義者のように、いいや、やはりそうではないといい張る根拠もない。
 五右衛門の話はともかく、この柿木金助の話にしても空を飛ぶという文字通りの突飛さが面白さを倍増させている。

         

 モーツアルトのオペラ『魔笛』では3人の童子が飛行船に乗って登場し、三重唱を歌う。この場面はとてもメルヘンチックでその歌の内容ともども心和むシーンである。
 もっとも、一方では観光客を乗せた飛行船が炎上するというゾッとしない話もあるが。

         

 なんだかとりとめのない話になったが、やがて、ドラえもんのタケコプターのように一人ひとりが空をとべる時代がきっと来ることだろう。
 その頃には私は多分、天国にいるはずだから、どうか天国まで遊びに来てほしいものだ。

         

 飛ぶ話の対極は「足を地につけろ」ということかもしれない。現実に即して生きろという意味ではそのとおりかもしれないが、その現実そのものがどのようなものであるかは、地上の目線だけからはわからない場合が多い。
 空間的にも時間的にも、多少飛び上がった地点から見た現実のほうがリアルな場合が多いように思う。
 だから、たとえ想像のなかでも、少しぐらい飛び上がって見ることは必要なのかもしれない。


         

《追記》なお、名古屋城の金鯱はものが金だけあって、何度も狙われたようで、一番最後の盗難事件はWikiによれば以下だという。
 
 「1937年(昭和12年)1月6日 - 名護屋城下賜記念事業で実測調査中の1月6日朝、名古屋市建築局技師が雄の胴体の金鱗110枚のうち、58枚が盗難されている事に気付く。愛知県刑事課は報道を全面禁止し全国指名手配。下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。同月27日、金鯱の売却現場で犯人が逮捕され懲役10年」

 なお、この金鯱も、1945年5月14日の米軍空襲時の名古屋城炎上とともに溶け落ちでしまった。戦後、GHQや当時の大蔵省になどを経て、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還され、名古屋市はその金で、名古屋市旗の冠頭を作り、残りは金の茶釜として保存しているという。

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拾われた春

2013-03-07 03:06:30 | 写真とおしゃべり
 啓蟄も過ぎ、やっと春めいてきました。
 うちの周辺でも梅が開花し、桜の蕾も目立つほどになって来ました。

         
              ナンテンの若葉が春の陽射しに映える

 確定申告を済ませました。
 わずかばかりの原稿料の源泉徴収分が戻ってくるのですが、それ以上に社会保険関係などが増加し、おまけにアベノミクスで物価が上昇し、さらには消費税が追い打ちをかけるとあって、こりゃまあ完全にアウトだとぼやいていたら、もう十数年前にネットで知り合った女性から、財産が尽きたら私のところへおいでという心強いコメントがあってまずは一安心。

 彼女はカラッとした性格で、話は明快そのもの、酒は好きですがあまり強いとはいえず、付き合っていてもとても楽しいひとです。前は年に数回会えたのですが、今は関東にいるため、会える機会は少なくなり、残念に思っています。

         
                 水ぬるむ加納・清水川

 岐阜駅のすぐ南に、ちょっとした公園があり、それが確定申告を提出した税務署のすぐ近くなのです。税務署へ来てすぐUターンではやはり淋しいので、そこを少しほっつき歩きました。今は整備された公園なのですが、以前私がこの近くに住んでいた折にはどんなふうであったのかがさっぱり思い出せないのです。わずか半世紀ちょっと前のことなのですが、なくなったものをとどめるという記憶はいつも曖昧ですね。

         
                 芽吹きはじめた柳の大木

 この公園の周辺で、いくつかの春をみつけました。ここに載せた写真の最後のもの以外はここでのものです。
 春といえば、中学生か高校生かのカップルがいちゃついていて目障りだったのですが、それを厭わしいと思う反面、もし、もう60年後に生まれていたらと思わないでもないのです。

         
               紅梅より薄いピンク色の梅

 うちへ帰ったら、おもいっきり春らしいものが届いていました。
 先の女性とは別のネットで知り合った方から、南国の香りいっぱいの土佐の文旦が送られてきたのです。箱を開けた途端、折からの陽射しに鮮やかな黄色が映え、柑橘類特有の芳香が立ちのぼりました。

         
             健康そうな文旦(ブンタン)の面構え

 世の中、捨てる神あれば拾う神ありですね。
 考えて見れば、2歳の頃、親戚をたらい回しにされ、いわば捨てられたと同然に里子に出されたのですが、養父養母に引き取られて以降、私の人生は拾われてばかりだったかもしれません。
 みなさん、これからもしっかり拾ってくださいね。

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私の履歴書(九)はじめてトンカツを食べた日 そして父の帰還

2013-03-03 17:40:15 | よしなしごと
 シベリアにいるとみなされる父(実際のところ敗戦後連絡が途絶えてからは生死不明)の帰還を待つ私たちのところへ、怪しげな電報が届いたのは1948(昭和23)年3月も終わる頃のことでした。
 怪しげだったのは、宛先などはたしかに母を指してはいるのですが、差出人の署名に見覚えがなかったのです。しかしそれには、舞鶴の港についたこと、検疫などが済み次第復員列車で還ること、などが書かれていました。
 そんな差出人が違う怪しげな電報でしたが、藁にもすがる思いで、それが父からのものだと信じることにしました。我が家にも、そして母屋にも電話などない時代でした。ですから急ぎの用はすべて電報でした。それも、カタカナをモールスで打つようなものでしたから、きっと間違いもあったことでしょう。しかも、大勢を乗せた復員船の到着後とあって、舞鶴の局もきっと混乱していたことでしょう。

            

 それっきり連絡はなかったのですが、復員船が着いたあと何日かの間は復員列車が走ることになっていて、その日程やダイヤも公表されていたようです。
 復員列車のダイアで私たちの方へ来るのは、多分、舞鶴線・福知山線・山陽線・東海道線経由のもので、これですと当時の交通事情からして、朝、舞鶴を出て夕方に関西圏、そして翌朝に首都圏ということになり、幸い疎開していた近くの大垣駅にも停車するのですが、その時刻はほとんど真夜中でした。

 それよりも大変だったのは、何日から何日の間というのがわかっていたのみで正確な日取りはわからないまま、しかも怪しげな部分のある電報を頼りに、それに相当する日には4キロ離れた駅頭まで迎えにゆかねばならないことでした。
 私も毎日通いました。
 一日目、大垣駅では数人しか降りません。胸が高鳴ります。きっとあの中に父はいる。
 しかし、その日には着きませんでした。
 着いたひとの出迎えの家族からは歓喜ににすすり泣く声が聞こえます。
 私たち待ちぼうけ組は、それを横目にしながら、「まだまだ明日もありますからね」とお互いに慰め合うのでした。

          

 二日目も帰って来ませんでした。
 迎えに出ていたのは母と私だけではありませんでした。
 大垣には母屋をはじめ母方の親戚がたくさんいました(母の母、つまり祖母は、成長しただけでも10人の子沢山で、そのうち半数が大垣近郊にいました)ので、それらの人も代わる代わるやってきてくれました。
 
 そんなある日、まだ時間が早いうちから駅頭に頑張っているところへ、土建業をやっている叔父がやって来ました。戦後の復興事業で羽振りがいいという人でした。
 彼は「腹が減っては戦はできぬというから、なんかうまいものを食わせてやろう」といって、私を駅近くの洋食屋へ連れて行ってくれました。それまでに外食といえば、うどん屋ぐらいには連れてってもらったことはありましたが、まだ半分は代用食の時代、洋食屋などは生まれてこの方はじめてでした。

            

 いまでは当たり前のウースターソースの香りが、これぞエスニックとばかり鼻孔を刺激します。
 「なににする?」
 と、訊かれたって洋食の名前なぞはろくすっぽ知りません。
 「じゃぁ、トンカツでいいか」
 と、叔父は尋ねました。
 いいも悪いもありません。トンカツというのは、何かの本では読んだことがありましたが食べることはもちろん、見るのもはじめてだったのです。
 運ばれてきました。どうやってたべていいのかもわかりません。ソースのかけ方からなにから叔父の指示通りにしてかぶりつきました。
 豚肉というのもこの折がはじめてでしたから、もう、美味いとかまずいとかといったレベルの問題ではないのです。とにかく、そこらの洟垂れどもが決して口にできないものを食しているのだという優越感だけで胸が一杯になりました。
 「世の中に、こんなうまいものがあったのか」
 と、しみじみ思ったのはキャベツの一切れも残さずすべて食べ終えてからでした。
 そして、けしからんことに、こんなうまいものが食えるのなら父の帰りが少し遅れたって構わないやとさえ思ったのです。

            

 何日目だったでしょうか、とにかくこれが最後という日でした。
 この日に還らないとするとあの電報はやはり間違だったことになってします。
 列車が到着しました。
 私たちはホームを凝視し続けました。
 やはり、数人が降りてきて、いつもの様に歓喜の声が周りに沸き立ちました。
 しかし、父は降りて来ません。
 母はもう泣き崩れんばかりで、「まだ次の船があるから」と親戚の人たちにこもごも慰められ、支えられていました。

 その時です、遙かホームの彼方からこちらへやってくる人影を私がみつけました。
 「あ、誰か来る!」
 という私の叫びに、大人たちは固唾を飲んでその接近を待ちました。
 「義雄さん?」
 と、親戚の誰かが呼びかけました。
 人影は立ち止まり、
 「ハイ、義雄であります。ただ今戻りました」
 と、答えました。

 ここ何日か傍らでしか起こらなかった歓喜の渦は、今度こそ私たちのものでした。

              

 なぜ父だけ遅れたのか、これには泣かせる話があります。
 大垣駅頭に立った父は、私達の疎開している地区は駅から見て西の方角だったため、そちらを目指してひたすら歩いたのでした。大垣駅はいまでも車両基地のある電車区(当時は機関区)で、そのホームも長いのです。
 西のはずれまで行った父は、そこから先は線路しかないので呆然として「不本意ながら」改札口のある東のほうへと引き返したのでした。まるで、私たちの悲喜劇を自ら演出するかのような行為ではありました。

 そこから先はよく覚えていません。
 翌日、母屋が祝いにとうどんを打ってくれました。
 父は、人びとの笑顔に囲まれながら、うまいうまいといってあの細い体でよく入るなぁとみんが驚くほど食べました。おそらくここ何年か、満腹などという状況に恵まれたことはなかったのでしょう。

            
 
 父は、その背嚢の中から、私にといって新聞紙に包んだ数本の乾燥芋をくれました。
 いくら貧しい食生活だったとはいえ、蒸かした芋を飴色になるまで干し上げた切干いもぐらいは食べていましたから、父が持ってきてくれた乾燥芋は、硬くてまずくて食べられる代物ではありませんでした。

 でも、私は食べました。
 なぜかはわざわざ書かなくともお分かりいただけると思います。

 こんなわけで父の帰還は、私にとってはあのトンカツと、そして対極にある乾燥芋という二つの食べ物の記憶とともにあるのです。


<追伸>父の帰還の影には、無数の戦死者はもちろん、敗戦後の収容所ぐらしのなかでその過酷な条件に耐え切れず、再び故国の土を踏めなかった多くの人たちがいます。
 それらの人たちの御霊に、改めて合掌いたします。


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「梅は咲いたか 桜はまだかいな」と私んちの花たち

2013-03-01 23:33:10 | よしなしごと
 標題は江戸端唄で、私の子どもの頃は、とくに今頃になるとよくラジオから流れていた曲ですが、最近はとんと聞きません。お座敷などではいまも歌われているのでしょうが、そちらの方には縁がないものですから。
 こんな歌詞ですが、別バージョンや替え歌もあって延々と続くようです。

   ♪ 梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第
      山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな~

   ♪ 梅にしようか 桜にしよかいな 色も緑の松ヶ枝に
      梅と桜を 咲かせたい しょんがいな~
 
    この画像を凝視していると目が回りますから気をつけて下さい。
    http://www.youtube.com/watch?v=C7AvIJ9gQRY

      

 さて、私の家には今まさに開かんとしている三つの花があります。
 ひとつは昨年末、門松まがいのものを作った折にもらってきた白梅の枝で、その後も野外で花瓶に入れたままにしておいたら、蕾が膨らんできました。

 

 もう一つは、亡父が遺してくれた紅梅の鉢です。
 もう花びらがほころぶ寸前ですから、この雨が上がったら順次開いてゆくことでしょう。

 

 さらには、桜桃のなる木があって、例年、ソメイヨシノより10日か2週間早く開花するのですが、この蕾も膨らんできました。
 どうやらこの三つの花の競演を見ることができそうです。
 暦も弥生、春ですね。

 冒頭の江戸端唄をアレンジした歌を、女性のレゲエ・シンガーソング・ライター、Metis(メティス)が歌っているものをみつけましたので、ついでに貼り付けておきます。
 これは画面を見つめていても目は回らないと思います。
    http://www.youtube.com/watch?v=bdum4jD6JEY



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