六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

もういくつ寝ると・・・そう、覚めない眠りへ

2009-07-12 03:16:44 | よしなしごと
 写真はいずれも岐阜市役所近辺です。

 今年は親しかったり、過去親しんだりした人との別れが多いのです。
 月一ぐらいの頻度でお葬式や訃報に接します。
 出費も馬鹿になりません(コラッ、金の話はするなっ)。

 これはまあ、当然の話で、こちらが齢を重ねるにつけ、その知己との別れも増えるわけです。そしてそれは、確実に私自身もそちらへと追い込まれていることを意味します。

 
     そうか、この市の歴史の半分以上をここで生きてきたんだ

 「人間は誰しも死ぬということにおいて平等なのだ」と訳知り顔でいっていたくせに、そうした平等からは今しばらく逃れていたいと思ったりするのですから勝手なものです。
 もともと私は弱虫ですから、「死をも恐れず」とは容易に言えません。
 過去には、そう決意したこともあったのですが、やはり膝頭が震えました。
 まあひとつには、そうしたことをいう人々が結果として「他人の死をも恐れず(顧みず)」に堕してきたのを見てきたということもあります。

 そんな私ですから、最近は、新聞などでの訃報の読み方も変わって来ました。
 かつては、「え?あいつまだ生きてたの?」などと生意気なことをいっていましたが、今はとてもそんな不遜なことは言えません。

     
             岐阜の街のシンボルですね

 まず、享年を見ます。
 自分よりかなり年上だと、指折り数えて、「後○○年あるじゃん」と少し安心します。
 自分より少し上だと、「もうあまり残されていないじゃん」と少し焦ります。
 自分と同い年だと、「オイオイ、そんなに慌てて逝くなよ」と不安がつのります。
 自分より若かったりすると、「なに?私が生きてるのはもうお釣りなの?」という気になります。

 次いで、死因を見ます。
 事故死だと、「ああ、私も気をつけなくっちゃ」と思います。
 どこそこの病気だというと、「そういえば私もどこそこが悪かった」と不安になります。
 自殺だったりすると、「そうか、その選択肢もあるなぁ」などと、そう簡単にはできもしないくせに思うのです。
 人知れず死んでいたなどというと、「う~ん、それも悪くないかも」などと強がりをいったりしますが、いざその段になると、必死で誰かに助けを求めるに決まっているのです。

 
           岐阜城の石垣のレプリカでしょうか

 なんか情けないことを書いていますね。
 明日は若い人たちとの哲学のお勉強会で、下調べをまとめたり、未読の資料に目を通さなければならないのに。
 そして、何より、途中で居眠りをしないためにもう寝なければならないのに。

 人は死ぬことにおいて平等だというのは事実でしょう。
 でも私は、人は生まれるということ、生まれたということにおいて平等であることを基礎にした女性哲学者の思考の方がより生産的だと思うのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする