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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

廃屋・文部省唱歌・硫黄島・そして紀貫之

2011-12-10 18:01:10 | 歴史を考える
 私がある種の廃屋フェチだということはもう何度も述べてきました。
 寒いけど天候には恵まれた師走の一日、定期的に観察している廃屋のひとつを訪れました。
 今年は柿の生り年か、大小二本の柿の木はたわわに実をつけていました。しかしその間にある家はもう殆ど全壊状態に近いほど崩れ落ちていました。

       

 これをほぼ同じアングルから撮した三年前のやはり12月の写真とお比べいただくとよくお分かりいただけるだろうと思います。その折にはまだ家の輪郭はかろうじて保たれていました。
 また、三年前に比べ今年の柿の実の付き方がはるかに多いこともお分かりいただけるでしょう。

       
         上の写真の三年前です 時間が見えますね

 さて、私がなぜ廃屋に惹かれるのかは自分ではよくわからないのですが、そのひとつのルーツは小学校の高学年か中学生の頃覚えた唱歌の「故郷の廃家」にあるようです。
 この物悲しい歌はなぜかわたしの胸をうつものがあったのです。

   幾年(いくとせ)ふるさと、来てみれば、
   咲く花鳴く鳥、そよぐ風、
   門辺(かどべ)の小川の、ささやきも、
   なれにし昔に、変らねど、
   あれたる我家(わがいえ)に、
   住む人絶えてなく。

   昔を語るか、そよぐ風、
   昔をうつすか、澄める水、
   朝夕かたみに、手をとりて、
   遊びし友人(ともびと)、いまいずこ、
   さびしき故郷(ふるさと)や、
   さびしき我家(わがいえ)や。


 というのがその歌詞ですが、作詞は犬童球渓(いんどうきゅうけい)です。そして作曲はウィリアム=ヘイス(W.S.Hays )というケンタッキー出身のアメリカ人だそうです。
 なお、この犬童球渓というひとは、やはり物悲しさが漂う「旅愁」の作詞者でもあります。なおこちらの方の作曲はジョン・P・オードウェイ(John P. Ordway)といい、やはりアメリカの作曲家です。

 さて、「故郷の廃家」ですが、後年知ったことによるとこの歌の哀愁を引き立たせるもう一つのエピソードがあります。
 それはすぐる大戦の末期、硫黄島での戦争で日本軍はまたしても無謀な玉砕を敢行し、20,000名余の戦死者(あの小さな島でですよ)を出すのですが、そのうちに少なからずの少年兵たちが居たというのです。

 彼らは昼は米軍の猛攻を逃れて洞窟に身を潜めているのですが、夕刻、攻撃が止むと洞窟を出て、故郷の方角を向きこもごもこの歌を合唱したというのです。しかしやがて、彼らの歌声も戦火によって完全にかき消されていったのでした。

 こうした事柄がない混ぜになって私に廃屋への関心をもたらしているのかも知れません。重ねて私自身の自出に関わる思いも多少はあるのかも知れません。

       
 
 ところで、もう一箇所、私がウオッチングを続けている廃屋があります。
 最初の写真は数年前のものです。
 そして次のものは一昨年のもので、家を覆っていた草木はある程度取り払われています。そして横手に通じる細道には人の往来しているような跡がありました。ひょっとして誰かが住んでいるかも知れない感じがあるのです。住んでいなくとも出入りはあるようです。
 そんなこともあって、あまり嗅ぎ回らないことにしていますが、そろそろどうなったかを見にゆきたいと思っています。

       

 昭和30年代後半から40年代の高度成長期、当時アマゴ釣りやイワナ釣りに呆けていた私は、あちこちの山村で過疎化や集団離村による廃屋を見たことがあります。それと同じような事情によるものと思われる幾つかの廃墟を、先般の中国の山村への旅でも見てきました。

 いま、日本では大型の廃墟が問題化しつつあります。老朽化し更新されつつあるものはともかくとし、バブルの崩壊以降、倒産などで放置されている店舗などの数々です。
 街道筋を走ると、放置されたモーテルやドライブイン、パチンコ屋などがいたるところに散見されます。

 大型の観光施設などでもそうです。この辺りでは、三河三谷の「ふ◯ぬき」、定光寺の「千◯楼」など、かつてはそれぞれ隆盛を極めたものが今や手が付けられぬほど無残な姿を晒しています。
 それらへの侵入者は絶えず、放火などの危険な事例もあります。
 また、殺人という無残な事件の舞台となった遊技場跡もあります。
 こうなると、廃墟や廃屋を終わりゆくものへの哀愁の眼差しのみで見ていることもできなくなります。

 いささか話が殺伐としてきましたので、最初の私がウオッチングしている柿の木のある廃屋に戻りましょう。
 ここで私が「紀貫之もすなるうたというもの、六もしてみむとてすなり」とばかりに一首詠んでみました。

  人はいさ心も知らず廃屋の柿ぞ昔の色に染まれり

 元歌、「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(出展『古今集』春上・42)からパクったパロディです。



 

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もう始まっていた悪夢の始まり・カルト・壊滅

2011-12-08 16:06:18 | インポート
 12月8日を迎え、思いつくままに以下のことを述べておきたい。

        

 ちょうど70年前の今日、真珠湾への奇襲攻撃であの無謀な戦争は始まった。
 あの戦争は、ABCD包囲網により日本が引っ張りこまれた戦争だという修正主義的な見方もあるが、火蓋を切ったのは日本であったことには間違いない。
 しかも、それ以前から日本は大陸や東南アジアでゴソゴソやっていたのだから、自分たちを一方的な被害者に仕立てようとしてもそうはゆくまい。

 百歩譲って、それら包囲網のなかでのどうしようもない状況から抜け出すための開戦だったとしても、戦争が「政治や経済の延長」だとしたら、落とし所、落ちどころの計算がなければならない。
 しかし、そんな冷静な計算はどこにもなかった。
 初戦の奇襲の成功で浮かれ立った日本軍にとってはそれゆけドンドンがあるのみだった。

 後でこの戦争の具体的な過程を調べると、日本軍が押していたのは開戦後のほんの僅かな時間で、分不相応で補給のあてもない戦線拡張を行ったあとは、その戦線もズタズタにされズルズル後退していたのが実情であった。
 それでも大本営は戦勝を叫び続け、ますます収拾のつかない泥沼へと落ち込んでいった。

 その愚を指摘する勢力はもはやなかった。明治から、大正の束の間の明るみを経て昭和へと至った過程で、日本の思想や言論の自由は徹底して奪われ、破壊され尽くしていた。それは、現在の北朝鮮と同様、ないしはさらに過酷だったとも言える。
 今でこそ殊勝なことをいっているマスコミもまた、大本営に輪をかけた報道で国民を鼓舞し、洗脳していった。だから、日本国民のかなり冷静な人たちも、敗戦間際になっても、そんなにズルズルに敗けていることはほとんど知らなかった。
 また、知識人や文化人といわれた人々も、あらゆる科学や芸術の分野を総動員して、そうした戦意高揚の手先となり、国民の洗脳を請け負っていた。
 
 戦争反対など叫ぼうものなら、官憲による弾圧もさることながら、それ以前に徹底的な皇民教育で洗脳されていた群衆によって、袋叩きにされ火をかけられていただろう。
 戦争末期、空襲や戦死者の激増のなか、「この戦争は負けるかも知れない」とつぶやいただけでそれをチクられ憲兵隊に引っ張られたケースがいくらもあった。

 対戦国の科学力や物量的優位に対し、ただひたすら精神力でもって立ち向かうことが強いられた。相手の重火器に対して日本軍は「消耗品としての兵力」の数とその無謀な突撃で対峙した。国内においてはB29の来襲に残された老人や女性、子供たちが竹槍で立ち向かうことが強制された。

 いよいよ最終局面になり、沖縄での地上戦で民間人を盾にした「武士道」にあるまじき無様な敗戦を喫した折、次は本土総決戦といわれた(沖縄は「本土ではなかった」ことに注意)。一人一殺(上陸してくる相手一人一人と刺し違えよということ)が叫ばれ、一億総玉砕が叫ばれた。
 しかし考えてもみるがよい、日本人すべてが死しても行うべき戦争とは一体何だったのか。ヤクザの意地の張り合いですら皆殺しになる前に、「手打ち」というものがある。

 加えて、元寇の役の「歴史的経験」が誇大にかつぎあげられた。
 敵が上陸する際には必ず「神風」が吹いて、敵の上陸を阻むというのだ。
 これではまるでカルト教団と同じレベルであるといわれても致し方あるまい。

 一億総カルトの目を覚まさせたのは広島と長崎の犠牲においてであった。
 これでもって米軍の原爆投下を正当化するむきがあるが、これに与するわけには行かない。いくら戦争を早期に終結させるためとはいえ、その兵器のもつ残虐性は覆うべきもないし、また、これこれの命を救うためには、そうではない命が犠牲にされてしかるべきだという論理にも与しかねる。
 広島と長崎の悲劇は、日本軍部のカルト的頑迷さと、米軍による残虐兵器の実験との共演によってもたらされたといってよい。

 今日はその愚かな、おおよそ4年間にわたる歴史が決定的な第一歩を踏み出した記念すべき日である。
 それは、私が3歳の時であった。
 そして1945年、敗戦時、私は国民学校一年生で、いっちょ前の少国民として、空襲警報に逃げ回りながらも、一人一殺をどう遂行すべきかに思いを凝らしていた。

   この戦争で犠牲になった内外の多くの人々の霊に合掌しつつ・・・

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師走のなんだかよくわからない日記

2011-12-07 01:26:09 | よしなしごと
 これは師走のある日の日記です。
 訳のわからないことを言っていますが、ようするに名古屋へ出かけ、映画を一本観てから都心部を歩き、ある集まりに出かけ、帰って寝たという単純な事実なのです。

       

       
 
 どんよりした冬空につかの間の光が差し込む
 あの雲はきっとゆうべの夢にでてきたやつだ
 その折私は悪態の限りをついてやったはずだ
 素知らぬ顔をしているのはたぶんそのせいだ

       
 
 映画館の白いスクリーンは未開の平原だ
 いろんなものがやってきてやがて消える
 消えるのとやって来るのが重なりあって
 虚妄にして強靭な万華鏡の舞を披露する

       
 
 師走の街では赤い色が増殖し続ける
 なんとかロースの赤いコスチューム
 テカテカとした紙の赤いラッピング
 まさにアカイアカイシワスシワスだ

           

                

 赤く染まらないままで佇む石の形がある
 実用性とは全く関係もなく彫られていて
 だからこそその存在感がみなぎっている
 無駄であることは素晴らしいことなのだ

       

 ひとにてらうわけでもなく赤いものもある
 たとえば都心の舗道の片隅の一握りの紅葉
 ちょっと立ち止まってみるのもいいだろう
 師走の街の喧騒がフェイドアウトする瞬間
 

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 今夜はこれっしきゃないでしょう。 

2011-12-05 18:01:58 | 音楽を聴く
 モーツアルト『レクイエム』(死者のための鎮魂歌)<K626>
 今日は彼の220年目の命日で、ご承知のようにこれが遺作です。

 20年前、没後200年祭のザルツブルグでに行き、彼が洗礼を受けたという大聖堂でこれを聴いた時、不覚にも涙しました。
 宗教音楽のアウラはやはり教会にこそあるのかもしれません。

 http://www.youtube.com/watch?v=aQ7rqC23LOE
 http://www.youtube.com/watch?v=lrXdyJzHpE8
 http://www.youtube.com/watch?v=P6riJuxfPIY

 引用したのはその内の第1曲「イントロイトゥス」、第3曲「アニュスディ」と第8曲の「ラクリモサ」ですが全曲どの部分もいいと思います。
 旋律として繊細で私が心揺さぶられるのは第8曲です。

 指揮はかつての名指揮者カール・ベーム、ウィーン交響楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団などで、録音は30年以上前のものです。
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111年前、あなたは何をしていましたか?

2011-12-05 02:55:58 | 歴史を考える
 郵便局や銀行、書店へ徒歩で出かける道すがらに、の鎮守の森があります。
 「三角形の二辺の和は他の一辺より長い」という幾何学の近道を教える原理にのっとり、往々にしてこの境内を横切ります。
 昼なお暗く鬱蒼とし、どことなく霊気漂うといた雰囲気ではありませんが、昼中でもあまり人の気配はありません。

 かつてここへ来たばかりの何十年か前には、格好の子供たちの遊び場で、いつも子供たちが群れなし、わが娘や息子もここで近所の子と遊んだに違いないのですが、ここ何年もそれらしい子供たちを見たことはありません。
 境内にあった滑り台もブランコも鉄棒も、いつの間にかすっかりなくなってしまいました。

 私がガキの頃、寺や神社の境内はとてもいい遊び場でした。適当な広さで樹木があり、季節ともなると蝉や甲虫などの昆虫が出没し、また四季折々の社寺が催す信仰行事も子供たちにとっては楽しいリクレーションでした。
 今や少子化と子供たちの生活様式の変化で、社寺はそうした機能をすっかり失ってしまったようです。

       

 今やこの静寂な場は、さして信心深くなはい私の癒しの場です。
 やれサクラが咲いた、マンジュシャゲげがが咲いた、ツワブキが咲き誇っている、モミジが紅葉したなどなどと四季折々の様相を楽しんでいます。

 師走に入って草木も枯れる時期を迎えると、地表にひっそりしていたものが目立ち始めます。
 ここに紹介する石碑もそうです。
 石碑といってもその土台を含め、高さは50センチもないくらいで、当初私は無縁仏の墓かなぁと思ったりしていたのですが、考えてみたら神社の境内に墓というのも変な話です。

        

 その正体を知ったのは近年のことです。
 その石碑には以下のように刻まれています。

       納 奉
    も  け  明
    み  や  治
    ぢ  き  三
    三     十
    十  六  二
    本  本  年
          植
          付


 
 ようするに明治32年(1899年)、今から111年前にこの神社の境内に寄進された植樹の明細なのです。

 で、今はどうかというと正確には数えてはいませんが、確かにけやきは数本が大木となっています。一方もみじの方はおおよそ10本弱が健在で、時期になると美しく紅葉します(残念ながら今年はダメでした。おそらく気候条件によるものでしょう)。
 このもみじ、もし30本すべてが健在で美しく紅葉したらかなりの見ものだと思います。どういう事情で10本足らずになってしまっかのかはわかりませんが、いささか残念ですね。

 とはいえ、この碑は私の癒しの場であるこの地の樹木たちが、今から111年前に植樹されたものであることを伝える貴重なデータです。

 事件の連続ばかりが歴史ではありません。
 このささやかな植物たちの由来を物語る石碑もまた歴史的記述といえます。
 この丸い石に彫られた文字とあたりの木々を見比べながら、深い感慨にしばしふけったのでした。

 ちなみに、明治32年(1899年)はどんな年だったかはまさに様々なことがあってとしかいいようがないのですが、年表で見る限り各地で大火が多かった年ですね。
 同年の8月には富山で5,000戸が消失する火事があり、横浜では3,200戸が消失しています。そして9月には函館で2,000が火に呑まれています。
 当時の家屋は、木と紙と土が基本でしたから、火には弱かってのですね。

 この日本家屋の特徴はその後も続き、すぐる大戦での米軍による焼夷爆弾が猛威を振るった要因です。米軍はコストの安い爆弾で日本の家屋を総なめにすることができたのです。
 火の話をしてきましたが、東京にはじめて水道が給水され始めたのもこの年だそうです。

 鎮守の森の石っころのようなものからも歴史への門戸は広がるものですね。
 1899年、あなたは何をしていましたか?
 この9年後、今はなき私の養父が生まれています。
 私が生まれたのはこの39年後のことです。


 

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感謝・感謝!

2011-12-04 03:36:02 | ラブレター
          

 名も無き老爺のブログですが、いつの間にか延読者数が24万を突破致しました。
 三つから上の数が定かではない私にとりましても、この数の重みはわかります。

 ここを訪れていただくみなさんを失望させないだけの質を維持できたらと思うのですが、すでにしてそれも危うくなっています。
 色々な意味での勉強あるのみでしょうね。

 もとより浅学の身、これらの記事自身が皆様に資するところはなかろうとも、どこかでご感興をを共有できたらと切に願う次第です。
 今後とも温かい目でご笑覧くださいますよう、ひとえにお願いもうしあげるしだいです。

 向寒のおりから、風邪のため「六文銭の部屋」へご欠席ということなどありませんよう、十分ご自愛下さいませ。
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図書館と美術館との間の南京ハゼ そして他者問題

2011-12-03 01:34:34 | 写真とおしゃべり
 わが家の菊へのオマージュに続いて、ここ数年間、定点観測を続けている岐阜県立図書館と県立美術館の間にある南京ハゼについても触れねばなるまい。
 毎年、四季折々に写真と共に報告してきたが今年はこれが最後になる。というより今年はあまり報告をして来なかった。

        
          12月2日現在 上の方の葉はもう散ってしまっている

 どうしてかというと、春に栗の花に似た匂いのする房状の花をつけ、やがてそれが青い実となり、その表皮が褐色になって中から白い実が顔を出す頃になると美しく紅葉するという一連の過程が、なんだか例年に比べ精細を欠いていたからである。
 つまるところ私自身が感動するような美しさにめぐり合わなかったからといっていい。

 もちろんそれはこの木のせいではない。この木はただ、与えられた自然条件に反応しながら自分の生命を維持する営みをまじめに果たしてきただけだからである。
 そして今年のそれが精彩を欠いていたとしても、おそらくそれはこの条件下においてのベストの反応であってそれ以外ではありえなかったといえる。

        
               さあ、いつ散ろかというさざめき

 それに対して、精彩がどうの感動がどうのとご託を並べるのは、こちらの勝手な、しかも私という偏狭な経験の束がもたらす主観的な美意識によるものに他ならない。

 私たち人間は、動植物や自然現象に対して当然のようにこうした主観的な評価を押し付けている場合が多い。
 それが高じて、美しいものとそうでないもの、鑑賞すべきものとそうではないもの、評価の対象にもならない虫けらや雑草などというランク付けがされることとなる。

        
          年によっては全部の葉が真っ赤になるときもある

 こうしたランク付けは一度成立すると意外と頑固で、ふとしたはずみに雑草や虫けらの中にきらめく美しさを見出しても、「これは雑草や虫けらだから」とまたしても評価外のランクへと突き落とすことにもなる。

 これはたぶん、私の中の他者評価の構造をも示している。
 他者を自分の主観的な鋳型の中へと嵌めこみ、評価し、そのことによって自分は揺らぐことのない自己同一性の中に憩うことができる。
 しかしそれは、他者の他者性を了解し損ねることであり、併せて自分の可変性をも損なうことではあるまいか。

        
             20日ほど前の同じ木 まだ青い葉もある

 などといくぶん高邁な調子で書いてきたが、実はこれ、前世紀の後半以来(厳密にはもっと前から)多くの思想家たちが手を変え品を変え語ってきたところで、では他者了解のその処方はなにかということも縷々述べられてはいるものの、例えば私などが平易に理解できるものは少ないように思う。

 一番理解できそうな言い方は、他者、並びに他者を取り巻く諸条件に関するおのれの「想像力」の拡張ということだが、その想像力がどのようにして涵養されるのかというとそれがわからない。

        
             同じく20日ほど前 こんな実がなっていた

 といったことで冒頭の南京ハゼに戻ろう。
 私の主観的な感傷はともかく、彼らがここまで頑張ってきたことを伝えねばなるまい。それがこれらの写真である。

 しかし、定点観測は面白い。
 この木の今年の変化を、しかもその例年との違いを、それと捉え得た人は少ないだろうと思う。
 私はそれをキャッチした。それでもって、それがこの木への私の「愛情」といってもいいのではあるまいか。
 

 

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