「厭戦歌」の歴史を辿って行くと、この哀しい歌に突き当たります。
なにが哀しいかというと、この歌が、とりわけ特攻隊員によって唱われたという事実があるからです。
兵士たちの歌は、それぞれ戦争という状況の中に投げ出されたものとして、なにがしか死の影を免れがたいのですが、今まで見てきたそれらは、いずれも不特定な将来の予感であったわけです。
しかし、特攻隊のそれは、決してそうした猶予を持った死ではなく、明日、明後日、三日後の死とさし迫ったものでした。
その彼らがよく唱ったといわれるのが、以下の「ダンチョネ節」です。
1.沖の鴎と飛行機乗りは どこで散るやらネ 果てるやらダンチョネ
2.俺が死ぬ時ハンカチふって 友よ彼女よネ さようならダンチョネ
3.タマは飛びくるマストは折れる ここが命のネ 捨てどころダンチョネ
4.俺が死んだら三途の川で 鬼を集めてネ 相撲とるダンチョネ
5.飛行機乗りには娘はやれぬ やれぬ娘がネ 行きたがるダンチョネ
6.飛行機乗りには嫁には行けぬ 今日の花嫁ネ 明日の後家ダンチョネ
7.三浦岬でヨどんと打つ波ははネ 可愛い男のサ 度胸試しダンチョネ
8.泣いてくれるなヨ出船の時はネ 沖で櫓櫂もサ 手につかぬダンチョネ
9.逢いはせなんだかヨ館山沖でネ 三本マストのサ 大成丸ダンチョネ
10.別れ船ならヨ夜更けに出しゃれネ 帆影見てさえサ 泣けてくるダンチョネ
こうして歌詞を見てくると、飛行機、舟、海とかなり雑多な要素が混然となっていることが見て取れます。この歌も、この種のものの特色で作詞作曲が不明なのですが、その成り立ちには諸説があります。
ひとつは、神奈川県民謡だというものです。確かに、神奈川民謡の「三崎甚句」は似たメロディで、しかも、上記の7.とほぼ同じ文句があります。
他に、8、10番も民謡の匂いがする歌詞です。
エー 三浦三崎に アイヨーエ どんと打つ波は
可愛いお方の 度胸さだめ エーソーダヨー
もう一つは、東京商船学校で唱われたという説で、それによれば、1900(明治33)年、東京商船学校の練習船月島丸が、暴風雨のため駿河湾で遭難沈没し、122人の若い命が失われるという痛ましい事故があり、それを悼んで唱われたのだというものです。
従って、この「ダンチョネ」は「断腸の思いがする」の「断腸」を表しているというわけです。
いずれにしても、この歌は、それらのものがミックスされて歌い継がれ、飛行機乗りの要素が付け足され、飛行機一般の危険度のみならず、それと共に敵艦に突っ込んで行くという特攻隊のある種の無常感へと引き継がれていったのだろうと思います。
他ならぬ自分の命を投げ出さねばならないというこの限界状況に対し、若者達はそれを納得させるなんらかの論理を見出さねばなりませんでした。
例えば、「不合理ゆえにわれ信ず」などがそれですが、これは、「不合理なものを信じる」という積極的なものではなく、どうしても論理的に咀嚼できない事態であるからこそ、「もはや信ずる以外に道はない」という追いつめられた心情と理解すべきだろうと思います。
そうした理由付けにもかかわらず、どうしてもそこからはみ出てしまう余剰、情念のようなもの、それらは、こうした絶対的な限界状況の中でいっそう研ぎ澄まされていたのだろうと思いますが、それが歌となってほとばしるとき、それはまさに断腸の思いであらざるを得なかったのでしょう。
そうした思いを背景にこの歌を聴くと本当にシンシンと哀しいのです。
この歌も、戦後歌謡曲風にアレンジされました。
あの小林 旭が映画の主題歌として唱ったものですが、その歌詞は上の、1、2、5 番をそのままとったものでした。
ただし、そこには一般的な情感はあっても、特攻隊の持っていたあの特殊な限界状況はもはや払拭されていました。
それから後、八代亜紀が1976年のヒット曲「舟唄」の挿入歌として唱っているものがあります。この歌詞は以下のようで、どちらかというと先に見た神奈川県民謡、三崎甚句よりの雰囲気を持っているといえましょう。
沖の鴎に 深酒させてョ いとしあの娘とョ 朝寝する ダンチョネ
なお、この歌の最後にもダンチョネ節のメロディが使われていますが、それは「ルルルルルルール」といった具合にスキャットになっていて、それがフェードアウトの効果をもたらしています。
※おまけのトリビア
ダンチョネ節の歌詞、9番に以下のものがあります。
逢いはせなんだかヨ館山沖でネ 三本マストのサ 大成丸ダンチョネ
この大成丸ですが、1906(明治39)年に東京商船学校航海科の練習生を乗せて第一次遠洋航海に出かけた帆船の練習船です。ですから、ダンチョネ節の成り立ちに登場し、1900年に沈没した練習船・月島丸の後継船と思われます。
ここに、やはりこの歌が商船学校に大きく関わってきた痕跡が残されています。
なお、この大成丸は1910~11年にかけて世界一周を行うのですが、その折りの総経費が、72,300円だったというから驚きです。
その同時期にアルゼンチンに派遣された軍艦の総経費が200万円に達し、この大成丸の経費に比べ桁違いだったため、海軍内で何か不正や無駄遣いがあるのではないかとの疑惑が高まり、調査が行われることとなったようです。
また、現在も練習船大成丸という名の船が存在しますが、これは1981年建造の蒸気タービン船だそうです。
その他、ネットで検索すると、「玄界灘の釣り船 大成丸」などという記事がありますが、これは今回のテーマとは関係なさそうなので、深くは追求しませんでした。
なにが哀しいかというと、この歌が、とりわけ特攻隊員によって唱われたという事実があるからです。
兵士たちの歌は、それぞれ戦争という状況の中に投げ出されたものとして、なにがしか死の影を免れがたいのですが、今まで見てきたそれらは、いずれも不特定な将来の予感であったわけです。
しかし、特攻隊のそれは、決してそうした猶予を持った死ではなく、明日、明後日、三日後の死とさし迫ったものでした。
その彼らがよく唱ったといわれるのが、以下の「ダンチョネ節」です。
1.沖の鴎と飛行機乗りは どこで散るやらネ 果てるやらダンチョネ
2.俺が死ぬ時ハンカチふって 友よ彼女よネ さようならダンチョネ
3.タマは飛びくるマストは折れる ここが命のネ 捨てどころダンチョネ
4.俺が死んだら三途の川で 鬼を集めてネ 相撲とるダンチョネ
5.飛行機乗りには娘はやれぬ やれぬ娘がネ 行きたがるダンチョネ
6.飛行機乗りには嫁には行けぬ 今日の花嫁ネ 明日の後家ダンチョネ
7.三浦岬でヨどんと打つ波ははネ 可愛い男のサ 度胸試しダンチョネ
8.泣いてくれるなヨ出船の時はネ 沖で櫓櫂もサ 手につかぬダンチョネ
9.逢いはせなんだかヨ館山沖でネ 三本マストのサ 大成丸ダンチョネ
10.別れ船ならヨ夜更けに出しゃれネ 帆影見てさえサ 泣けてくるダンチョネ
こうして歌詞を見てくると、飛行機、舟、海とかなり雑多な要素が混然となっていることが見て取れます。この歌も、この種のものの特色で作詞作曲が不明なのですが、その成り立ちには諸説があります。
ひとつは、神奈川県民謡だというものです。確かに、神奈川民謡の「三崎甚句」は似たメロディで、しかも、上記の7.とほぼ同じ文句があります。
他に、8、10番も民謡の匂いがする歌詞です。
エー 三浦三崎に アイヨーエ どんと打つ波は
可愛いお方の 度胸さだめ エーソーダヨー
もう一つは、東京商船学校で唱われたという説で、それによれば、1900(明治33)年、東京商船学校の練習船月島丸が、暴風雨のため駿河湾で遭難沈没し、122人の若い命が失われるという痛ましい事故があり、それを悼んで唱われたのだというものです。
従って、この「ダンチョネ」は「断腸の思いがする」の「断腸」を表しているというわけです。
いずれにしても、この歌は、それらのものがミックスされて歌い継がれ、飛行機乗りの要素が付け足され、飛行機一般の危険度のみならず、それと共に敵艦に突っ込んで行くという特攻隊のある種の無常感へと引き継がれていったのだろうと思います。
他ならぬ自分の命を投げ出さねばならないというこの限界状況に対し、若者達はそれを納得させるなんらかの論理を見出さねばなりませんでした。
例えば、「不合理ゆえにわれ信ず」などがそれですが、これは、「不合理なものを信じる」という積極的なものではなく、どうしても論理的に咀嚼できない事態であるからこそ、「もはや信ずる以外に道はない」という追いつめられた心情と理解すべきだろうと思います。
そうした理由付けにもかかわらず、どうしてもそこからはみ出てしまう余剰、情念のようなもの、それらは、こうした絶対的な限界状況の中でいっそう研ぎ澄まされていたのだろうと思いますが、それが歌となってほとばしるとき、それはまさに断腸の思いであらざるを得なかったのでしょう。
そうした思いを背景にこの歌を聴くと本当にシンシンと哀しいのです。
この歌も、戦後歌謡曲風にアレンジされました。
あの小林 旭が映画の主題歌として唱ったものですが、その歌詞は上の、1、2、5 番をそのままとったものでした。
ただし、そこには一般的な情感はあっても、特攻隊の持っていたあの特殊な限界状況はもはや払拭されていました。
それから後、八代亜紀が1976年のヒット曲「舟唄」の挿入歌として唱っているものがあります。この歌詞は以下のようで、どちらかというと先に見た神奈川県民謡、三崎甚句よりの雰囲気を持っているといえましょう。
沖の鴎に 深酒させてョ いとしあの娘とョ 朝寝する ダンチョネ
なお、この歌の最後にもダンチョネ節のメロディが使われていますが、それは「ルルルルルルール」といった具合にスキャットになっていて、それがフェードアウトの効果をもたらしています。
※おまけのトリビア
ダンチョネ節の歌詞、9番に以下のものがあります。
逢いはせなんだかヨ館山沖でネ 三本マストのサ 大成丸ダンチョネ
この大成丸ですが、1906(明治39)年に東京商船学校航海科の練習生を乗せて第一次遠洋航海に出かけた帆船の練習船です。ですから、ダンチョネ節の成り立ちに登場し、1900年に沈没した練習船・月島丸の後継船と思われます。
ここに、やはりこの歌が商船学校に大きく関わってきた痕跡が残されています。
なお、この大成丸は1910~11年にかけて世界一周を行うのですが、その折りの総経費が、72,300円だったというから驚きです。
その同時期にアルゼンチンに派遣された軍艦の総経費が200万円に達し、この大成丸の経費に比べ桁違いだったため、海軍内で何か不正や無駄遣いがあるのではないかとの疑惑が高まり、調査が行われることとなったようです。
また、現在も練習船大成丸という名の船が存在しますが、これは1981年建造の蒸気タービン船だそうです。
その他、ネットで検索すると、「玄界灘の釣り船 大成丸」などという記事がありますが、これは今回のテーマとは関係なさそうなので、深くは追求しませんでした。