中学時代の担任だった方から手紙をいただきました。
私が参画した同人誌を送付した事への礼状と簡潔な感想です。
すでに古希を過ぎた私が紅顔の美少年だった頃の中学校の教師ですから、もう80代の半ばを過ぎた方です。
2、3年前会った折、岩波の『思想』を若い頃からの惰性でとり続けているが、最近は分からない論文が多くて・・・とこぼしていました。
『思想』の論文が全部分かるなんて職業的な「思想屋さん」でも無理な事です。
私に、世の中を見る目などについて重要な示唆を与えてくれたのはこの人です。こういうと「すわ、日教組による洗脳」と色めき立つ人もいるかも知れませんが、彼は「世の中とはこうだ」と断定したわけではありません。当時のカリキュラムに沿って教えたに過ぎません。
ただし彼は、ディベイト(討論)を重視しました。
あるとき、「職業に貴賎があるかないか」を討論しました。
これはカリキュラムによれば、当然、「職業に貴賤はない」に落ち着いて終わるはずでした。
私はたまたま「貴賤はある」派でしたが、仲間たちは次々と「貴賤はない」派の正論に押されて屈服して行きました。かくして授業は「職業に貴賎はない」で収束しかかったのですが、しかし、そこで私はがんばってしまったのです。
ブルジョアジーという言葉も、資本家という概念も知りませんでした。
ただ、私の父が小商人で、額に汗しながら稼いでいるのに、自らは何も生産的なことはせず、権力に取り入ってしこたま稼いでいる連中がいることを私はうすうす知っていました。
だから、彼らは寄生虫のように卑しい連中であり、従って「職業に貴賎がある」と私は主張し続けたのでした。その授業が結果としてどのように収束したのかは覚えていません。
後日、その教師から、あのときはよわったと聞いた記憶があります。
カントという哲学者がいて、真、善、美を説いたと教えてくれたのもその教師でした。ですから、私の中学校の卒業文集には、「真、善、美を備えた人間になりたい」などと書いたのですが、それがどんな状態なのかは分かりませんでしたし、未だに分かりません。
最近、ハンナ・アーレントを介して、カントの『道徳形而上学原論』に出会って、私の中学生の時の「真、善、美」がいかに抽象的なイメージに過ぎなかったかを今更のように知ったのでした。
いろいろ想い出はありますが、私のうちに形而上学的な事柄への関心をもたらすのにこの先生が大きな役割を果たしたのは事実です。
2、3年前に訪ねたとき、好々爺然としたこの先生が手がけた野菜をもらい、それがやたら美味しかったことを思い出しています。
私の家から20キロぐらいにいるこの人をまた訪ねてみようかなと思います。
いや、野菜ほしさではありませんよ(野菜も欲しいです)。
私が参画した同人誌を送付した事への礼状と簡潔な感想です。
すでに古希を過ぎた私が紅顔の美少年だった頃の中学校の教師ですから、もう80代の半ばを過ぎた方です。
2、3年前会った折、岩波の『思想』を若い頃からの惰性でとり続けているが、最近は分からない論文が多くて・・・とこぼしていました。
『思想』の論文が全部分かるなんて職業的な「思想屋さん」でも無理な事です。
私に、世の中を見る目などについて重要な示唆を与えてくれたのはこの人です。こういうと「すわ、日教組による洗脳」と色めき立つ人もいるかも知れませんが、彼は「世の中とはこうだ」と断定したわけではありません。当時のカリキュラムに沿って教えたに過ぎません。
ただし彼は、ディベイト(討論)を重視しました。
あるとき、「職業に貴賎があるかないか」を討論しました。
これはカリキュラムによれば、当然、「職業に貴賤はない」に落ち着いて終わるはずでした。
私はたまたま「貴賤はある」派でしたが、仲間たちは次々と「貴賤はない」派の正論に押されて屈服して行きました。かくして授業は「職業に貴賎はない」で収束しかかったのですが、しかし、そこで私はがんばってしまったのです。
ブルジョアジーという言葉も、資本家という概念も知りませんでした。
ただ、私の父が小商人で、額に汗しながら稼いでいるのに、自らは何も生産的なことはせず、権力に取り入ってしこたま稼いでいる連中がいることを私はうすうす知っていました。
だから、彼らは寄生虫のように卑しい連中であり、従って「職業に貴賎がある」と私は主張し続けたのでした。その授業が結果としてどのように収束したのかは覚えていません。
後日、その教師から、あのときはよわったと聞いた記憶があります。
カントという哲学者がいて、真、善、美を説いたと教えてくれたのもその教師でした。ですから、私の中学校の卒業文集には、「真、善、美を備えた人間になりたい」などと書いたのですが、それがどんな状態なのかは分かりませんでしたし、未だに分かりません。
最近、ハンナ・アーレントを介して、カントの『道徳形而上学原論』に出会って、私の中学生の時の「真、善、美」がいかに抽象的なイメージに過ぎなかったかを今更のように知ったのでした。
いろいろ想い出はありますが、私のうちに形而上学的な事柄への関心をもたらすのにこの先生が大きな役割を果たしたのは事実です。
2、3年前に訪ねたとき、好々爺然としたこの先生が手がけた野菜をもらい、それがやたら美味しかったことを思い出しています。
私の家から20キロぐらいにいるこの人をまた訪ねてみようかなと思います。
いや、野菜ほしさではありませんよ(野菜も欲しいです)。
ところで、若い頃に、良い先生に出会うのは、一生の宝物ですね。もしそれが反対だったら?私の飼い主も、数年教壇という壇に、立った事があるらしいのですが、冷や汗の連続だったといいます。まだ、一人前の人間でもなかったのに、それは大変だったことでしょう。
ところで、六文銭さんの心の広さにおすがりして。「黄土高原 紅棗のみのるーーー」のブログを愛読していますが、なつめちゃんという犬さんに
思いを寄せています。その夏姿が可愛いのでコメントを書けども書けども、はねられて、十数回試みましたが、ダメでした。なつめちゃんのあるじさんが、これをお読みになったら、可愛いよ!とお伝え願います。英語や数字を、入れるのですが、配列
が誤りとはねられてしまうのです。
軒を借りて、この思いが、なつめちゃんに届きますように!失礼お許しのほど。さんこ拝
ラブレター届けましたよ。
恋のキューピットは久しぶりです。
かつて、先輩にあたる人から、ラブレターを渡すのを頼まれたことがあります。
幸いその相手が、シラノ・ド・ベルジュラックにとってのロクサーヌ姫ではなかったので複雑な愛情劇にはならなくて済んだのですが、今回はそうではないかもしれませんよ。
実はそのラブレターが私のものだったと、私の死期になってから、なつめちゃんが気づいたらどうしましょう。
>おばママさんへ
たぶんはねられたのは、大文字と小文字の違いによるものではないでしょうか。
認証文字の記入には、まず半角入力(英字入力)にして、大文字と小文字を区別しながら入れて行きます。
Zとz、Kとk、Uとu、Wとwなど、大文字と小文字が分かりにくいものもありますので要注意ですね。
『或質的な面が物理的に確定する場合の確定要素は【0】である。』
【0特性】
◇絶対性
『拡がりが無い,』
◇不可分性
『分けられない,』
◇識物性
『存在の1の認識が可能, 即ち考えるもとの全てが【0】より生ずる, 但し質的な変化に対し絶対保存できない,』
◇変化性
『物による逆の確定が不可能な変化 (可能性の確立), 即ち存在の【1】を超越して変化する。』
【0特性】が真理であるならば, 時間平面的な視野は物的ではなく, 質的に変化していることになる。その根拠が【0∞1】, 有限的無限性を有する物による質の確定が不可能であること, そもそも確定する質が何かを知り得ない以上, 物理的確定論は絶対的ではなく類似事的な確定であること, である。
【零的確定論】では, 一つの時間平面が, 拡がり無き【時(とき)の間(はざま)】に確定していると考える。同様に空間を捉え, 【空の間】に空間を置き, 絶対的変化を与える【質】を流し込む。つまり時間平面は, この表裏不可分の裏側の【絶対無】により0的に確定されることになる。
△無は有を含む。
いらっしゃい。
私、こういう公理、定理で展開される論理様式には全く弱いのです。
ですから、出来ればその意味するところを散文的に表現していただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
本当に、大文字のkなのか小文字のwなのかと迷って、一生懸命文字列を、写すのですが。注意力がたらないのですね。アドバイス有り難いです。
by おばママ