六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ある拉致現場

2011-01-13 00:49:30 | 想い出を掘り起こす
     

 若い人、特に中高生以下の人には、これがなんであるのか、もっと正確にいうと何があったところなのか分からないひともいるかもしれない。ひょっとしたら、年配の人でも「さて、なんだったろう」とそれを思い出すことが出来ない人がいるかも知れない。
 断っておくが、男子用のトイレ跡ではない。

 かつてはこの一つ一つの仕切にある通信機器が備えられていた。そう、公衆電話が設置してあったのである。
 あるときから次第に設置台数が少なくなり、ここではご覧のようにかつて6台あったそれらがすべて撤去され、その痕跡がこれである。

 最盛期には、これらすべての仕切で人がはなし、それをじりじりしながらうしろで待つ人もいたろう。
 高校生の他愛もないおしゃべり、恋人同士のささやきや痴話げんか、「今日はこれから残業でね」という浮気男の言い訳、じじばばが孫へのお土産を確認する会話などなど、どれほど多くの言葉がこの空間で渦巻いたことだろう。

 今、それらが携帯にに取って代わられ、メールに取って代わられたことはいうまでもない。
 しかしこの有様はあまりにも過激ではないか。携帯を持たない者たちは他者との意思疎通を望まない者たちであると宣告しているに等しいようなものである。

 先般、平均年齢76歳の集まりでも、誰某と誰某は死ぬまでデジタルに屈しないであろうという話が出たが、彼らは決して蟄居しているのではなく、逆に、きわめてアクティヴなのである。外出中にどこかへ連絡をする折など、公衆電話を探すのにおそらく苦労していることだろう。

 ところで、私のデスクの引き出しの中では、かなりのテレフォン・カードが眠っている。
 どうしたものだろう。
 電話代の現金の代わりに電話局へ持って行くとそれで受理されるという話を聞いたことがある。しかし、今や電話代などはほとんど引き落としで、それをもって局へ行く機会もない。
 誰かその処理に詳しい方がいたら教えて貰いたいものである。

 このテレカ、全国には随分眠ったままのものがあるのではないだろうか。
 ということは、NTTはそれらを売りつけっぱなしで、その対価を全く払っていないことになる。そして冒頭の写真の如く、それを使用する機会をも奪ってしまっているのだ。

 「街角の公衆電話拉致される」という川柳を詠んだのはもう何年も前(某紙に採用)であるが、その頃はまだ、多少は見かけたものだ。しかし、現在の事態は冒頭の写真のごとくである。
 かつてここで放たれた無数の言葉のかけらたちが、かすかなさざめきとなって今も渦巻いているいるような気がしないだろうか。

 写真は名古屋市内の地下鉄駅構内のもの。
  それなりに人通りの多い一角である。

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成人の日に・・・いまなお残る元服式

2011-01-10 16:38:57 | 想い出を掘り起こす
 前回の成人式と元服の続きのような話ですが、旧・徳山村に伝わる成人式=元服式の話をしましょう。
 なぜ元服式かというと、この儀式に臨む若者たちは、昔ながらの15歳の男女(中学3年生)なのです。

  この儀式、実はわが家から北西に当たる揖斐川上流の徳山村に代々伝わってきたものですが、残念ながらもうその徳山村は存在しません。
 日本有数の巨大ダム、徳山ダムの完成により全村が水没してしまったからです。

  このダム、当初の予定がめまぐるしく変わり、4,000億近くをかけて完成はみたものの、未だその用途が確定せず、時折「観光放水」などという馬鹿げたショウをおこなっているのですが、今回、またまた何千億かの金をかけて、せっかくためた水だから木曽川や長良川へ流しましょうという生態系も何も無視した土建屋行政の尻ぬぐいが企画されています。それについてはいろいろ述べてきましたので今回はこれに留めます。

     
 
  さて、それなのになぜその伝統的な儀式だけが残ったかと言いますと、水没により追い出された元の住民たちは、岐阜市やお隣の本巣市、北方町などなどに移住したのですが、せめてかつての村の風習、文化を残したいと、毎年、旧住民の子孫のうち15歳となった人を対象にこの儀式を行っているからです。

  その詳細を、今日のNHKニュースはこの様に伝えています。

  「今から20年余り前、ダムの建設のため無くなった岐阜県の旧徳山村に伝わる伝統の元服式が、岐阜県本巣市で行われ、村民の子孫にあたる中学3年生たちが、 大人としての門出を祝いました。昭和62年に徳山ダムの建設のため無くなった旧徳山村では古くから、15歳の子どもが大人としての門出を祝う元服式が行わ れてきて今は、村民が移り住んだ本巣市の神社でこの行事が続けられています。10日は、旧徳山村の住民の子や孫にあたる5人の中学3年生の男女が、はかま 姿で参加しました。宮司が祝詞をあげ、くしで髪を整える「理髪の儀」と、男子の頭にえぼし、女子に冠をかぶせる「加冠の儀」が行われました。最後にみこが 舞いを披露して元服を祝いました。」

          

  参加者は年々減少してるようで、昨年は10人を数えたものの、今年の参加者は5人のみです。淋しいですね。
 もっとも一つの村を根こそぎもいであちこちへ分散させてしまったのですから仕方ないでしょうね。

  元服式を終えた女の子が、「これから受験勉強です」と答えていたのがとてもかわいらしかった。

ちなみに、私はもちろん旧村民ではありませんが、徳山村へはアマゴや岩魚を求めてしばしば行ったことがあります。
 時間の流れを異にするような静かな集落のたたずまいを今でも思い起こすことが出来ます。
 最近はじめた同人誌の先達に、旧徳山村の住人で、それについての著書もあるOさんがいらっしゃるのも何かの縁だと考えています。


服式の写真は「岐阜新聞」、「中日新聞」などによる。
 徳山の現状は六の写真。

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成人式と元服 父は油坂峠を越えた

2011-01-08 02:24:48 | 想い出を掘り起こす
                 写真は関係ありません。

 10日が成人の日、へ~、そうだっけ、15日じゃなかったの?と私のような昭和人間は改めて驚く。
 もともと成人の日はかつての元服式が小正月の15日に行われたことに基づく。
 しかし、2000年頃からか、近くの日曜日にくっつけた方が故郷へ集まりやすいからなどの理由で固定した日ではなくなった。

       

 話は大きく逸れるが、私の亡父(実父ではなく養父)は酒好きであったがあまり外に出ず、うちでの晩酌派であった。
 一人の手酌では淋しいので、まだ高校生ぐらいの私に「お前もどうだ」と勧めたが、その都度、先年亡くなった母に「まだ子供だからダメです!」とたしなめられていた。
 しかし、それへの父の返事が面白かった。
 「何いってるんだ。昔なら15で元服を済ませば立派な大人だ。わしなんかは15歳の初陣よりだなあ・・・」と自分の経歴の話になるのであった。

       

 実際のところ父は、高等小学校を卒業(現在の中学2年)と同時に、まだ残雪のある油坂峠を柳行李ひとつを担いで福井県側から越え、岐阜の材木屋へと奉公に出たのであった。時に1923年のことであった。
 丁稚奉公はつらいことも多かっただろう。一人、大垣までの20キロほどの距離を大八車で材木を運んだ折、長良川の橋への取り付け道路の坂を登ることが出来ず、見かねた通行人が後押しをしてくれた話を聞いたこともある。
 それが順調に年季明けまで漕ぎ着け、自分の店を持ったとたんに戦争にとられ、暖簾を畳まねばならなくなった悔しさはいかばかりだったろう。

       

 零下40度のシベリアでの重労働を伴う抑留生活から解放されて、知人のつてで材木屋に就職し、さらに紆余曲折があってやっと自分の店を持つことが出来たそんな頃が、ちょうど上に述べた晩酌のエピソードの頃である。
 父にとっては、大きな回り道を余儀なくされながらやっと再び暖簾をあげることが出来た喜びに満ちた頃であったに違いない。

 ついでながら、「われ十五歳の初陣より、敵に後を見せたることはなく・・・」は確か講談の大久保彦左衛門の台詞であったと思うが、父はその台詞を引用していたのだと思う。
 これも余談だが、実際には戦国の武将の初陣はもっと早かったようだ。記録によれば、織田信長は14歳、上杉謙信は13歳であったらしい。
 その年齢の頃の私といえば完全にガキであった。
 ただし、15歳を過ぎた頃から自意識だけ過剰な嫌なガキに変化したようだ。

       

 現代においての人間の自立の時期の遅れを、文化の発展に伴い、身につけるべき知識が増大したことによるとするようだが、そればかりでもあるまい。
 現在でも中学を出たのみで社会に出て行くひとがいて、その人たちも立派に働いているが、一方、大学卒の看板をぶら下げているだけのアホもいる(私もそのボーダーぐらいだろう)。

 その点父は、新聞を隅々まで読んでいたりして、その辺の大学出に負けない一般教養をもっていた。また、学識の量では計ることの出来ない、いわゆる智慧はたいしたものであった。
 
 自分の父を褒めすぎだと思われるかも知れない。
 しかし、私が一般には「あそこの息子は道を踏み間違えた」といわれるように連日、新聞やTVに出て(1960年当時)、同業者の会合などで「あんたんとこの息子さん、えらい派手にやっとりんさるなも」と揶揄されても、一切私を非難せず、「いや、あれにはあれの考えがありますから」とかばってくれた父を今でも尊敬しているのである。
 ちなみに父は当時の自民党員で、昨日、出産を公表した野田聖子の祖父、野田卯一の後援会の熱心なメンバーであった。

       

 私を養子にしたのはもちろん家業を継がせるためであったが、この不孝者はみなしごハッチを育ててくれたその大恩にも背いて、自分勝手な道へと逸れていった。しかし、それでよかったと思う。私のような中途半端な人間が継いでいたらあっという間にどうにかなってしまったろう。
 その点、妹夫妻は立派に父の後を継いでくれた。
 私は亡父の智慧はここでも生きていたと思う。

 成人式の話が、どうしてこんなことになったかというと、カレンダーを見ているうちに、昨1月7日が父の命日であったことを思い出したからである。
 命日すら忘れていた不孝な息子を、「あいつにはあいつの考えがあるから・・・」と父は許してくれるだろうか。





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傾く陽に光る雲と建物たち

2011-01-06 03:10:00 | 写真とおしゃべり
            

 夕焼け前の一瞬、陽射しが強く感じられ、それを受けたものたちが輝くことがあります。
 おそらく照射角度が対象を鋭く浮かび上がらせるのでしょう。

       
 
 これらの風景はすべて私の家から五分以内ぐらいで普通に歩いていて見慣れたものばかりです。
 しかし、この一瞬、日常とは違うまぶしさのうちに浮かび上がります。
 人工のものも決して悪くないなぁと思う瞬間です。

       

 人間も生涯の終わり近くに、一瞬でもいいから輝くことが出来ればいいですね。
 たとえ、だぁれも見ていなくともです。
<
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季節の混在の中で・・・春への兆し

2011-01-05 05:51:52 | 花便り&花をめぐって
 日本海側を中心に冬将軍が猛威をふるっているようだ。
 太平洋側は寒いことは寒いが、雪などの害はあまりない。

 わが家の周辺をつらつらおもん観るに、晩秋とまごうかたなき冬、そして春への兆しが共存しているようだ。

     

 これは紛れもなく冬の痕跡で、元旦に降った残雪がわが家の北側に今も残っている。もっとも雪国の人に言わせればそんなものは雪ではないといわれそうだが。

     

 晩秋の面影を留めているものもある。紅葉や黄葉がなお色鮮やかに残っているのである。写真は鉢植えの南天と、雪柳の現状である。

     

 紅葉ではないがこれも秋の置き土産だろう。
 秋に実る龍の髭(蛇の髭)の深い青色の実である。
 夏に小さな花を付けていたのだが、その後見逃していて、秋以来この青いルビーのような実を付けていたに違いない。
 見逃していてごめんよ。

         >

 水仙であるが、いわゆる花芽がでているのを12、3本確認しているにもかかわらず、この寒さで縮こまったままなのかなかなか花には至らない。
 各地で開花したという知らせが届いているというのにである。
 ラッパ水仙もあるがこちらの方はやっと芽が出始めた頃で、開花も日本水仙より一ヶ月ぐらい遅れるだろう。

             

 親父譲りの紅梅のつぼみも丸みがはっきり見えるようになった。
 しばらく前に、先走った一輪だけが花を付けたが、もうしぼんで枯れてしまった。

 季節は円環しながらそこに微妙な差異を孕み進んで行く。そこに春夏秋冬の刻み目を入れるのは人間の恣意的な限定に過ぎない。
 だから季節は不連続な連続として進む。
 芝居の一幕、二幕といった具合に進むのではない。
 それゆえに面白い。







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今年最初の川柳もどき さぐらならおらほがええといったひと

2011-01-03 02:28:36 | 川柳日記
 今年最初の「川柳もどき」ですが、すべて昨年の後半の作からの自選です。
 かつて知人に見せたところ、「こんなものは川柳ではない」といわれました。
 もちろん俳句でもありません。
 「川柳もどき」と自称する所以です。

       

ガラス
  透明であってガラスの深い罪
  ひび割れも自己責任のガラス拭く

減る
  流ちょうに笑い私が減ってゆく
  減るものをひたすらに打つキーボ-ド

       


  米洗う手になっている月曜日
  憎しみを少し交えて米を研ぐ

撮す
  斜めから撮せば遠くなるあなた
  モノクロの写真に過去の色がある

       


  昭和には昭和の掟 いわし雲
  うろこ雲剥ぎ天空の底を見る

掘る
  掘り出した嘘のかけらを磨いてる
  あの辺り掘って革命埋めたはず

       


  北方(きたがた)は正直な町北にある
  さぐらならおらほがええといったひと


  偉大なる尻ひっさげて象歩む
  哀しみをどすんと沈め象座る

       

広場
  広場に背向けて広場へ流される
  正論を広場に埋めて生き延びる
  広場へと追い立てられる鬼ごっこ
  広場から逃げ出してきたひとといる
   
雑詠
  完熟のトマトの歴史重すぎる
  甘言に騙されたふり梨を剥く
  指先にさざめく粒子 塩つまむ
  夕立を連れてあなたに逢いにゆく
  すすき刈る 無念無想の地が開く
  チマチマとした悪まとめ持ち歩く
  越えて行くひとみな肩を尖らせて
  そのむかし光る出口をもっていた
 

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初詣 猫の喧嘩とお年玉(私の元旦)

2011-01-02 03:13:21 | 写真とおしゃべり
 オイオイ、元旦早々喧嘩なんかするなよ。

 といっても、南北朝鮮だとかそんなややっこしい話ではない。

 起き出して窓を開けたら雪の白さがまぶしい。
 空も鉛色だしもっと降るのかなと寒がりやの私は警戒モード。
 しかし、陽が高くなり陽射しも強まるとみるみる溶け始めた。

     

 お屠蘇と雑煮をいただき年賀状などのチェック。
 出し忘れや意外な人からのものがあり、慌てて書き始める。
 で、それを出しに行く。

 雪は解けたが寒い。
 寒いから早く帰ろうと思わずにせっかく出てきたのだからついでにどっかへと思うのはやはり貧乏性なのか。
 どっかといってもそんなところはありはしない。
 結局は近くの鎮守様へお参りに。

     

       

     

 別に神道の信者でも信心深くもない。昔、私も元気で「寿限無」という飼い犬がいた頃は、除夜の鐘を聞きながら一緒に散歩かたがた近くの集落のお宮を三軒(飲み屋ではあるまいに三軒はないよな)はしごで初詣をしたこともある。
 このときも、お参りというより、振る舞われる暖かい甘酒目当てだったといっても良い。

 そんなことを思い出しながら近くの「比奈守神社」というところへいった。
 人影はまばらというか私と入れ違いに一人の男性が帰ってあとは静寂そのものだ。
 ゆっくり写真など撮って、横っ側から入ったので帰りはちゃんと参道をと歩を進めたら、なにやら異様なうなり声がする。

     

 見ると二匹の猫が顔をつきあわせるようにしてお互いに威嚇し合っている。
 喧嘩だ。餌の取り合いでもなさそうだし、雌を争っているわけでもなさそうだ。
 もちろん金銭トラブルでもないし、なんだかさっぱり分からない。

 いろいろ体勢を変えて睨み合っていたが、フギャァという鳴き声と同時についに壮絶なとっくみあいが始まった。私が見ていようがなんのその、むしろ取っ組み合ったまま私の足元付近まで来る有様。
 じじい、邪魔だ、退け退けといわんばかりの勢いである。

 あいにく猫の喧嘩の仲裁の仕方は知らない。
 「まあまあ、お互いよく話し合って・・・」などといっても仕方あるまい。
 ましてやそれがイデオロギー上の対立であったりしたら・・・。
 え?猫にはそんなものはない? あ、そう。
 じゃぁ、「正月早々喧嘩なんか・・・」といったって「正月なんて人間が勝手に作ったものだろう」といわれるのが関の山だ。

     
 
 で、どうなったかというと、そこへ夫婦と子ども三人合計5人連れの家族が登場した。
 男の子が、「あ、猫が喧嘩してる」と大きな声で言った。
 どれどれと家族が近寄る気配にやっと猫は駆け出しどこかへ消えた。

 ということは何かい?私一人の時は、こんなじじいの一人ぐらい居たってと平気だったというわけかい?
 そりゃぁ、いくら何でも老人蔑視ではないかい?
 そんなんだから、正月早々喧嘩口論(?)なんかするんじゃないかい?
 なんて、猫に徳目を訴えても仕方ないか。

 と、いうわけでうちへ帰ったがやはり寒い。
 そしたらそこへ、ネット上でのお知り合いの女性から素敵なお年玉が届いた。
 いくつになってもお年玉は嬉しいものだ。

     
 
 一つの箱にいろいろ入れていただいたのだが、そのうちいちばん可愛いものを紹介しよう。
 牛の角で作られたフクロウのストラップである。「牛の角」と書かれた楕円のカードの裏には「幸福を呼ぶ」と書かれている。
 これでもう、私の今年一年の幸せは保障されたようなものだ。
 この前日記に書いた「ミネルヴァのフクロウは黄昏に飛び立つ」というヘーゲルの言葉を思い出した。
 私は黄昏には飛び立てず、真夜中におずおずと巣を離れる臆病なフクロウに過ぎないが、このお守りはそうした私に勇気を呉れる。

 Aさん、ありがとうございました。
 今年の冒頭を飾るとても嬉しいお年玉でした。

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お年賀のご挨拶とお節料理をお届けします。

2011-01-01 00:50:24 | 写真とおしゃべり
    あけましておめでとうございます。
 
    年賀状をお届けします。

      
 
    私の手になる田舎風のお節もお届けします。
    どうか遠慮なくお召し上がり下さい。
    え?お酒?それは自前でどうぞ。
    参考までにこのお節に合うのはロマネコンティか大吟醸です。

      

    本年も隅から隅へとずず~いっとよろしくお願い致します。
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