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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「フリーター薫」君の本を読みました。

2009-07-17 18:03:40 | 書評
 ネットで知り合った人がスカウトというかプロデュースという形で関わり合った新刊書を頂きました。
 『どうして僕には仕事がないんだろう』フリーター薫著 徳間書店刊 がその書です。
 
 書の帯にはこうあります。
 「派遣、コンビニ、ネットカフェ。
  頑張って仕事をしても、年収はいつも200万円以下。
  おまけに、一人暮らしでうつ病に・・・・・。
  このボクに社会復帰の日は来るのだろうか。
  他人事とは思えない、リアルエッセイ!」


 とはいえ、とりあえずは他人事でしかありません。
 私が働いていた頃とは時代が違うし、とりわけ人が働くという形が大きく変わってしまった時代の話だからです。
 私のような、終身雇用の年功序列を基本とした(とはいえ、それは大まかな建て前に過ぎなかったのですが)労働形態とは異なったものがそこにはあります。こうしていつの間にか変貌していた雇用形態が問題として噴出したのはつい先頃のことなのです。

 

 日本の労働者のありようはいつの間にか使い捨ての消耗品と化していたのでした。
 それまであった資本対労働のある種の対称性(それ自身が見せかけであったのですが、一応形はなしていました)は大きく変動し、まったく非対称に、資本の側の恣意のままに、必要に応じて集め、必要がなくなれば放り出すという原則が確立してしまっていたのです。
 これらが、規制緩和という名のもとに行われた派遣法のなし崩し的改悪によってもたらされたものであることはこの間の事態があからさまに証明しています。それらは、法的に醸成された差別や権利制限の問題であるのですが、それを棚上げして、放り出された労働者の「自己責任」として片付けられようとしているのです。
 この書は、それをあからさまに、あるいは声高に告発するものではありません。むしろ、それをおのれの問題として引き受けながら、そのおのれとおのれの置かれた状況とを冷徹なほどの視線で見つめ綴ったものなのです。

 だから読み手の私たちは、彼がどのようにしてそこにいるのか、そしてそれは、巷間にいわれている「自己責任」をどれほど孕むものかを念頭に置きながら読むこととなります。

 

 書き出しから読み進めると、彼は実は気配りが効き、事物を客観的に見ることが出来るバランス感覚をもった青年であることが分かります。
 しかし、その彼が中途から次第に怪しくなり、うつ病と認定される辺りから様相は一変します。私などは、その病因そのものがあるプロバイダーのコールセンターで、オペレーターとして働くうちに蓄積されたストレスの横溢であるように思うのですが、即断は避けましょう。
 「プロバイダーのコールセンターでのオペレーター」などと横文字が並ぶと、一昔前の私ならなんとかっこいい職種だろうと思ってしまうのですが、ようするにパソコンに振り回されたユーザーたちの鬱憤の捨て所であったり、クレーマーたちの優越感の発露の場であったり、さらには彼の任務とはまったく関係のない言いがかりや不定愁訴の場であったりするわけです。
 しかし、お客様は神様、それへの反抗は許されません。自虐的なほど丁重に応答しなければならないのです。

 どんな理由でうつ病になったにしろ、企業にとってはそれは「自己責任」ですから、ていよく放り出すことが管理者たる者の責任であります。
 社会的なセーフティネットも、彼の必死の要請にもかかわらず、それを救い上げる機能を持ってはいませんでした。
 働くことも出来ず、世間からも疎まれ、当然のこととして金もなくなれば引きこもるしかありませんし、事実、彼もそうなるのです。
 世間にはこうした人々が増加しています。こうして肉体的に、あるいは精神的に病む人や、貧困へと追い込まれる人たちのひとつの到達点が、年間三万人を超える自殺者の一角を占めることはいうまでもありません。自殺者には数えられない野垂れ死にも同様な問題に起因する場合が多いのです。

 
 
 そうした彼が、一応はそこから抜け出ることが出来たのは、自己やその周辺を冷徹に見つめ、それを記述するという自己客観化の術を身に付けていたからではないかと思います。

 次いで彼は、ネットカフェで働くことになるのですが、私などにとっては得体の知れない空間であるこの場所で、日々なにが起こっているのかがうかがい知れて興味津々というより、こうした空間を生みだしている時代の不気味さをつい思ってしまうのです。
 その意味ではこの書は、オペレーターやネットカフェ、あるいはコンビニの風俗を通じて透けて見える私たちの時代を一面から照射しているといえます。
 なお、時々出てくるお袋さんが面白く、お節介で唐突な彼女ではありますが、そこには少なくとも彼を、交換可能な個としては見ていないまなざしがあるように思うのです。
 
 「自己責任」の問題に戻りましょう。これらを通読して、なお著者の個性から発するわがままではないかと思うむきもあるでしょう。確かにそこから抜け出して「正規の」働き手になった人たちもいます(それとてリストラから自由であるわけではないのですが)。しかし、現代は、というより現代の企業は、彼のような不正規な存在を必要とし、働き手のうち何割かの人たちは彼と同様の境遇たらざるを得ないようになっているのです。
 それを法的に規定しているのが、先に見た規制緩和による派遣法の無限ともいえる拡大なのでした。

 彼自身が正規の労働者として働くことを忌避しているわけではありません。この書の冒頭は以下のようにして始まるのです。
 「『ボクは社会や組織の歯車にはなりたくないんですよ』なんてことを言うヤツがいたら、長い棒きれを振り回してどこまでも追いかけまわしてやりたい。
 この若造が、未成年が、何を言いやがる、という気持ちになる。うん年前、大学を卒業した頃の自分もまさにそんな若造で、できることならタイムマシーンにでも乗って追いかけまわしに行きたい。」


    

 ここからは私見ですが、よくいわれているように現代は、一人一人が家族や地域共同体、そして本来は共同作業の筈の職場においてすらも切り離された個としてあります。これが「自己責任」の土俵ですが、さらにはこの個への分割は、「そう、世の中にはいろんな人がいてそれぞれが自由なんだよね」という口当たりのいい他者理解の言葉として表れたりもします。
 しかし、この一見すると他者の承認のように見える立場は、決して他者の他者性のようなものへの許容を含んではいないのです。むしろ逆に、他者からの連鎖を解かれた自分を防衛し、他者を突き放す役割を果たしているに過ぎません。

 そして、こうした「私は私、他人は他人」という一見開かれたもの言いが、実はもっとも閉鎖的なそれであり、それら砂のような群衆を適度に取り集め、必要な機能のみを取りだし、不要なものはあっさりと投げ捨てる現在の産業構造への拝跪や隷属の背景をなしているのです。

 私たちはこの寂寞とした世界で、どのように連帯を築くことが出来るのでしょうか。

コメント (5)
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