これまで、俗謡風に唱われたもののうち、厭戦歌に属するようなものをピックアップしてきましたが、それらがいずれも作詞作曲が不明であったり、既にある曲のパクリであったりしたことを見てきました。
ここには著作権やオリジナリティの尊重といったモラルはいささかもなく、ただただ、その旺盛なパロディ精神を駆使して、元歌以上に心情を込めたりすることにより、元歌よりも民衆の中に浸透してしまうというしたたかさが見られます。
ここでは、今までの厭戦歌の系統とは少し離れるかもしれませんが、そうした同じメロディの使い回し、いわば歌のリサイクルの面白い例を見てみましょう。以下に三つの歌を掲げますが、それらはいずれも同じメロディなのです。
まず最初は、「アムール河の流血や」です。
これは今日ではあまり知られていないので、分かりにくいかも知れませんね。
これは、旧制一高寮歌で、作詞:塩田環、作曲:栗林宇一であることが明らかになっています。歌詞は以下のようです。
1 アムール河の流血や 凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は 怪雲空にはびこりつ
2 コサック兵の剣戟や 怒りて光ちらしけん
二十世紀の東洋は 荒波海に立ちさわぐ
3 満清すでに力尽き 末は魯縞も穿ち得で
仰ぐはひとり日東の 名もかんばしき秋津島
4 桜の匂い衰えて 皮相の風の吹きすさび
清き流れをけがしつつ 沈滞ここに幾春秋
5 向ヶ丘の健男児 虚声偽涙をよそにして
照る日の影を仰ぎつつ 自治領たてて十一年
6 世紀新たに来れども 北京の空は山嵐
さらば兜の緒をしめて 自治の本領あらわさん
1901(明治34)年に旧制第一高等学校(現在東大教養部)の第11回記念祭寮歌として作られたものだそうです。
当時の風潮として、漢語の厳めしい語彙が並んでいますが、二〇世紀初頭の高揚した気分と、極めて時事的な問題とがオーバーラップした一種のアジテーションなのです。
背景となっているのは1900年のロシア軍と清軍との小競り合いの中、ロシア軍が清国民を無差別大量虐殺し、アムール河が血に染まったという事件への悲憤慷慨ですが、よく読むと、殺された清国民への同情に発するというより、3番に見られるように、満清つまり当時の中国大陸の主権者だった連中は、もはや頼りにならないから、「仰ぐはひとり日東の 名もかんばしき秋津島(=日本の別名)」ということで、われわれ日本こそが大陸をも含めて支配すべきだという大陸進出への呼びかけの方が強い内容なのです。
それが、「北京の空は山嵐」という6番に呼応し、「兜の緒を締めよ」で結ばれるわけです。
さて、では次の歌に移りましょう。
これは戦前を多少ご存知の方には、「アア、あれか」と思われるものです。
「歩兵の本領」(作詞:加藤明勝、作曲:栗林宇一)
1 万朶(ばんだ)の桜か 襟の色 花は吉野に嵐吹く
大和男子と生まれなば 散兵線の花と散れ
2 尺余の銃は武器ならず 寸余の剣何かせん
知らずや ここに二千年 鍛えきたえし大和魂
3 軍旗まもる武士は すべてその数二十万
八十余ヶ所にたむろして 武装は解かじ 夢にだも
4 千里東西波越えて 我に仇なす国あらば
港を出でん 輸送船 暫し守れや 海の人
5 敵地に一歩 我踏めば 軍の主兵はここにあり
最後の決は我が任務 騎兵砲兵 共同せよ
(この調子で延々10番まで続くのですが、以後は略)
1911(明治44)年に作られたものですが、文字通り歩兵の心得などを歌にしたものです。
もう既にこの時代、「散兵戦の花と散れ」ということで、散る、逝くが主題になっていることが気にかかります。
それらは、2番の武器を頼りにするな、「鍛えきたえし大和魂」のみが肝要なのだという精神主義に濃厚に現れています。
こうしてみると、日本軍は十五年戦争以前より、一貫して精神主義に貫かれていたことが分かります。そして、こうした精神主義こそが、「死して虜囚の辱めを受くるなかれ」(戦陣訓・8 東条英機の作ったものといわれる)などの様々な不合理なタブーを生み出し、もってすぐる戦争においての犠牲者をいたずらに拡大したことを思うと暗澹たる気持ちにならざるを得ません。
それは例えば、サイパン島における女性や子供をも巻き込んだ玉砕(無謀な突進や自決による全滅作戦)や、沖縄における島民への自決の勧告(強制?)などですが、当時の戦地のどこででもその精神が強要されました。
ビルマ(現ミャンマー)では、降伏を拒否した兵士たちがジャングルを彷徨い(死の行進)、ついには人肉を食すまでにり至りました。私の亡父は、まさにそこで「戦死」したのですが、戦死公報とともに来た遺骨箱には、石ころが入っているのみでした。
また、漫画家・水木しげるは、その作品『総員玉砕せよ!』に九死に一生を得た自己の戦争体験を描き、それは、2007年8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番としてドラマ『鬼太郎が見た玉砕 ~水木しげるの戦争~』として放送されました。
ここまで紹介した二つの歌は大日本帝国の精神的支柱のような詩によって唱われてきたのですが、次の局面にいたって意外な変転を遂げるのです。
それが以下の詩によるものです。
ここまで来ると、かなりの方が、「ア、それなら聴いたことがある」と思い当たるのではないでしょうか。
「聞け万国の労働者」(作詞:大場勇、作曲:栗林宇一)
1 聞け 万国の労働者 とどろきわたるメーデーの
示威者に起こる足どりと 未来をつぐる鬨の声
2 汝の部署を放棄せよ 汝の価値に目醒むべし
全一日の休業は 社会の虚偽をうつものぞ
3 永き搾取に悩みたる 無産の民よ 決起せよ
今や二十四時間の 階級戦は来りたり
4 起て労働者 奮い起て 奪い去られし生産を
正義の手もと 取り返せ 彼らの力何物ぞ
5 われらが歩武の先頭に 掲げられたる赤旗を
守れ メーデー労働者 守れ メーデー労働者
大日本帝国の精神を歌いあげていたはずの同じメロディが、今度は労働者階級を奮い立たせる歌となって現れるのです。
この歌は意外と古く、1920(大正9)年、日本最初のメーデーが東京の上野公園で開かれたときに作られたのだそうです。前の二つと同じメロディですから作曲者が同一であるのは当然ですが、この歌の作詞者・大場勇という人は、当時鉄工所の労働者だったそうです。
ところで、これらの三つの歌は、わずか19年間の間に作られ、唱われたものです。なぜこんな同じメロディイが、違うシチュエーションで使い回されたのでしょうか。
確かに、前二者と最後のものでは全く性格が異なるように見えますが、しかしまた、共通点もあります。それはこの三つとも、人々を奮い立たせるアジテーションの歌だということです。このメロディは単純で唱いやすいため、そうした用途に適しているのでしょう。
そしてそこに、このメロディが、いろいろ使い回されているにもかかわらず、いわゆる厭戦歌には使われなかった理由があります。
今まで見てきたように、厭戦歌というのは、公の建前によるアジテーションに対し、斜に構えたところで唱われるものだからです。
そういえばこのメロディは、寮歌や軍歌、そして労働歌として唱われる一方、各学校での応援歌に多用されていることを見ても、奮起を促すに適したメロディであることがうかがえます。
ちなみに、私の卒業した高校の応援歌にもありました。ついでながら、その学校では、「ラ・マルセイエーズ」も応援歌に入っていて驚いたものです。
以上見てきたように、公にレコードまで出ている歌においてすら、メロディの使い回しのようなことが公然と行われているのですから、しょせん俗謡の仲間である「ズンドコ節」やその他の厭戦歌は、その自出や系譜は極めて曖昧なままで歌い継がれてきたのです。
しかしながら、それがゆえに公式のものでは表現できない庶民の本音のようなものがそこへと込められたともいえます。
※おまけのトリビア
現在は、この三つの歌ともに、栗林宇一の作曲となっていますが、どういう訳か、「歩兵の本領」に関しては、永井建子(けんし 男性です)の作曲とされていました。
しかもそれは、60年以上もそうなっていて、改めて遺族が話し合って栗林宇一の作曲であることが確認されたのは1976(昭和51)年のことだそうです。
この永井という人は、長年、軍楽隊の指揮をしていた人ですから、それ用に編曲したのが作曲と間違えられたようなのです。
もう一つ、とびっきりのトリビア。
この曲、北朝鮮でも、朝鮮人民軍功勲国家合唱団が朝鮮語でカバーして唱っているそうです。
ホラ、やっぱり団結し、奮起せよという歌にぴったりでしょう。
ここには著作権やオリジナリティの尊重といったモラルはいささかもなく、ただただ、その旺盛なパロディ精神を駆使して、元歌以上に心情を込めたりすることにより、元歌よりも民衆の中に浸透してしまうというしたたかさが見られます。
ここでは、今までの厭戦歌の系統とは少し離れるかもしれませんが、そうした同じメロディの使い回し、いわば歌のリサイクルの面白い例を見てみましょう。以下に三つの歌を掲げますが、それらはいずれも同じメロディなのです。
まず最初は、「アムール河の流血や」です。
これは今日ではあまり知られていないので、分かりにくいかも知れませんね。
これは、旧制一高寮歌で、作詞:塩田環、作曲:栗林宇一であることが明らかになっています。歌詞は以下のようです。
1 アムール河の流血や 凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は 怪雲空にはびこりつ
2 コサック兵の剣戟や 怒りて光ちらしけん
二十世紀の東洋は 荒波海に立ちさわぐ
3 満清すでに力尽き 末は魯縞も穿ち得で
仰ぐはひとり日東の 名もかんばしき秋津島
4 桜の匂い衰えて 皮相の風の吹きすさび
清き流れをけがしつつ 沈滞ここに幾春秋
5 向ヶ丘の健男児 虚声偽涙をよそにして
照る日の影を仰ぎつつ 自治領たてて十一年
6 世紀新たに来れども 北京の空は山嵐
さらば兜の緒をしめて 自治の本領あらわさん
1901(明治34)年に旧制第一高等学校(現在東大教養部)の第11回記念祭寮歌として作られたものだそうです。
当時の風潮として、漢語の厳めしい語彙が並んでいますが、二〇世紀初頭の高揚した気分と、極めて時事的な問題とがオーバーラップした一種のアジテーションなのです。
背景となっているのは1900年のロシア軍と清軍との小競り合いの中、ロシア軍が清国民を無差別大量虐殺し、アムール河が血に染まったという事件への悲憤慷慨ですが、よく読むと、殺された清国民への同情に発するというより、3番に見られるように、満清つまり当時の中国大陸の主権者だった連中は、もはや頼りにならないから、「仰ぐはひとり日東の 名もかんばしき秋津島(=日本の別名)」ということで、われわれ日本こそが大陸をも含めて支配すべきだという大陸進出への呼びかけの方が強い内容なのです。
それが、「北京の空は山嵐」という6番に呼応し、「兜の緒を締めよ」で結ばれるわけです。
さて、では次の歌に移りましょう。
これは戦前を多少ご存知の方には、「アア、あれか」と思われるものです。
「歩兵の本領」(作詞:加藤明勝、作曲:栗林宇一)
1 万朶(ばんだ)の桜か 襟の色 花は吉野に嵐吹く
大和男子と生まれなば 散兵線の花と散れ
2 尺余の銃は武器ならず 寸余の剣何かせん
知らずや ここに二千年 鍛えきたえし大和魂
3 軍旗まもる武士は すべてその数二十万
八十余ヶ所にたむろして 武装は解かじ 夢にだも
4 千里東西波越えて 我に仇なす国あらば
港を出でん 輸送船 暫し守れや 海の人
5 敵地に一歩 我踏めば 軍の主兵はここにあり
最後の決は我が任務 騎兵砲兵 共同せよ
(この調子で延々10番まで続くのですが、以後は略)
1911(明治44)年に作られたものですが、文字通り歩兵の心得などを歌にしたものです。
もう既にこの時代、「散兵戦の花と散れ」ということで、散る、逝くが主題になっていることが気にかかります。
それらは、2番の武器を頼りにするな、「鍛えきたえし大和魂」のみが肝要なのだという精神主義に濃厚に現れています。
こうしてみると、日本軍は十五年戦争以前より、一貫して精神主義に貫かれていたことが分かります。そして、こうした精神主義こそが、「死して虜囚の辱めを受くるなかれ」(戦陣訓・8 東条英機の作ったものといわれる)などの様々な不合理なタブーを生み出し、もってすぐる戦争においての犠牲者をいたずらに拡大したことを思うと暗澹たる気持ちにならざるを得ません。
それは例えば、サイパン島における女性や子供をも巻き込んだ玉砕(無謀な突進や自決による全滅作戦)や、沖縄における島民への自決の勧告(強制?)などですが、当時の戦地のどこででもその精神が強要されました。
ビルマ(現ミャンマー)では、降伏を拒否した兵士たちがジャングルを彷徨い(死の行進)、ついには人肉を食すまでにり至りました。私の亡父は、まさにそこで「戦死」したのですが、戦死公報とともに来た遺骨箱には、石ころが入っているのみでした。
また、漫画家・水木しげるは、その作品『総員玉砕せよ!』に九死に一生を得た自己の戦争体験を描き、それは、2007年8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番としてドラマ『鬼太郎が見た玉砕 ~水木しげるの戦争~』として放送されました。
ここまで紹介した二つの歌は大日本帝国の精神的支柱のような詩によって唱われてきたのですが、次の局面にいたって意外な変転を遂げるのです。
それが以下の詩によるものです。
ここまで来ると、かなりの方が、「ア、それなら聴いたことがある」と思い当たるのではないでしょうか。
「聞け万国の労働者」(作詞:大場勇、作曲:栗林宇一)
1 聞け 万国の労働者 とどろきわたるメーデーの
示威者に起こる足どりと 未来をつぐる鬨の声
2 汝の部署を放棄せよ 汝の価値に目醒むべし
全一日の休業は 社会の虚偽をうつものぞ
3 永き搾取に悩みたる 無産の民よ 決起せよ
今や二十四時間の 階級戦は来りたり
4 起て労働者 奮い起て 奪い去られし生産を
正義の手もと 取り返せ 彼らの力何物ぞ
5 われらが歩武の先頭に 掲げられたる赤旗を
守れ メーデー労働者 守れ メーデー労働者
大日本帝国の精神を歌いあげていたはずの同じメロディが、今度は労働者階級を奮い立たせる歌となって現れるのです。
この歌は意外と古く、1920(大正9)年、日本最初のメーデーが東京の上野公園で開かれたときに作られたのだそうです。前の二つと同じメロディですから作曲者が同一であるのは当然ですが、この歌の作詞者・大場勇という人は、当時鉄工所の労働者だったそうです。
ところで、これらの三つの歌は、わずか19年間の間に作られ、唱われたものです。なぜこんな同じメロディイが、違うシチュエーションで使い回されたのでしょうか。
確かに、前二者と最後のものでは全く性格が異なるように見えますが、しかしまた、共通点もあります。それはこの三つとも、人々を奮い立たせるアジテーションの歌だということです。このメロディは単純で唱いやすいため、そうした用途に適しているのでしょう。
そしてそこに、このメロディが、いろいろ使い回されているにもかかわらず、いわゆる厭戦歌には使われなかった理由があります。
今まで見てきたように、厭戦歌というのは、公の建前によるアジテーションに対し、斜に構えたところで唱われるものだからです。
そういえばこのメロディは、寮歌や軍歌、そして労働歌として唱われる一方、各学校での応援歌に多用されていることを見ても、奮起を促すに適したメロディであることがうかがえます。
ちなみに、私の卒業した高校の応援歌にもありました。ついでながら、その学校では、「ラ・マルセイエーズ」も応援歌に入っていて驚いたものです。
以上見てきたように、公にレコードまで出ている歌においてすら、メロディの使い回しのようなことが公然と行われているのですから、しょせん俗謡の仲間である「ズンドコ節」やその他の厭戦歌は、その自出や系譜は極めて曖昧なままで歌い継がれてきたのです。
しかしながら、それがゆえに公式のものでは表現できない庶民の本音のようなものがそこへと込められたともいえます。
※おまけのトリビア
現在は、この三つの歌ともに、栗林宇一の作曲となっていますが、どういう訳か、「歩兵の本領」に関しては、永井建子(けんし 男性です)の作曲とされていました。
しかもそれは、60年以上もそうなっていて、改めて遺族が話し合って栗林宇一の作曲であることが確認されたのは1976(昭和51)年のことだそうです。
この永井という人は、長年、軍楽隊の指揮をしていた人ですから、それ用に編曲したのが作曲と間違えられたようなのです。
もう一つ、とびっきりのトリビア。
この曲、北朝鮮でも、朝鮮人民軍功勲国家合唱団が朝鮮語でカバーして唱っているそうです。
ホラ、やっぱり団結し、奮起せよという歌にぴったりでしょう。