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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

60年前の教師

2010-06-04 11:12:45 | 想い出を掘り起こす
 中学時代の担任だった方から手紙をいただきました。
 私が参画した同人誌を送付した事への礼状と簡潔な感想です。

  

 すでに古希を過ぎた私が紅顔の美少年だった頃の中学校の教師ですから、もう80代の半ばを過ぎた方です。
 2、3年前会った折、岩波の『思想』を若い頃からの惰性でとり続けているが、最近は分からない論文が多くて・・・とこぼしていました。
 『思想』の論文が全部分かるなんて職業的な「思想屋さん」でも無理な事です。

    

 私に、世の中を見る目などについて重要な示唆を与えてくれたのはこの人です。こういうと「すわ、日教組による洗脳」と色めき立つ人もいるかも知れませんが、彼は「世の中とはこうだ」と断定したわけではありません。当時のカリキュラムに沿って教えたに過ぎません。

 ただし彼は、ディベイト(討論)を重視しました。
 あるとき、「職業に貴賎があるかないか」を討論しました。
 これはカリキュラムによれば、当然、「職業に貴賤はない」に落ち着いて終わるはずでした。

       

 私はたまたま「貴賤はある」派でしたが、仲間たちは次々と「貴賤はない」派の正論に押されて屈服して行きました。かくして授業は「職業に貴賎はない」で収束しかかったのですが、しかし、そこで私はがんばってしまったのです。
 ブルジョアジーという言葉も、資本家という概念も知りませんでした。
 ただ、私の父が小商人で、額に汗しながら稼いでいるのに、自らは何も生産的なことはせず、権力に取り入ってしこたま稼いでいる連中がいることを私はうすうす知っていました。

 だから、彼らは寄生虫のように卑しい連中であり、従って「職業に貴賎がある」と私は主張し続けたのでした。その授業が結果としてどのように収束したのかは覚えていません。
 後日、その教師から、あのときはよわったと聞いた記憶があります。

     

 カントという哲学者がいて、真、善、美を説いたと教えてくれたのもその教師でした。ですから、私の中学校の卒業文集には、「真、善、美を備えた人間になりたい」などと書いたのですが、それがどんな状態なのかは分かりませんでしたし、未だに分かりません。
 最近、ハンナ・アーレントを介して、カントの『道徳形而上学原論』に出会って、私の中学生の時の「真、善、美」がいかに抽象的なイメージに過ぎなかったかを今更のように知ったのでした。

      
  

 いろいろ想い出はありますが、私のうちに形而上学的な事柄への関心をもたらすのにこの先生が大きな役割を果たしたのは事実です。
 2、3年前に訪ねたとき、好々爺然としたこの先生が手がけた野菜をもらい、それがやたら美味しかったことを思い出しています。

 私の家から20キロぐらいにいるこの人をまた訪ねてみようかなと思います。
 いや、野菜ほしさではありませんよ(野菜も欲しいです)。


 




コメント (5)
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