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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

遅れてきた七夕と「お金が欲しい!」

2009-07-08 15:03:13 | よしなしごと
 さしたる願い事もしないうちに七夕が終わってしまった。
 この年になって、将来に対し集約できるような願い事というのはほとんどない。
 雑多な願望はもちろんあるのだが、それらはかえって的が絞りにくい。
 もともとは単なる不定愁訴のようなものだからまとまったりはしないのだ。
 それに願ったらどうにかなるのかという長年のシニカルな思いも染みついてしまっている。

 

 私も目撃したことがあるし、誰かもそれを嘆いていたが、小学生ぐらいで七夕の短冊に「お金が欲しい」と書く子がいる。
 何とも夢がないと嘆息するのは分からぬでもないが、果たしてそうだろうか。
 ひとはいろいろな願いを持つが、そのうち半分ぐらい、あるいはそれ以上はお金で解決できるかも知れないのだ。

 

 「健康は金では買えない」というが果たしてそうか?
 「家族円満」や「友情」「進学」「安全」なども金に左右されないであろうか。
 確かに金よりも価値があるものがあるかも知れない。しかし皮肉なことに、それを手に入れるのに金が要るというのが現実なのである。

 だとすると、「お金が欲しい」と書く子はきわめてリアルなのであり、それを嘆くのは筋違いかも知れない。むしろ、そうした世の中を作ってきたことを嘆くべきではないか。
 とはいえ、これも少しばかり反省すればいいというほど簡単な問題でもない。

    

 近々選挙があるようだ。
 ことによったら政権の変動があるかも知れないという。
 しかし、それによってもたらされるのは、タックス・ペイアーのにとってより合理的な還元が行われるぐらいの変動であろうと思われる(それ自身大変なことだし、それを評価しないわけではない)。
 それによっては、すべてが貨幣価値に換算され、それに基づいて人の運命が左右されるというこの大状況自体は変わらないであろう。

 

 この大状況は、政権の行方や、あるいは政治のシステムなどを越えた問題として、人が言語や貨幣を用い始めて以来の文明史的レベルの問題だからである。
 そんなことを考えると、現況においては「お金が欲しい」はごく自然で素直な願い事であり、それを越えようとするような願望は笹の葉に吊すにはいささか重すぎるというべきかも知れない。

コメント (3)
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