これまで書いてくるうちに、コメントやメール、そして直接お目にかかった方から、これもあるぞ、あれもあるぞという情報を沢山いただきました。
しかし、更に書き進めることは私の情報収集能力や筆力を越えています。
ここらで一応区切りをつけることをお許しいただき、総括的なことを幾分述べたいと思います。
「厭戦歌」という言い方が従前からあったのかどうかはよく分かりません。
これまで述べてきた歌たちは、軍歌でもなく、かといってあからさまな反戦歌でもなく、「厭戦歌」という括り方ではじめて統一的に捉えられるのではないかと思ったのです。
第四回で述べましたように、実質的に反戦歌が存在し得ない中で、戦時下という極限状況を幾分斜に構えたり茶化したりするところに厭戦歌が成立したように思います。
それらは、自分たちの置かれた状況を一応突き放したところにおいてみるある種のユーモアを必要とします。戦後、それらをカバーした曲が、一部を除いてはコミカルな調子を持っていることはその反映ではないでしょうか。
同時にそこには、そこはかとない無常感があることも否定できません。
何しろ、戦争という逃れがたい状況の中で、死と背中合わせであったり、それが垣間見えるところで唱われるのですから。それらはいろいろの屈折を経ながら、戦後のカバー曲の中にもその反響をもたらしているようです。
第一回で、氷川きよしの歌を割合ニュートラルだといいましたが、青春歌謡であるはずのその出だしが、
風に吹かれて花が散る 雨に濡れても花が散る
咲いた花ならいつか散る おなじさだめの恋の花
であるのは、「花は桜木 人は武士」や「咲いた花なら散るのは覚悟」の残響ともいえます。
また、当初私は、「男女の情愛の歌に隠れて厭戦が唱われている」のだというように捉えていました。しかし、いろいろな歌詞を見てくるうちに、その逆も真なのではないかと思うようになりました。
つまり、恋愛どころではない厳しい状況に置かれながらも、「それを貫いて男と女の情愛が唱われている」側面もあるということです。
そしてそこがまた、公の軍歌にはない潤いを感じさせるところでもあるようです。
また、厭戦歌を唱う庶民を、一応戦争に狩り出される被害者、犠牲者の立場から見てきました。しかし、その被害者、犠牲者が、当時の国家の命令によるとはいえ、同時に近隣諸国に対しては加害者として振る舞ってきた側面を見落とすわけにはゆきません。
しかし、その詳細については、主題から逸れるので触れることはしませんでした。
いずれにしても、いくら斜に構えようがどうしようが、それらの歌はしょせん引かれ者の小唄(だから「○○小唄」が多いのでしょうか)に過ぎないともいえます。
肝心なことは、そうした状況を二度と作り出してはいけないということです。
私の年代ですと、軍歌であろうが厭戦歌であろうが、古い歌にある種のノスタルジーを感じてしまいます。
しかし、これを書きつづってきた今、それらとは朗らかに決別し、やはり底抜けに明るい「きよし」の歌や、マイトガイ「アキラ」の歌や、そして、どんちゃん騒ぎの「ドリフ」の歌の方を選びたいと思うのです。
長々と書いてきましたが、私より若い年代の人が、「へえ、そんなことがあったんだ」と思っていただけることが望外の幸せです。
最後までお目を通していただいた方に多謝
しかし、更に書き進めることは私の情報収集能力や筆力を越えています。
ここらで一応区切りをつけることをお許しいただき、総括的なことを幾分述べたいと思います。
「厭戦歌」という言い方が従前からあったのかどうかはよく分かりません。
これまで述べてきた歌たちは、軍歌でもなく、かといってあからさまな反戦歌でもなく、「厭戦歌」という括り方ではじめて統一的に捉えられるのではないかと思ったのです。
第四回で述べましたように、実質的に反戦歌が存在し得ない中で、戦時下という極限状況を幾分斜に構えたり茶化したりするところに厭戦歌が成立したように思います。
それらは、自分たちの置かれた状況を一応突き放したところにおいてみるある種のユーモアを必要とします。戦後、それらをカバーした曲が、一部を除いてはコミカルな調子を持っていることはその反映ではないでしょうか。
同時にそこには、そこはかとない無常感があることも否定できません。
何しろ、戦争という逃れがたい状況の中で、死と背中合わせであったり、それが垣間見えるところで唱われるのですから。それらはいろいろの屈折を経ながら、戦後のカバー曲の中にもその反響をもたらしているようです。
第一回で、氷川きよしの歌を割合ニュートラルだといいましたが、青春歌謡であるはずのその出だしが、
風に吹かれて花が散る 雨に濡れても花が散る
咲いた花ならいつか散る おなじさだめの恋の花
であるのは、「花は桜木 人は武士」や「咲いた花なら散るのは覚悟」の残響ともいえます。
また、当初私は、「男女の情愛の歌に隠れて厭戦が唱われている」のだというように捉えていました。しかし、いろいろな歌詞を見てくるうちに、その逆も真なのではないかと思うようになりました。
つまり、恋愛どころではない厳しい状況に置かれながらも、「それを貫いて男と女の情愛が唱われている」側面もあるということです。
そしてそこがまた、公の軍歌にはない潤いを感じさせるところでもあるようです。
また、厭戦歌を唱う庶民を、一応戦争に狩り出される被害者、犠牲者の立場から見てきました。しかし、その被害者、犠牲者が、当時の国家の命令によるとはいえ、同時に近隣諸国に対しては加害者として振る舞ってきた側面を見落とすわけにはゆきません。
しかし、その詳細については、主題から逸れるので触れることはしませんでした。
いずれにしても、いくら斜に構えようがどうしようが、それらの歌はしょせん引かれ者の小唄(だから「○○小唄」が多いのでしょうか)に過ぎないともいえます。
肝心なことは、そうした状況を二度と作り出してはいけないということです。
私の年代ですと、軍歌であろうが厭戦歌であろうが、古い歌にある種のノスタルジーを感じてしまいます。
しかし、これを書きつづってきた今、それらとは朗らかに決別し、やはり底抜けに明るい「きよし」の歌や、マイトガイ「アキラ」の歌や、そして、どんちゃん騒ぎの「ドリフ」の歌の方を選びたいと思うのです。
長々と書いてきましたが、私より若い年代の人が、「へえ、そんなことがあったんだ」と思っていただけることが望外の幸せです。
最後までお目を通していただいた方に多謝