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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

パラノ? スキゾ? ニューアカの想い出とそして・・。

2008-01-17 06:21:13 | 想い出を掘り起こす
 四月の頭に、ある会合で勉強の成果(?)を発表することとなっている。
 予め決まっていた発表者がキャンセルし、そのピンチヒッターに指名されたのだが、バッターボックスに立てるというだけの軽薄な動機と、指名されたという喜びに舞い上がってしまい、つい引き受けてしまったのだ。
 引き受けてしまってから、その責の重大さに気付き、あわてふためいて付け焼き刃の勉強をはじめるというのだから、わがことながら困ったものである。
 
 その発表の参考資料とすべく、いわゆるニューアカ・ブームに火を付けた浅田 彰のものをパラパラッと参照してみた。それらの書は、『構造と力』(1983)と、『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』(1984)の二冊だが、その内容には立ち入らないでおこう。
 若き日々の自分自身をちゃんと清算できないまま、勉強するでもなく、ただただ目に付くものを読み漁り、のんべんだらりん過ごしていた私にとって、これらの書がある衝撃を与えたことは否定し得ない。が、その内容についても言うまい。取り敢えずは、その、いわゆるニューアカブームに関しての想い出を綴ることとしよう。

 

 これらの書のもたらしたインパクトは、それが若干26才の京大の助手によって書かれたものであること、そしてその彼が、臆すことなく当時のビッグネームの思想家に立ち向かったばかりか、それらをチャート式にまとめてしまったことにあった。
 それらの本は売れた。人文書籍としては例がない短期間の間に、ミリオンセラーとなった。
 巷では、OLすらもが『構造と力』を小脇に抱えて闊歩したなどと報じられたが、この報道には底意がある。要するに、「女子供ですら」という例のあれである。しかも、「分かりもしないくせに」という蔑視が張り付いていた。
 ミリオンセラーになるためには、もちろん男性も買ったのであり(そのほうが数は多いはずだ)、そして、それらの男性は総じてそれを理解したとはとても思えない。私を含めてである。
 浅田氏はちゃんと勉強をしていて、彼がもたらした情報量は圧倒的であった。

 
 
 彼の『逃走論』は、人のありようを類型化し、「パラノイック(固執型)」と「スキゾフレーニー(分裂型)」とする(もともとはドゥルーズなどの論)明解なもので、要するに世の中には何かにしがみつくオタッキーな人間と、常にそこから逃げ出し、私が私ではないようなパッパラパーな人間がいて、後者こそが望ましいとするものであった。
 もちろんこれは、彼の独創ではなくて、ナチズムやスターリニズムといったパラノイックな体制を経験した当時の思想が辿り着いたひとつの境地を纏め上げたものだが、彼の展開は、そうした歴史的経験的なものを感じさせないまま、軽やかな逃走を勧めるものであった。

 この「パラノ」と「スキゾ」という明解な区分立ては、週刊誌ネタにまでなって蔓延するなど一世を風靡し、ついには、その年(1984)から始まった、「現代用語の基礎知識」が催す「新語、流行後大賞」の新語部門で銅賞を獲得した(現在は流行語のみ、ちなみに昨年の大賞は「ハニカミ王子」<アマチュアゴルフの石川遼選手>と「どげんかせんといかん」<東国原英夫・宮崎県知事>)。
 なお、その折りの金賞は、NHKの朝ドラ『おしん』ブームをとりあげた「オシンドローム」であった。

 

 こうしたニューアカブーム(ア、説明し忘れたけど、ニューアカって言うのは決して「新しい共産主義」とかってことではなく、「大学の研究室を離れた巷間の新しいアカデミズム」ということです)を、一過性の社会現象として冷ややかに捉える向きが主だが、私は必ずしもそうは思わない。
 それを契機に、なんの腹の足しにもならない思想というものに触れた人は多いのであり、また、中にはそれを踏み台として学んだ人たちも多いと思われるからだ。

 ニューアカブームのもう一つの効用は、各出版社が、これまでその分野の本を出していなかったところも含めて、その種の本を相継いで出し、広く海外の思想家のものなどが紹介されたことである。
 更には、そうしたブームのおかげで、人文系の本がある程度の部数売れるようになり、手に入れやすい価格でそれらが供給されたことである。
 そうしたブームが去った現今では、ちょっとしたものが6,000円から8,000円という世界であり、これが大冊で上下二巻に別れたりしようものなら、たちまち福沢さんがお二人居なくなるということで、私のような年金生活者には高嶺の花なのである(図書館さん、お世話になります)。

 

 文化というのは、概して腹の足しにはならないものである。むしろ、腹の足しを離れてはじめて成立するものともいえる。
 しかし、一方、極めて廻りっくどい経路を経てであるが、どっかでそれらは腹の足しに回帰するのだと、一応は思っている。しかもそれらは、人類と共にある欲望の表出であることには間違いない。




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