六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

1960年6月15日  そして私

2010-06-15 00:11:36 | 想い出を掘り起こす
    1960年6月15日  そして私

    

    また、六月一五日がやってきた
    あの日からちょうど半世紀になる
    私はこの五〇回の六月一五日に
    ほとんど何も語ってはこなかった
 
    いわゆる六〇年安保という政治の季節に
    国会議事堂の南通用門という無粋な場所で
    私より一つ年上の女性が死んだ
    樺 美智子 享年二二歳

    彼女はたんに学生の一員ではなかった
    既存の政党などとは異なった
    新しい運動による新しい変革を夢見ていた
    その意味では当時、私は彼女の同志だった

    しかし、彼女や私が夢見た新しい運動は
    その後、幾度かの分裂を繰り返し
    その枝の一つに
    連合赤軍というストレンジ・フルーツを実らせた

    むろんそれは彼女の責任ではない
    が、生きていた私にはなにがしかの責任はある
    たとえそれとの直接の関わりもなく
    既に遠くへ離れていたとしてもだ

    問題は半世紀前に戻る
    私が彼女とともに新しいものを志向したとき
    まだまだ充分に考え抜かれていないことが
    残っていたのではないかということだ

    私たちは古い運動の中に腐臭を嗅ぎ
    それにスターリニズムという名を冠した
    まだ、サヨクにとってはソ連も中国も
    聖域であった頃のことだ

    しかし、私たちは、いや私は
    アンチ・スターリニズムという言葉に酔うのみで
    その怪物の正体を捉え損ない
    甘く見ていたのではないだろうか
 
    だからその後、四分五裂していった連中も
    よりピュアーなスターリニストであったり
    ミニ・スターリニストであったりしたのだ
    そして、その極限に連合赤軍が・・・

    今、私は半世紀前の宿題を抱え込んでいる
    この現実と向かい合いながら
    人々とともにあるということは
    いったいどんなことなのだろうかと

    老骨にむち打ちながら
    滑ったり転んだりして学ぶ滑稽な私を
    樺 美智子は笑うだろうか
    でも私は、彼女に答える言葉を持っている

    「オイオイ、笑うな
    これがあなたの早すぎた死に応答する
    私の唯一の仕方なのだ」と
    あなたをほんとうに「人知れず微笑」ますために

    半世紀前の六月一五日
    私は彼女とほとんど同じところにいたが
    それが私のアリバイにはならないばかりか
    むしろそれが、負のスタート地点であったことを
    充分、肝に銘じているつもりだ
 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軽やかなカオスの舞いを見た!

2010-06-13 00:53:30 | アート
 畏友、佐治墨拙さんの個展に行ってきた。
 題して 墨拙「&Chaos」展。
 カオス、つまりコスモス(秩序)の反対、ふつうは混沌といわれたりする。

 墨拙さんを紹介するにあたって、昨年までだったらさしずめ書道家といったであろう。
 しかし、写真で見るように、今年の墨拙さんの作品は書というより造形といった方がいい。
 かといって書という表現と手を切ったわけではない。
 もともと書を「字を書くこと」に限定してこなかった墨拙さんの中では、紙に墨で書かれる作品と、こうした造形作品との間に断絶はない。

    

 ただし、書道家としての根っこの様なものは確実に残してはいる。
 まずは紙へのこだわりである。
 この一見、絵画や造形に見えるものたちの正体はすべて紙なのである。
 それは出来上がった紙であったり、半製品の紙をかたどったものだったりするが、紙以外のものでは決してない。
 
 続いてその彩色である。
 一見、絵の具を用いたかのようだが、実はこれらの色彩、すべてその色をした墨を摺って描かれている。

    

 さらには、それぞれの作品にやはり文字がある。
 Chaosという文字が筆で書かれたり、あるいは染色技術の応用で染められている。
 そして、昨年の個展のテーマであった「ふ」の字が、いたずら描きのように隠されていたりする。

 注目すべきはこれらの重量である。
 みんな軽いのだ。
 風が吹けば四散するくらい軽いのだ。

    

 ところでどこがカオスかというと、そこに墨拙さん独自の解釈がある。
 ビッグバーンの原初以来、カオスはコスモスの裏面に張り付きながら存在し続けたし、むしろそれこそが支配原理かも知れないというのだ。
 カオスといってもぐちゃぐちゃな恐ろしげなものではない。
 カオスは何ものかとして規定されていない自由な存在だから、重量にも支配されず軽いのだ。

 かくして、軽やかで楽しげな可愛いカオスが並ぶこととなる。
 暗いルサンチマンや、秩序との対概念ですらもない、それ自身自由なカオスである。
 そしてそれは、墨拙さんが現にそこに住まい、そうあり続けたいというカオスなのである。

       

 私が訪れたとき、BGMはボサノバであった。
 カオスが軽やかに舞っていた。
 
墨拙「&Chaos」展
  *6月17日(木)まで
     11:00~18:00(ただし最終日は17:00まで)
  *ギャラリー安里 TEL 052 (762) 5800
    名古屋市千種区末盛通1-18 覚王ハイツ1F
    地下鉄東山線 覚王山下車 2番出口を左へすぐ

  本人は常時会場に詰めている模様。
  話しかけてやると喜ぶと思います。
   





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【観察】田植えが終わるまで

2010-06-11 00:10:53 | 写真とおしゃべり
 私の部屋から見渡せる田んぼの田植えがやっと終わりました。
 5月半ばにそのための作業が始まってからおよそ一ヶ月です。

  

 5月15日、午前、二面ある田の向こう側で田起こしの作業が始まりました。
 その日の午後、今度はこちら側の田で同様の作業が始まりました。

  

 この二面の田、長年にわたって向こう側は耕作されるのですが、こちら側は休耕田です。
 今年はどうなるのでしょう。
 とりあえず両方の田はこんな具合になりました。

  

 それ以来10日が経ってもなかなか田植えが始まりません。
 26日、近くの苗代のあるところへ見に行ったらこんな具合でした。

  
 
 6月に入り日頃は全く乾ききっているU字溝に地下からポンプで強引に汲み上げた水が流れ始めました。そしてそれは滲みわたるように田に引かれました。
 向こう側の田では早速田植え前の代掻(しろか)きが行われ始めました。
 6月2日のことです。
 こちら側の田は、水を引く気配もありませんし、代掻きもありません。
 やはり、今年も休耕するようです。

    

 それから四日目の日曜日(6日)、この地区の田では一斉に田植えが始まりました。
 向こう側の田でも始まりました。
 小型の田植機ですが、その手前は既に稲が植えられ手いるのが分かるでしょうか。
 田植機の横に見える緑が稲の苗です。

    

 植えられてすぐはこんなに頼りなげです。
 これでほんとうにたわわな米をつけるのでしょうか。

     
 
 それから3日ほど経った日、苗をもって田の中を行き来している人影があります。田植機ではうまく植えられなかったところ、ミスがあったところなどを補修しているのでしょう。

  

 各地で梅雨の話題などが聞かれるようになりました。
 春以来の天候不順も心配されるとのことですが、いいお米がたくさんとれるよう祈りながら、この田を見続けたいと思います。
 下の写真は去年の秋、この田で撮したものです。

  

  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川端康成とのランチ

2010-06-09 03:28:10 | よしなしごと
 岐阜に住みながら、長良河畔でゆっくりとランチなどを楽しむ、そんな機会はそうあるものではありません。
 それが、あったのです。
 過日、若い人たちと仕事がらみでちょっとした集まりがありました。
 仕事がらみといってもさほど固いものではなく、和気藹々としたもので、それがランチと重なったわけです。

   
 
 会場は「ホテルパーク」というところ。
 金華山麓、長良橋の袂という絶好のロケーションです。

   

 ロビーの外側のテラスは長良川が一望できます。写真左上、橋の手前の赤い屋根は、鵜飼い観覧用の屋形船です。
 満を持して夕刻からの出番を待っているところです。
 ついでながらテラス前の木々は桜で、花の時期には絢爛豪華な花のカーテン越しに長良川を見ることができ、またこれからの夏の時期には、蝉のフルコーラスのステージともなります。

   

 いよいよランチタイムです。
 たまたま、その日から始まるミニ会席の初日でした。
 味については書きません。どう書いても私の筆力に余るからです。
 その代わり、この食事をした部屋のたたずまいを書きましょう。
 窓の外はむせかえるような新緑です。
 そして見上げれば、わが岐阜のシンボル金華山と岐阜城が・・・。

   

 ここで食事をしながら仕事の話もしたのですが、はっきり言って仕事の話はあまり覚えていません。
 前は清流、後は緑為す山、そしてそこにうまいものがあったら、「仕事? あっ、そう」といった感じです。

 それでも結構話が弾みました。
 そろそろ部屋を引き払って、チェックインする夕方からのお客に備えるというタイムリミットまで話し込みました。

   

 部屋を引き上げてふたたびロビー、今度は川端康成の特設コーナーを見物しました。何でここに川端康成が?とお思いでしょう。
 実は、川端康成が一緒になりたいと思うほど惚れ抜いた伊藤初代さん(小説の中ではみち子さん)は岐阜の人なのです。
 
 川端康成は、東京で出会った初代さんが岐阜へ帰ったのを追っかけて、大正10(1921)年に三度にわたり、プロポーズのために岐阜を訪れているのです。
 その折に宿泊したのが、当時「みなと館」と呼ばれていたこの「ホテルパーク」なのです。
 結果としてその恋は成就しなかったのですが、その経緯は康成の「篝火」、「非常」、「南方の火」などの作品に見ることができます。

   


 さてこの特設コーナー、いろいろゆかりの品や記録が展示されているのですが、私のお気に入りは川端康成の「自画像」でした。ひょうひょうとして幾分とぼけた味があるその小品は、私の書斎(そんなものはありません)を飾るにぴったりかと。

 あ、食い物やロケーションの話ばかりで付き合ってくれた若い人たちについて書くのを忘れていました。みんな、クリエイト系の仕事をしている人たちで、ひたすらな雰囲気がよく伝わってきました。
 私のようなもののお守り、ご苦労様でした。
 これからもよろしく。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長良川を殺さないで欲しい! 官製 vs 市民大会

2010-06-07 03:59:20 | 社会評論
 第三十回「全国豊かな海づくり大会」という官製の催しが6月の12日13日の二日間にわたって岐阜で行われます。
 海なし県の岐阜で行われるのは滋賀県に次いで二回目で、海と山林や河川の有機的なつながりがやっと認識され始めたという点では評価すべきだと思います。

  
 
 地方自治体や小学生などを動員して様々な行事が企画されています。しかし、それらの行事がまことに形式的一般的で、まったく具体性に乏しいのです。
 「海をきれいにするには山や川をきれいにしましょう」・・・まことに結構な話でその通りなのですが、そのための現実的問題をきれいさっぱり素通りし、一般的な徳目やお説教に終始してしまっているのです。

  
 
 この大会は「ぎふ長良川大会」と称しているにもかかわらず、長良川で現在、まさに切実なに問題となっていることにすべて目をふさぎ続けようとしています。

 かつて、長良川は全国有数の清流として、その豊かな生態系を誇ってきました。たとえばその流域の人たちは、この川の鮎にまさるものはないと自慢していました。鮎のみならず、サツキマスなど海との循環が保証されている川として有名でした。
 しかし、その清流が今、危機に瀕しています。魚の種類も数も減少し、その生き残ったものたちも、小さく弱々しいものになってしまったのです。かつて、掌に握るに余るような鮎がいなくなってしまったのです。

  

 この間、何があったのでしょうか。
 長良川に限っていえば、明らかなのは河口堰の建設です。
 この運用から15年、この堰付近の日本有数のシジミ漁場は壊滅しました。
 長良川へ遡上する天然魚は、鮎やサツキマス、藻屑ガニなどをはじめ激減しました。もはやかつてのように最上部から海までの循環を誇っていた川が失われたのです。

 これだけ虐められた長良川を、さらに虐待する案が実現されつつあります。それは、4,000億円をも投じたにもかかわらず、なんの役にも立っていない揖斐川水系の徳山ダムの水を、さらに1,000億の税を使って、長良川や木曽川に誘導しようという事業です。
 この導水路にはなんの合理的な理由もありません。ただただ、4,000億を無駄遣いした言い訳のために,さらに税金を使ってアリバイをつくろうとするものに過ぎません。

     
  
 しかも、長良川などに導水される水は、徳山ダム底辺の水温も低く有機性を欠いた「死水」であり、それらが他の河川の生態系を著しく損なうことは誰の目にも明らかなのです。

 これらの問題にちゃんと向き合うのが「全国豊かな海づくり大会 ぎふ長良川大会」の差し迫ったテーマなのだと思うのですが、それらはこの大会の公式HPのどこにも見いだすことは出来ません。

  

 やはり、官製の公式の会議は、これまでの「政・官・財」の癒着の構造を俎上に乗せることは出来ないばかりか、それを追認するプロパガンダに堕しているのです。
 結果として、「海をきれいにしましょう・川もきれいにしましょう」という虚しい一般的なお題目が繰り返されて終わる他はないのです。
 そればかりか、うっかりすると、またもや土建屋優遇の変な案が登場しかねないのです。

 こうしたお上の形ばかりの「大会」に対して、6月5、6日、市民による「豊かな海づくり大会」が催されました。上流域の山林業者から中流域の川に親しむ人、小瀬、長良、犬山の鵜飼いに関わりの深い方、長良川の魚類で佃煮をつくっている老舗の方などなど長良川と共に生きてきた土着ともいえる人々、加えて、国交省の全く恣意的なデータのでっち上げに抗して、地道な研究成果をもつそれぞれの専門分野の学者たちの貴重なコメントが披露されました。

 総じていって、長良川そのものが、そしてそこに住む水生動物が、この間、非常に疲弊し、危機的状況にあること、それらが一般的な環境の変化に加え、長良川の場合、全く無用の長物であるコンクリート行政のたまもの、長良川河口堰によってもたらされていることは共通の認識でした。

 大会は最後に、誕生したばかりの菅内閣総理大臣宛に、「長良川河口堰の試験解放の実施」と、現在計画中の「徳山ダムの死水を長良川へ導入することの中止」を申し入れるアピールを採択して終わりました。

  

 会場を出ると、初夏の長良川は、人の欲望に耐えるかのように清冽な姿を見せていました。しかしその内実が、私が半世紀以上見続けてきた過程で随分違ってきてしまったことを知った今、その流れのけなげさに改めて感慨を覚えるのでした。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

60年前の教師

2010-06-04 11:12:45 | 想い出を掘り起こす
 中学時代の担任だった方から手紙をいただきました。
 私が参画した同人誌を送付した事への礼状と簡潔な感想です。

  

 すでに古希を過ぎた私が紅顔の美少年だった頃の中学校の教師ですから、もう80代の半ばを過ぎた方です。
 2、3年前会った折、岩波の『思想』を若い頃からの惰性でとり続けているが、最近は分からない論文が多くて・・・とこぼしていました。
 『思想』の論文が全部分かるなんて職業的な「思想屋さん」でも無理な事です。

    

 私に、世の中を見る目などについて重要な示唆を与えてくれたのはこの人です。こういうと「すわ、日教組による洗脳」と色めき立つ人もいるかも知れませんが、彼は「世の中とはこうだ」と断定したわけではありません。当時のカリキュラムに沿って教えたに過ぎません。

 ただし彼は、ディベイト(討論)を重視しました。
 あるとき、「職業に貴賎があるかないか」を討論しました。
 これはカリキュラムによれば、当然、「職業に貴賤はない」に落ち着いて終わるはずでした。

       

 私はたまたま「貴賤はある」派でしたが、仲間たちは次々と「貴賤はない」派の正論に押されて屈服して行きました。かくして授業は「職業に貴賎はない」で収束しかかったのですが、しかし、そこで私はがんばってしまったのです。
 ブルジョアジーという言葉も、資本家という概念も知りませんでした。
 ただ、私の父が小商人で、額に汗しながら稼いでいるのに、自らは何も生産的なことはせず、権力に取り入ってしこたま稼いでいる連中がいることを私はうすうす知っていました。

 だから、彼らは寄生虫のように卑しい連中であり、従って「職業に貴賎がある」と私は主張し続けたのでした。その授業が結果としてどのように収束したのかは覚えていません。
 後日、その教師から、あのときはよわったと聞いた記憶があります。

     

 カントという哲学者がいて、真、善、美を説いたと教えてくれたのもその教師でした。ですから、私の中学校の卒業文集には、「真、善、美を備えた人間になりたい」などと書いたのですが、それがどんな状態なのかは分かりませんでしたし、未だに分かりません。
 最近、ハンナ・アーレントを介して、カントの『道徳形而上学原論』に出会って、私の中学生の時の「真、善、美」がいかに抽象的なイメージに過ぎなかったかを今更のように知ったのでした。

      
  

 いろいろ想い出はありますが、私のうちに形而上学的な事柄への関心をもたらすのにこの先生が大きな役割を果たしたのは事実です。
 2、3年前に訪ねたとき、好々爺然としたこの先生が手がけた野菜をもらい、それがやたら美味しかったことを思い出しています。

 私の家から20キロぐらいにいるこの人をまた訪ねてみようかなと思います。
 いや、野菜ほしさではありませんよ(野菜も欲しいです)。


 




コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桑の実を摘む 椋鳥との熾烈な縄張り争い

2010-06-02 02:26:55 | よしなしごと
 桑の実を摘みました。
 
 赤くてきれいな色のものはまだまだ酸っぱくて美味しくありません。
 紫色になったものでもまだまだです。
 では、どうして完熟のものを見分けるのでしょうか。
 見た目ではありません。
 しいていうと触覚なのです。

   

 どういうことかというと、採ろうかなと思って実に触れると、ぽろりと掌の中にこぼれてくるようなものが完熟なのです。
 見た目ではさして変わらず、濃い紫色でも、採る折に力を入れて枝からもがねばならないものはまだ完熟とはいえません。味も酸味が残っています。
 ですから、濃い紫色のものを選んで、これはどうかなと力を入れないで少し引っ張ってみるのです。すると、ぽろりと枝から離れるものが合格です。

   

 ただし気をつけなければいけません。
 枝に強く触れたりし、衝撃を与えると、食べ頃のものがぽろぽろとみんな地面に落ちてしまうのです。

 私が実を摘んでいると、どこからともなく椋鳥がやって来てけたたましく抗議の鳴き声を上げました。
 どうやら、自分の権益を侵されたと思ったようです。

   

 「オイオイ、これは私が30センチに満たない頃から育てた樹だから私にも採る権利はあるのだ。ただし、おまえたちが食べに来るのを追っ払ったりはしない。だから、そんなに非難がましく鳴くのはやめておくれ」
 実際のところ、椋鳥の警戒心を込めた鳴き声は非難がましいのです。
 ふと窓を開けた時など、私に怒りの声を投げつけて去って行きます。

   

 とりあえず、ザルにいっぱい採りました。
 実はこれ、もう昨日、娘の勤める学童保育におやつで持って行ったのです。
 で、帰ってきた娘に「どうだ、まだ子供たちは食べそうか」と訊ねたら、「まだ食べそうだよ」との答え。

 かくして、明日もまた、椋鳥と縄張り争いをしながら桑の実を摘むのです。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする