過日秋晴れの一日、松阪在住の友人夫妻のご案内でこれまた古くからの友人、Sさん共々、松阪の街を逍遙しました。
三人とも、パソコン通信時代からの友人です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/dc/eac80b3f4d301943b17fb5664c449394.jpg)
正直言って松阪は、伊勢や鳥羽へ行く折りの通過地でしかありませんでした。今回はそこを目的に行ってやはり良かったと思います。
城址は建造物こそないものの、立派な石垣が当時の風情を偲ばせ、コンクリート製の天守閣のレプリカなどない方がよほどいいことを実感しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/4c/d6f9a536f6b4c16df29e27dbde5a7b11.jpg)
本居宣長の住居跡 城下にあったものが城内に移築されている
場内の本居宣長の記念館は是非行きたいところでした。「唐ごころ」を頑なに拒否する宣長は、国粋主義者にまちがわれることもあるのですが、その真意は、ものごとの「現れ」を予めある「本質」の現出であるとしてそのものの具体性をないがしろにする賢しらな態度への拒否であって、その意味では現代風に言えば、「形而上学」やその現前性への拒否といえます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/7f/0c4100d103b50e11f0fdc1faf0ebf640.jpg)
城址より御城番屋敷(重文)を臨む 道路を挟み二十軒の武家屋敷が長屋風に連なる
この宣長氏の書いたものの展示から、浅学ながらなにがしか読み取ろうとしたのですが、なんといっても字が細かい、老眼鏡を三つかけても読み切れないほどです。果たせるかな、彼の息子は、父の書いたものを整理などする内に目を患い盲目になったというから凄まじいものがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/da/f1a44b499bd1830fdd60dd069ecb370a.jpg)
市内で見つけた道しるべ 「左参宮道」 「右和歌山道」 とある
もうひとつのポイントは、同行のSさんが駅の観光案内で見つけた松浦武四郎記念館の存在でした。
彼が、間宮林蔵とは違い、輪郭としての北海道ではなく、その奥地まで踏み込み、アイヌなどの風俗習慣にまで馴染み、その悲惨さを訴えたりした有意の人であることは知っていましたが、その彼がこの松阪の出身であることは知りませんでした。儲けもののような話です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/04/0bbca2d766bd8cdc9ad748bf9c67dec1.jpg)
松浦武四郎が作った北海道地図のレプリカ
記念館にある彼の作った北海道地図を見て驚きました。さすがその奥地まで踏み込んだだけあって、今でも人跡未踏のようなところまでその地名などがびっしり書き込まれているのですが、その字がまた小さいのです。
海岸線などの地名は、ほとんど距離がなく書き込まれているため、まるで繊毛が生えたように見えます。
ちなみに、北海道という地名は彼が付けたものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/cb/ed19c9805c92b409674ea3674c05b90b.jpg)
現在の松前半島の地図 海岸線に繊毛が生えたように見えるのはすべて地名
結論:松阪の人はとても細かい字を書く。
その後はおきまりの歓談コースです。
郷に入らば郷に従えで、松阪の南、多気町の酒「鉾杉」に舌鼓を打ちながら話は尽きるところがありませんでした。このお酒なかなかおいしくて十分満足しました。
案内してくれたご夫妻と、同行し話を盛り上げてくれたSさんに感謝しつつ松阪の地を辞したのでした。
また少し寿命が延びました。
憎まれもの世にはばかるでしょうか。
三人とも、パソコン通信時代からの友人です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/dc/eac80b3f4d301943b17fb5664c449394.jpg)
正直言って松阪は、伊勢や鳥羽へ行く折りの通過地でしかありませんでした。今回はそこを目的に行ってやはり良かったと思います。
城址は建造物こそないものの、立派な石垣が当時の風情を偲ばせ、コンクリート製の天守閣のレプリカなどない方がよほどいいことを実感しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/4c/d6f9a536f6b4c16df29e27dbde5a7b11.jpg)
本居宣長の住居跡 城下にあったものが城内に移築されている
場内の本居宣長の記念館は是非行きたいところでした。「唐ごころ」を頑なに拒否する宣長は、国粋主義者にまちがわれることもあるのですが、その真意は、ものごとの「現れ」を予めある「本質」の現出であるとしてそのものの具体性をないがしろにする賢しらな態度への拒否であって、その意味では現代風に言えば、「形而上学」やその現前性への拒否といえます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/7f/0c4100d103b50e11f0fdc1faf0ebf640.jpg)
城址より御城番屋敷(重文)を臨む 道路を挟み二十軒の武家屋敷が長屋風に連なる
この宣長氏の書いたものの展示から、浅学ながらなにがしか読み取ろうとしたのですが、なんといっても字が細かい、老眼鏡を三つかけても読み切れないほどです。果たせるかな、彼の息子は、父の書いたものを整理などする内に目を患い盲目になったというから凄まじいものがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/da/f1a44b499bd1830fdd60dd069ecb370a.jpg)
市内で見つけた道しるべ 「左参宮道」 「右和歌山道」 とある
もうひとつのポイントは、同行のSさんが駅の観光案内で見つけた松浦武四郎記念館の存在でした。
彼が、間宮林蔵とは違い、輪郭としての北海道ではなく、その奥地まで踏み込み、アイヌなどの風俗習慣にまで馴染み、その悲惨さを訴えたりした有意の人であることは知っていましたが、その彼がこの松阪の出身であることは知りませんでした。儲けもののような話です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/04/0bbca2d766bd8cdc9ad748bf9c67dec1.jpg)
松浦武四郎が作った北海道地図のレプリカ
記念館にある彼の作った北海道地図を見て驚きました。さすがその奥地まで踏み込んだだけあって、今でも人跡未踏のようなところまでその地名などがびっしり書き込まれているのですが、その字がまた小さいのです。
海岸線などの地名は、ほとんど距離がなく書き込まれているため、まるで繊毛が生えたように見えます。
ちなみに、北海道という地名は彼が付けたものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/cb/ed19c9805c92b409674ea3674c05b90b.jpg)
現在の松前半島の地図 海岸線に繊毛が生えたように見えるのはすべて地名
結論:松阪の人はとても細かい字を書く。
その後はおきまりの歓談コースです。
郷に入らば郷に従えで、松阪の南、多気町の酒「鉾杉」に舌鼓を打ちながら話は尽きるところがありませんでした。このお酒なかなかおいしくて十分満足しました。
案内してくれたご夫妻と、同行し話を盛り上げてくれたSさんに感謝しつつ松阪の地を辞したのでした。
また少し寿命が延びました。
憎まれもの世にはばかるでしょうか。
先ずは向かった小津安二郎記念舘で、誰かが「駄菓子屋のよう…」と言ったら、「だから小津なんです」とキッとなったのは、今は亡きK・S。なにが「だから」か、それはわからなくとも、小津の悪口は寸分も許すまじ、というKの思いだけは諸兄姉判るので、鷹揚に頷いて城に向かい、御城番屋敷の縁側の前に並んだ写真をみると、同行は13人。
城に上がって、「あちらが松阪ステンション」とごく自然にに指さしたのは、あの時はまだ一行に遅れることなく、スタスタ歩きができたH・Kさん。
一人では、松阪牛というわけには
いきませんでした。
江川騒動の時の元阪神球団社長の小津氏の実家が
旧商家として保存されています。
梶井基次郎の碑があったような、なかったような・・・。
みなさんでお出かけになったのですね。
その折りの様子が目に浮かぶようです。
今回は小津の記念館へは行きませんでしたが、松阪は小津姓が多いとこらしく、本居宣長も小津家の次男に生まれ養子などに行って名前が変わったようです。
>N響大好き。さん
おっしゃるように梶井基次郎の碑は城址内にありました。
また、彼が滞在し「城のある町にて」を書いたという家も、城址のすぐ近くにあり、見てきました。彼の姉の嫁ぎ先だったようです。
写真にも一応撮ったのですが、隣の家の人がその地区の地方議員かなんかの政治家で、でっかい看板が出ていて、画になる写真は撮れませんでした。
松浦という人は、内陸深く入り込んで、アイヌの人たちとも、交流を持ち、唯一、信用された和人のようですね。北海道に、アイヌ語の地名が残っているのは、この方の功績ではないでしょうか。松坂の人とは、知りませんでした。
間宮林蔵の業績はそれとして評価さるべきですが、林蔵が地理的な点で探索した蝦夷地を、武四郎はアイヌの生活そのものにまでかかわり、内陸にまで深く分け入ったようです。
前に、林蔵の地図と武四郎のそれとの比較を見たことがありますが、後者は、今なお人が近寄りがたいところも含め、びっしりと地名が書き込まれていました。
そうした経緯でアイヌとのシンパシーも出来たのでしょう、1870年には新政府の開拓使を批判し、公職を辞しています。「征服」のためではない見聞の人として好感が持てます。