1960年6月15日 そして私
また、六月一五日がやってきた
あの日からちょうど半世紀になる
私はこの五〇回の六月一五日に
ほとんど何も語ってはこなかった
いわゆる六〇年安保という政治の季節に
国会議事堂の南通用門という無粋な場所で
私より一つ年上の女性が死んだ
樺 美智子 享年二二歳
彼女はたんに学生の一員ではなかった
既存の政党などとは異なった
新しい運動による新しい変革を夢見ていた
その意味では当時、私は彼女の同志だった
しかし、彼女や私が夢見た新しい運動は
その後、幾度かの分裂を繰り返し
その枝の一つに
連合赤軍というストレンジ・フルーツを実らせた
むろんそれは彼女の責任ではない
が、生きていた私にはなにがしかの責任はある
たとえそれとの直接の関わりもなく
既に遠くへ離れていたとしてもだ
問題は半世紀前に戻る
私が彼女とともに新しいものを志向したとき
まだまだ充分に考え抜かれていないことが
残っていたのではないかということだ
私たちは古い運動の中に腐臭を嗅ぎ
それにスターリニズムという名を冠した
まだ、サヨクにとってはソ連も中国も
聖域であった頃のことだ
しかし、私たちは、いや私は
アンチ・スターリニズムという言葉に酔うのみで
その怪物の正体を捉え損ない
甘く見ていたのではないだろうか
だからその後、四分五裂していった連中も
よりピュアーなスターリニストであったり
ミニ・スターリニストであったりしたのだ
そして、その極限に連合赤軍が・・・
今、私は半世紀前の宿題を抱え込んでいる
この現実と向かい合いながら
人々とともにあるということは
いったいどんなことなのだろうかと
老骨にむち打ちながら
滑ったり転んだりして学ぶ滑稽な私を
樺 美智子は笑うだろうか
でも私は、彼女に答える言葉を持っている
「オイオイ、笑うな
これがあなたの早すぎた死に応答する
私の唯一の仕方なのだ」と
あなたをほんとうに「人知れず微笑」ますために
半世紀前の六月一五日
私は彼女とほとんど同じところにいたが
それが私のアリバイにはならないばかりか
むしろそれが、負のスタート地点であったことを
充分、肝に銘じているつもりだ
また、六月一五日がやってきた
あの日からちょうど半世紀になる
私はこの五〇回の六月一五日に
ほとんど何も語ってはこなかった
いわゆる六〇年安保という政治の季節に
国会議事堂の南通用門という無粋な場所で
私より一つ年上の女性が死んだ
樺 美智子 享年二二歳
彼女はたんに学生の一員ではなかった
既存の政党などとは異なった
新しい運動による新しい変革を夢見ていた
その意味では当時、私は彼女の同志だった
しかし、彼女や私が夢見た新しい運動は
その後、幾度かの分裂を繰り返し
その枝の一つに
連合赤軍というストレンジ・フルーツを実らせた
むろんそれは彼女の責任ではない
が、生きていた私にはなにがしかの責任はある
たとえそれとの直接の関わりもなく
既に遠くへ離れていたとしてもだ
問題は半世紀前に戻る
私が彼女とともに新しいものを志向したとき
まだまだ充分に考え抜かれていないことが
残っていたのではないかということだ
私たちは古い運動の中に腐臭を嗅ぎ
それにスターリニズムという名を冠した
まだ、サヨクにとってはソ連も中国も
聖域であった頃のことだ
しかし、私たちは、いや私は
アンチ・スターリニズムという言葉に酔うのみで
その怪物の正体を捉え損ない
甘く見ていたのではないだろうか
だからその後、四分五裂していった連中も
よりピュアーなスターリニストであったり
ミニ・スターリニストであったりしたのだ
そして、その極限に連合赤軍が・・・
今、私は半世紀前の宿題を抱え込んでいる
この現実と向かい合いながら
人々とともにあるということは
いったいどんなことなのだろうかと
老骨にむち打ちながら
滑ったり転んだりして学ぶ滑稽な私を
樺 美智子は笑うだろうか
でも私は、彼女に答える言葉を持っている
「オイオイ、笑うな
これがあなたの早すぎた死に応答する
私の唯一の仕方なのだ」と
あなたをほんとうに「人知れず微笑」ますために
半世紀前の六月一五日
私は彼女とほとんど同じところにいたが
それが私のアリバイにはならないばかりか
むしろそれが、負のスタート地点であったことを
充分、肝に銘じているつもりだ
ところで、数年前に訪れた時、テルアビブ空港は新しくなり、事件のモニュメントも消え去りました。
板橋に住む山本さんは「いたばしボランティアセンター」の無料コピーを使い過ぎるらしく、注意されていたようです。
南門に着いたのは9時を過ぎていましたが、機動隊の車を始め警備のお巡りさんは例年と変らず。しかし誰かが「政権が変ると、こんなにも対応が違うんだ」と言ってたように、これまでのように邪魔すること一糸だに許さず、といった緊張感を持つことなく、静かに献花と黙祷をすることができました。
そうですか。ロッドも変わったのですね。
確かその後がミュンヘンに続いたのでしたね。
>只今さん
私は、記念日には南門にはいっていません。
サラリーマン時代、出張の合間を縫って行ってきました。
その後、神田カルチェラタンへいったのですが、石畳がはがされ、催涙弾の臭いが残留していて目がしょぼしょぼする時期でした。
60年、60年代末、70年の若者の志向をリードし得なかったことを日本の思想界は反省すべきですね。