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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

リンツ・リンツ・リンツ

2013-03-19 01:42:58 | よしなしごと
 リンツという都市がオーストリアにあることを知ったのはいつ頃のことだったろうか。いずれにしても最初にそれを知ったのは地理的にではなくというか、ようするに、地図でいったらどのあたりかということではまったくなかった。
 おそらくはモーツアルトの交響曲第36番が「リンツ」と題されていたこと、あるいは、かのアドルフ・ヒトラーがこのリンツの郊外で生まれ、リンツの高等実科学校へ入学し、その折には哲学者のヴィトゲンシュタインとほぼ同級であったというエピソードをどこかで読んだからだろう。

           
 
 ちなみにリンツとは関係ないが、このヒトラーとヴィトゲンシュタイン、それに哲学者のマルティン・ハイデガーは1889年生まれの同い年である。そして1930年代に至って、ヒトラーはユダヤ人を迫害し、ヴィトゲンシュタインはユダヤ人としてそれを逃れ、ハイデガーは一時的とはいえナチスを支持したというそれぞれの後年の物語は、同年生まれの三人の運命の軌跡を示していて感慨深いものがある。

         
     右上はヒトラーだが、左下はヴィトゲンシュタインではないとする説もある

 すでに述べたように、そうした周辺の知識からリンツを知ったのみで、それがどこにあるのかはまったく知らなかったのだが、はからずもそれを知る機会が訪れた。
 ちょうど今から22年前の1991年、その年はモーツアルト(1756~91年)没後200年のいわゆるモーツアルト・イアーだったのだが、思い立ってザルツブルグヘ旅したのだった。今から考えると随分思い切ったものだと思うし、旅費もかなり割高だったのだが、記念音楽祭のコンサート3回、オペラ2回のチケット付きだったからやむをえないだろう。

 旅程は日本からチューリッヒ、インスブルック(この途中、37人乗りのプロペラ機からみたヨーロッパアルプスの夕映えは息を呑む美しさだった)、そしてウィーンへといずれも空の旅だったが、ウイーンからザルツブルグは列車の旅で、その途中にリンツはあった。
 あ、ここだと降り立ちたい気分になったが、ヨーロッパの列車は発車ベルなどなくいきなり発車するので怖くて降りることができなかった。そのかわり、窓にへばりつくようにして写真を撮ったのだが、デジカメなどない時代、古いアルバムをひっくり返さないとそれがどこにあるかは確かめようもない。

         

 その後、今から10年ほど前、もう一度、リンツをやはり鉄道で通ったことがある。その折はひょんな事で、牛に引かれて善光寺参りでハンガリーへ行ったのだが、その帰途、スロベニア経由でオーストリアのグラーツへ入り、ウィーンからフランクフルトまでの列車でリンツを通った。最初ほどの感慨はなかったが、それでもなぜか懐かしい気持ちに襲われた。

 オーストリアの都市は、どこか人懐っこい感じがする。それはおそらく、日本の京浜、中京、阪神地方のようにメガロポリス化されていなくて、各都市が広がる田園などに隔絶されて独自性を保っているからだろう。と同時に、その規模の手頃さにもある。首都ウィーンの人口は175万人だが、第二の都市グラーツは25万人、リンツは第三の都市で19万人の人口である。ちなみにザルツブルグは15万人だが、その旧市街地については一週間滞在したせいで、今でもひとを案内できそうである。

         

 さて、またまたリンツに戻ろう。
 ヒトラーはリンツを愛し、オーストリア併合もそのせいではないかといわれるくらいだが、第三帝国が安定した折にはリンツにその首都を移すべく、大規模な都市計画をつくらせ、その模型を連合国の攻撃を避ける地下壕のなかでも時折眺めて悦に入っていたという。

 ヒトラーの人類への犯罪的行為はさておき、そうした少年の日の夢をむさぼっていた彼には何がしか心緩むものがある。彼は歴史を悲惨な色彩に塗ってしまったのだが、同時に歴史そのものが彼にそうした衝動を与えてしまった面もあるのだろうと思う。

 モーツアルトの交響曲36番「リンツ」は27歳の折の作品で、リンツ滞在時につくられたのでそう呼ばれているのだそうだ。三十数分のこの小洒落たシンフォニーを、彼は4日で書き上げたという。
 万一、ヒトラーの第三帝国が少なくともヨーロッパを制覇し、リンツがその首都となったあかつきには、このモーツアルトの曲から国歌がとられたかもしれないなどと思う。
 そうならなくてよかった。




コメント (2)
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