*写真は関係ありません。
10日が成人の日、へ~、そうだっけ、15日じゃなかったの?と私のような昭和人間は改めて驚く。
もともと成人の日はかつての元服式が小正月の15日に行われたことに基づく。
しかし、2000年頃からか、近くの日曜日にくっつけた方が故郷へ集まりやすいからなどの理由で固定した日ではなくなった。
話は大きく逸れるが、私の亡父(実父ではなく養父)は酒好きであったがあまり外に出ず、うちでの晩酌派であった。
一人の手酌では淋しいので、まだ高校生ぐらいの私に「お前もどうだ」と勧めたが、その都度、先年亡くなった母に「まだ子供だからダメです!」とたしなめられていた。
しかし、それへの父の返事が面白かった。
「何いってるんだ。昔なら15で元服を済ませば立派な大人だ。わしなんかは15歳の初陣よりだなあ・・・」と自分の経歴の話になるのであった。
実際のところ父は、高等小学校を卒業(現在の中学2年)と同時に、まだ残雪のある油坂峠を柳行李ひとつを担いで福井県側から越え、岐阜の材木屋へと奉公に出たのであった。時に1923年のことであった。
丁稚奉公はつらいことも多かっただろう。一人、大垣までの20キロほどの距離を大八車で材木を運んだ折、長良川の橋への取り付け道路の坂を登ることが出来ず、見かねた通行人が後押しをしてくれた話を聞いたこともある。
それが順調に年季明けまで漕ぎ着け、自分の店を持ったとたんに戦争にとられ、暖簾を畳まねばならなくなった悔しさはいかばかりだったろう。
零下40度のシベリアでの重労働を伴う抑留生活から解放されて、知人のつてで材木屋に就職し、さらに紆余曲折があってやっと自分の店を持つことが出来たそんな頃が、ちょうど上に述べた晩酌のエピソードの頃である。
父にとっては、大きな回り道を余儀なくされながらやっと再び暖簾をあげることが出来た喜びに満ちた頃であったに違いない。
ついでながら、「われ十五歳の初陣より、敵に後を見せたることはなく・・・」は確か講談の大久保彦左衛門の台詞であったと思うが、父はその台詞を引用していたのだと思う。
これも余談だが、実際には戦国の武将の初陣はもっと早かったようだ。記録によれば、織田信長は14歳、上杉謙信は13歳であったらしい。
その年齢の頃の私といえば完全にガキであった。
ただし、15歳を過ぎた頃から自意識だけ過剰な嫌なガキに変化したようだ。
現代においての人間の自立の時期の遅れを、文化の発展に伴い、身につけるべき知識が増大したことによるとするようだが、そればかりでもあるまい。
現在でも中学を出たのみで社会に出て行くひとがいて、その人たちも立派に働いているが、一方、大学卒の看板をぶら下げているだけのアホもいる(私もそのボーダーぐらいだろう)。
その点父は、新聞を隅々まで読んでいたりして、その辺の大学出に負けない一般教養をもっていた。また、学識の量では計ることの出来ない、いわゆる智慧はたいしたものであった。
自分の父を褒めすぎだと思われるかも知れない。
しかし、私が一般には「あそこの息子は道を踏み間違えた」といわれるように連日、新聞やTVに出て(1960年当時)、同業者の会合などで「あんたんとこの息子さん、えらい派手にやっとりんさるなも」と揶揄されても、一切私を非難せず、「いや、あれにはあれの考えがありますから」とかばってくれた父を今でも尊敬しているのである。
ちなみに父は当時の自民党員で、昨日、出産を公表した野田聖子の祖父、野田卯一の後援会の熱心なメンバーであった。
私を養子にしたのはもちろん家業を継がせるためであったが、この不孝者はみなしごハッチを育ててくれたその大恩にも背いて、自分勝手な道へと逸れていった。しかし、それでよかったと思う。私のような中途半端な人間が継いでいたらあっという間にどうにかなってしまったろう。
その点、妹夫妻は立派に父の後を継いでくれた。
私は亡父の智慧はここでも生きていたと思う。
成人式の話が、どうしてこんなことになったかというと、カレンダーを見ているうちに、昨1月7日が父の命日であったことを思い出したからである。
命日すら忘れていた不孝な息子を、「あいつにはあいつの考えがあるから・・・」と父は許してくれるだろうか。
10日が成人の日、へ~、そうだっけ、15日じゃなかったの?と私のような昭和人間は改めて驚く。
もともと成人の日はかつての元服式が小正月の15日に行われたことに基づく。
しかし、2000年頃からか、近くの日曜日にくっつけた方が故郷へ集まりやすいからなどの理由で固定した日ではなくなった。
話は大きく逸れるが、私の亡父(実父ではなく養父)は酒好きであったがあまり外に出ず、うちでの晩酌派であった。
一人の手酌では淋しいので、まだ高校生ぐらいの私に「お前もどうだ」と勧めたが、その都度、先年亡くなった母に「まだ子供だからダメです!」とたしなめられていた。
しかし、それへの父の返事が面白かった。
「何いってるんだ。昔なら15で元服を済ませば立派な大人だ。わしなんかは15歳の初陣よりだなあ・・・」と自分の経歴の話になるのであった。
実際のところ父は、高等小学校を卒業(現在の中学2年)と同時に、まだ残雪のある油坂峠を柳行李ひとつを担いで福井県側から越え、岐阜の材木屋へと奉公に出たのであった。時に1923年のことであった。
丁稚奉公はつらいことも多かっただろう。一人、大垣までの20キロほどの距離を大八車で材木を運んだ折、長良川の橋への取り付け道路の坂を登ることが出来ず、見かねた通行人が後押しをしてくれた話を聞いたこともある。
それが順調に年季明けまで漕ぎ着け、自分の店を持ったとたんに戦争にとられ、暖簾を畳まねばならなくなった悔しさはいかばかりだったろう。
零下40度のシベリアでの重労働を伴う抑留生活から解放されて、知人のつてで材木屋に就職し、さらに紆余曲折があってやっと自分の店を持つことが出来たそんな頃が、ちょうど上に述べた晩酌のエピソードの頃である。
父にとっては、大きな回り道を余儀なくされながらやっと再び暖簾をあげることが出来た喜びに満ちた頃であったに違いない。
ついでながら、「われ十五歳の初陣より、敵に後を見せたることはなく・・・」は確か講談の大久保彦左衛門の台詞であったと思うが、父はその台詞を引用していたのだと思う。
これも余談だが、実際には戦国の武将の初陣はもっと早かったようだ。記録によれば、織田信長は14歳、上杉謙信は13歳であったらしい。
その年齢の頃の私といえば完全にガキであった。
ただし、15歳を過ぎた頃から自意識だけ過剰な嫌なガキに変化したようだ。
現代においての人間の自立の時期の遅れを、文化の発展に伴い、身につけるべき知識が増大したことによるとするようだが、そればかりでもあるまい。
現在でも中学を出たのみで社会に出て行くひとがいて、その人たちも立派に働いているが、一方、大学卒の看板をぶら下げているだけのアホもいる(私もそのボーダーぐらいだろう)。
その点父は、新聞を隅々まで読んでいたりして、その辺の大学出に負けない一般教養をもっていた。また、学識の量では計ることの出来ない、いわゆる智慧はたいしたものであった。
自分の父を褒めすぎだと思われるかも知れない。
しかし、私が一般には「あそこの息子は道を踏み間違えた」といわれるように連日、新聞やTVに出て(1960年当時)、同業者の会合などで「あんたんとこの息子さん、えらい派手にやっとりんさるなも」と揶揄されても、一切私を非難せず、「いや、あれにはあれの考えがありますから」とかばってくれた父を今でも尊敬しているのである。
ちなみに父は当時の自民党員で、昨日、出産を公表した野田聖子の祖父、野田卯一の後援会の熱心なメンバーであった。
私を養子にしたのはもちろん家業を継がせるためであったが、この不孝者はみなしごハッチを育ててくれたその大恩にも背いて、自分勝手な道へと逸れていった。しかし、それでよかったと思う。私のような中途半端な人間が継いでいたらあっという間にどうにかなってしまったろう。
その点、妹夫妻は立派に父の後を継いでくれた。
私は亡父の智慧はここでも生きていたと思う。
成人式の話が、どうしてこんなことになったかというと、カレンダーを見ているうちに、昨1月7日が父の命日であったことを思い出したからである。
命日すら忘れていた不孝な息子を、「あいつにはあいつの考えがあるから・・・」と父は許してくれるだろうか。
台湾の蒋介石にも。自分の理論で経済を進めれば、失業も貧乏も無くなると、「第2国富論」と言うのを私財を投じて発行したり。ごめん。おしゃべりが過ぎました。
油坂峠越えの旧道はいいですね。
特に福井県側から岐阜県側に抜けると、ぱっと視界が開け、白鳥の街や牛道谷が見えたりします。
それに比べ、今の道路は便利ですが感動がないですね。
>さんこさん
へえ~、それは初耳でした。
その折のデータや出版物は、おじパパのお手元にはないのでしょうか。
あれば貴重な資料で、その解読だけで「遊民」5回分ぐらいの連載記事になります。
またそのお義父さんの生涯も小説になりそうですね。
おばママに、男性やその家系をテーマにした小説はいかがなものかをきいておいて下さい。
場合によっては大河ドラマの原作になるかも・・・。
捨て去られたそうです。冷笑した人の中に、90歳を超えたN大学の経済の先生も、入っています。その一人娘さんが、おばママの高校の同級生だったので、彼女から、聞き及んでいるそうです。
おばママに、才能が有れば、「国民の8割が良くない法律だと思っている法律なら、法を犯しても、いいんだ」と言って、統制経済に反対し、刑務所にもむねをはってはいったときいていることなど、物語にすれば、面白いけれどね。
誰かさんの「大学の先生嫌い」がうつりそうな話ですね。