若い人、特に中高生以下の人には、これがなんであるのか、もっと正確にいうと何があったところなのか分からないひともいるかもしれない。ひょっとしたら、年配の人でも「さて、なんだったろう」とそれを思い出すことが出来ない人がいるかも知れない。
断っておくが、男子用のトイレ跡ではない。
かつてはこの一つ一つの仕切にある通信機器が備えられていた。そう、公衆電話が設置してあったのである。
あるときから次第に設置台数が少なくなり、ここではご覧のようにかつて6台あったそれらがすべて撤去され、その痕跡がこれである。
最盛期には、これらすべての仕切で人がはなし、それをじりじりしながらうしろで待つ人もいたろう。
高校生の他愛もないおしゃべり、恋人同士のささやきや痴話げんか、「今日はこれから残業でね」という浮気男の言い訳、じじばばが孫へのお土産を確認する会話などなど、どれほど多くの言葉がこの空間で渦巻いたことだろう。
今、それらが携帯にに取って代わられ、メールに取って代わられたことはいうまでもない。
しかしこの有様はあまりにも過激ではないか。携帯を持たない者たちは他者との意思疎通を望まない者たちであると宣告しているに等しいようなものである。
先般、平均年齢76歳の集まりでも、誰某と誰某は死ぬまでデジタルに屈しないであろうという話が出たが、彼らは決して蟄居しているのではなく、逆に、きわめてアクティヴなのである。外出中にどこかへ連絡をする折など、公衆電話を探すのにおそらく苦労していることだろう。
ところで、私のデスクの引き出しの中では、かなりのテレフォン・カードが眠っている。
どうしたものだろう。
電話代の現金の代わりに電話局へ持って行くとそれで受理されるという話を聞いたことがある。しかし、今や電話代などはほとんど引き落としで、それをもって局へ行く機会もない。
誰かその処理に詳しい方がいたら教えて貰いたいものである。
このテレカ、全国には随分眠ったままのものがあるのではないだろうか。
ということは、NTTはそれらを売りつけっぱなしで、その対価を全く払っていないことになる。そして冒頭の写真の如く、それを使用する機会をも奪ってしまっているのだ。
「街角の公衆電話拉致される」という川柳を詠んだのはもう何年も前(某紙に採用)であるが、その頃はまだ、多少は見かけたものだ。しかし、現在の事態は冒頭の写真のごとくである。
かつてここで放たれた無数の言葉のかけらたちが、かすかなさざめきとなって今も渦巻いているいるような気がしないだろうか。
*写真は名古屋市内の地下鉄駅構内のもの。
それなりに人通りの多い一角である。
しかたなく、携帯を持つようになりました。
昔、小さな女の子が、受話器をとらずにお金を入れて、番号を押そうとしていて、操作が出来ず、困っているのを見て、おせっかいおばママが、受話器をとってからこうするの、とお金を入れたら、女の子が泣きべそからちょっといい顔になったことを、映画の切れ端のように、思い出したといっております。やっと電話器に届くほど小さな子どもだったそうです。
「それが嫌ならついてこい」といわれれば、やはり「自己責任」で老骨にむち打たねばならないのでしょうか。
http://hamsajapan.blogspot.com/2011/01/seminarbop.html
私の住む村から30分ほどの町へ行くと、商売をしている人たちはほとんどみな手機(ケータイのこと)を持っています。
で、中国の手機は、番号だけでメールができるので、私ももっぱらメールを使います。電話で話すのは難しいし、面倒だからです。
ところが、このメールをするためには、当然漢字を打ち込まなければならず、それにはアルファベットのピンインというものを使わなければなりません。これは標準語の発音記号にあたるもので、ましてやアルファベットなどわからない村人は、メールなどできない人がほとんどなのです。
でも、読むことはできるので、私が用事があってメールをすると、すぐに電話がかかってきて、強い方言でワーワーいわれるので、私はさっぱり理解できず、意思疎通するためにえらく困難が伴うのです。
方や文字が書けない、方や言葉が聞けない、という状況にたびたび遭遇し、何のための手機なのかさっぱりわかりません。
コメントありがとうございます。
箱にベルやハンドルがついていて、交換手に「何番をお願いします」といっていた電話の時代を知っているものには、隔世の感ですね。
Tさんとなつめさんの話は共通点があって面白いですね。
ところで私、共通機種とのショートメール以外は電話機と携帯カメラとしてしか使っていませんから、なつめさんのおっしゃる中国の人たちの手機の使い方と一緒ですね。