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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

携帯とバッテリー そして削除や廃棄されたものの行方

2013-03-27 17:21:55 | よしなしごと
 人並みに携帯をもっています。
 しかし、この歳になるとあまり電話をする用件もありませんし、メールもほとんどやりとりはしません。
 ただし、このメールの件は、携帯ではということで、PCの方ではかなり頻繁に、添付などをつけたものをやり取りしています。携帯での、チャット風のちょこまかしたやりとりが嫌いなのです。
 SNSなどへの接続もすべてPCで行なっています。

 ならば、携帯など持たなくともといわれそうですが、多少ではありますが必要不可欠な電話も入るのです。
 その他に写真をよく撮ります。今の携帯は4台目ぐらいですが、それを選ぶとき、もっともカメラ機能が優れたものという条件を付けました。
 結果として写真のように「携帯にカメラが付いた」というより「カメラに携帯が付いた」ものになりました。

 このカメラ機能をよく使うのです。ここに載せる写真もほとんどはこれによります。ただし、この携帯の写真はそうではありません。いくら優れたカメラ機能が付いていても、自分で自分を撮すことはできないからです。

        

 外出した折など、これを駆使してかなりの写真を撮ります。花鳥風月を始め、ちょっと面白いなと思ったもの、あるいはメモ代わりのもの、なんでも撮します。
 そんなことで機嫌良くこれを使っていたのですが、最近異変が起きるようになりました。

 これまでのようにバシャバシャと写真を撮っていると、思いがけないところで不快な警告音が鳴って、「バッテリー切れのためこれ以上の写真機能は停止します」という警告が出るのです。しかもそれがしばしばなのです。時折それが、今まさにこれを撮りたいという時に出てくるものですから実に忌々しいのです。

 そこでクレーマー爺さんの本領を発揮して、ソフトバンクの孫さんのところへ電話したのです。出てきたのは孫さんではなくオペレーターのお姉さんでしたが、まあ、彼もいろいろ忙しいのであろうと思ってそのオペレーターの女性に訴えました。
 「最近、バッテリーがすぐ駄目になるのだがこれは故障ではないだろうか」
 「ちゃんと充電していらっしゃいますか」
 「もちろん、こまめに100%になるまでしているけど、それでもすぐなくなるのです」
 「そうですか、それはおかしいですね。ちなみにそのバッテリーはどれぐらい使っていらっしゃいますか」
 「まだ、三年ほどですが」
 「え?もう三年もですか」
 
 そうなんです。この「まだ」と「もう」の隔たりのなかに彼我の判断の相違が凝縮されているのです。
 彼女は続けます。
 「お客様、カメラ主体で三年以上お使いになればそうなるのは当然なんです。よくそこまでお使いいただけましたね」
 「でも、ちゃんと充電していますよ。これってリチウムバッテリーでしょう。航空機のB787となにか共通の欠陥があるのでは」
 「いいえ、そうではなくて寿命なのです。どうか、弊社のショップへお出かけいただいてバッテリーそのものを交換して下さい」
 「で、そのバッテリーはいくらぐらいするのですか」
 「3,000円です」
 う、3,000円といえば野口英世様がお三人お揃いであちらへゆかれるわけです。
 「わ、わかりました。それでは近日中に参ります」

        

 ということで、それからもだましだまし使っていたが、その日もまたバッテリー切れの表示が出たところで近くのショップへいってこれまでの経緯を話しました。
 ちょっとお待ちください、といってなにやらPCをこちょこちょ叩いている。そして曰く、
 「申し訳ございません。只今在庫がありませんので、後ほどご自宅の方へ送らせて頂きます」
 「でも、今もうなくて、しかもこれから名古屋へゆかねばならないのだけれど」
 というと、
 「お客様、お出かけはお急ぎですか」
 と、いわれて時計をみると約束の時間まではかなりあります。

 「いや多少は余裕があるけど」というと、
 「それではしばらくお待ちいただく間にここで充電させて頂きます」
 とのこと。
 「それではお願いします」
 と素直に従ったのにはわけがあります。
 それはそのお兄ちゃんが、PCをごちゃごちゃやっていた結果として、
 「お客様は契約時に保険に入っていらっしゃいますので、バッテリー一個分は無料です」
 とのたもうたからです。
 懐から飛び出しそうだった英世様が三人お揃いで、きびすを返してお戻りになるのが目に浮かんだわけです。

 居心地のいいソファで、ちょうど早く読まなければと思って持ち歩いていた本を読む時間
ができました。
 
 時間が経過し、「それではもう行きますから」と渡してもらった携帯の充電量は、約六〇%ほどでした。
 それでも、バシャバシャ写真を撮ったらすぐなくなることはわかっていましたから、その日ちょっと惹かれたものがあっても、こんなものはとは我慢しました。

        

 それから三日目、無事電池は届きました。
 さあ、これでまたバシャバシャ撮るぞと張り切っている次第です。
 でも、この間の少ないバッテリーでのやりくりのなかで、あまりくだらないものは撮らない、撮るときにはアングルや距離など考えて最良のものを撮るとうことをあらためて意識しました。

 だいたいデジカメは何枚撮っても気に入らぬものは消去できるし、PCに取り込んでトリミングやら、色調やらコントラストなども編集できるということもあって、無造作にシャッターを押しがちです。
 私はマニュアルカメラもいじるのですが、こちらはフィルムというものに対象が刻まれるのですから疎かにはできません。野球でいう「一球入魂」の境地が求められます。

 それからもう一つ、PCを使い始めてからの一貫した疑問なんですが、誤って消去した文章、あるいは不注意で飛んでいってしまった文章、そして画像たち、それらはいったいどこへゆくのでしょう。

 私にはそれらが一度起こってしまったこととして完全に消えてしまうことはありえないような気がするのです。たとえば、どこかの宇宙空間にそれらが堆積している場所があって、そこでは、消されてしまった文章や画像、音源などがひしめき合い、自分たちの不遇を嘆いているのではないでしょうか。
 それらはまさに、次々とめまぐるしくグレードアップされてゆく機器とソフトに代表されるIT文明の墓場でもあります。
 いずれにしても、不本意に短命に終わったものたちがそこでひしめき、嘆き合いながらそのルサンチマンという負のエネルギーを蓄積させ、ついにはその便利さに踊らされている私達の頭上に落下してくるのではないかなどと夢想するのです。

   ホラ、また一行削除した。
   ああ、削除したものが闇の空間に吸い込まれてゆく。
   その先には、私やあなたが削除し、消去したさまざまな残骸たちが、
   その墓標もないまま折り重なり堆積され、
   膨大な負のエネルギーを蓄えつつある。
   そして、そう、真理はいつもこうした廃棄物の中にある。
   原子力発電所が吐き出すものたちのように。

コメント (2)
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