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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「ヤー・チャイカ!」かもめが翔んだ日・・

2008-01-12 05:22:15 | 書評
*以下は、『新潮』2月号の巻頭を飾った黒川 創氏の小説、「かもめの日」を読んでの全く独りよがりな感想です。 


 「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」は通奏低音なのだろうか。
 いずれにしてもそれはプレリュードとしてこの小説の冒頭におかれ、さらに全編にわたって、その余波を及ぼし続ける。

 物語は、モザイク片のようなシーンが、まるでジグソーパズルのピースのように散りばめられるところから始まる。
 しかし、やがてそれらのモザイク片は、人工衛星からの視線のように、透明の糸で繋がれてゆく。いや、もともと繋がれていたものの露見なのかもしれない。
  
 そしててそれは、語る世界へと移行する。
 シーンの移行がFM放送局にかかわるとすれば、視線と見えたものが、語りとしてのパロールの世界になることは必然であるのかもしれない。
 「地球は青かった」という語りがその青さを表象として固着したり、「ヤー・チャイカ」の叫びが「テレシコワ」という女性を「かもめ」として現出せしめたように。

     

 しかし、こうした視線や語りは、最終的に書かれたものとして提示されるだろう。
 それが言葉の流通の普遍的楽譜のようなものであれば。
 果たせるかなこの小説も、「作家」によって書かれた章によって収斂してゆくのである。
 ここでいっているのは、作者としての黒川氏のことではない。作者が常に作品の外部にいて書く者であることは極めて当たり前だから。

 この場合の書かれたものとは、登場人物の作家・瀬戸山の書いたものが朗読されるシーンをいっているのである。そして、これによって最後のピースが埋められるのだが、作中人物の書いたものがその物語全体の構造を最終的に支えるという二重化された仕組みにもなっていてとても面白い。
 いわば、劇中劇の引用としての劇が、本元の劇の成立を担保しているのである。
 これをもって、見たもの、語られたもの、書かれたものが相互にせめぎ合いながら、ひとつの横断面として、ほぼ全貌を提示されることとなる。

     
  
 その終幕以前に、もう一つ、全く平行に進んでいた事態がクロスするのであるが、その交差は少し推理小説に馴染んだものにとっては予め推測できたとはいえ、少女の仕草とADの青年のその後の行動の描写によって起承転結の平板という罠を免れている。

 文中に様々なエピソードとしてのピースが登場するのだが、往時の人工衛星にまつわる事情やFM局の内情、後半の交通博物館に関するものなど、実に丹念に調べられていて、それ自身がとても面白い。
 そうした事実と虚構の狭間にあるものとして、百歳になるチェーホフの妹がニキータ・フルシチョフに送ったという「マリアの電報」は実に面白かった。フルシチョフをリアルタイムに知っている私としては、もしその電報が打たれたとしたら、彼がどんな表情でそれ読んだかすら想像できてしまうのだ

 惜しむらくは、というのは私が勝手に惜しんでいるのだが、最初に述べた通奏低音のような「ヤー・チャイカ」を後半、とりわけ最終局面で、見失いそうになったことだった。

 
 
 しかし、それはや仕方ないのだろう。
 「ヤー・チャイカ」はなにがしか宇宙空間に対する人々のロマンを付帯するものであったとはいえ、この作品自体が示唆するように、それは当初から、政治や軍事、人体実験の場であったのであり、後半で少女がいうように、はるかな宇宙空間から、携帯の光すら識別する探索機のパラポラアンテナにすっかり変身してしまっていたのだから。
 
 しかし、そうばかりではない、それ、つまり、かもめはいたのだ。
 「川のほうへと向きなおり、膝を抱く。白い鳥が、水面すれすれに飛んでいき、だんだん、空に上がっていくのを、目で追った。」(P109)
 多摩川の白いかもめ、ユリカモメであろうか。いずれにしてもそれはどんどん上昇し、そして叫ぶだろう、「ヤー・チャイカ」と。

 

 ちなみにチェーホフは、その『かもめ』という脚本のタイトルに、「四幕の喜劇」との断りを添えている。しかし、それは決していわゆる笑劇ではない。
 だとしたら、悲劇と喜劇を分かつのはどこにおいてだろうか。それは、チェーホフのように、あるいはシェークスピアのように、舞台を模して観るものの特異な視点においてだろうか。
 いずれにしても、舞台に上がってしまっている、というより舞台そのものが不可視な私たちは、それが悲劇であるか喜劇であるかは分からぬままに、ただ演じ続ける他はないのだ。
 
 しかし、私は夢見る。既成の立脚点=大地を離れた空間に臨んで、ヤー・チャイカと、驚愕し、恐怖し、戦慄し、歓喜し、祝福し、そしてなによりも、来るべき「できごと」の到来に、できうる限りおのれを開きながら飛翔することを。


 





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ケータイが小説する時代?

2008-01-11 00:31:18 | よしなしごと
 
 
 昨年の小説の売れ行きのベストスリーがすべて携帯小説だそうで、その第一位の『恋空』は200万部を売ったとのことです。
 そこで、この作者、美嘉という人のブログへ行ってみました。ここで作品も読めるのですが、そのアクセス数を見て驚きました。なんと延べ2,600万の人たちがここを訪れているのです。

 その小説の方は、携帯の画面の性格上、短いセンテンスのチャット状のものです。
 例えば、そのプロローグはこんな具合です。

もしもあの日君に出会っていなければ
こんなに苦しくて
こんなに悲しくて
こんなに切なくて
こんなに涙が溢れるような想いはしなかったと思う。

けれど君に出会っていなければ
こんなに嬉しくて
こんなに優しくて
こんなに愛しくて
こんなに温かくて
こんなに幸せ気持ちを知ることもできなかったよ…。

涙こらえて私は今日も空を見上げる。

空を見上げる。

(実際には、行間はもっと空けて書かれています)

 

 こんなことを調べていたら、下のような文章に出会いました。もちろん、私の文章ではなく、「小説の面白さ」についてある小説家が書いたものです。
 この作家独特の諧謔に満ちた逆説的なもの言いもあるようですが、上に述べた状況と少しばかりひねったところでどこか呼応しているようには思いませんか。
 
 なお、謎解きの面白さで、作家の名前は予めお読みにならないで最後にされることをお勧め致します。

 

小説の面白さ 

 小説と云うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うと云うような性質のものではないのであります。小説を読んで、襟(えり)を正しただの、頭を下げただのと云っている人は、それが冗談ならばまた面白い話柄でもありましょうが、事実そのような振舞いを致したならば、それは狂人の仕草と申さなければなりますまい。たとえば家庭に於いても女房が小説を読み、亭主が仕事に出掛ける前に鏡に向ってネクタイを結びながら、この頃どんな小説が面白いんだいと聞き、女房答えて、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」が面白かったわ。亭主、チョッキのボタンをはめながら、どんな筋だいと、馬鹿にしきったような口調で訊(たず)ねる。女房、俄(にわ)かに上気し、その筋書を縷々(るる)と述べ、自らの説明に感激しむせび泣く。亭主、上衣を着て、ふむ、それは面白そうだ。そうして、その働きのある亭主は仕事に出掛け、夜は或るサロンに出席し、曰(いわ)く、この頃の小説ではやはり、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」に限るようですな。
 
 小説と云うものは、そのように情無いもので、実は、婦女子をだませばそれで大成功。その婦女子をだます手も、色々ありまして、或(ある)いは謹厳を装い、或いは美貌をほのめかし、あるいは名門の出だと偽り、或いはろくでもない学識を総ざらいにひけらかし、或いは我が家の不幸を恥も外聞も無く発表し、以て婦人のシンパシーを買わんとする意図明々白々なるにかかわらず、評論家と云う馬鹿者がありまして、それを捧げ奉り、また自分の飯の種にしているようですから、呆れるじゃありませんか。
 
 最後に云って置きますが、むかし、滝沢馬琴と云う人がありまして、この人の書いたものは余り面白く無かったけれど、でも、その人のライフ・ワークらしい里見八犬伝の序文に、婦女子のねむけ醒(ざま)しともなれば幸なりと書いてありました。そうして、その婦女子のねむけ醒しのために、あの人は目を潰(つぶ)してしまいまして、それでも、口述筆記で続けたってんですから、馬鹿なもんじゃありませんか。
 
 余談のようになりますが、私はいつだか藤村と云う人の夜明け前と云う作品を、眠られない夜に朝までかかって全部読み尽し、そうしたら眠くなってきましたので、その部厚の本を枕元に投げ出し、うとうと眠りましたら、夢を見ました。それが、ちっとも、何にも、ぜんぜん、その作品と関係の無い夢でした。あとで聞いたら、その人が、その作品の完成のために十年間かかったと云うことでした。


 

 以上がその引用です。
 いかが思われますか?

 さて、私はというと、昨年末、『ロリータ』と『透明な対象』というナボコフのものを二冊読みました。
 今は、『新潮』二月号の巻頭を飾った黒川 創氏の「かもめの日」(330枚)を読んでいます。氏とは、昨年、縁あって同じ会に列席させていただき、ひと言二言、言葉を交わしたご縁があります。読了したらまた、感想など載せましょう。

 さて、上に引用した作家の名を明かしましょう。以下です。
   出典:ちくま文庫「太宰治全集10」より



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日記らしく?・・初映画、初コンサート。

2008-01-09 05:46:49 | よしなしごと
 ご託を並べるばかりが能ではないので、たまには時系列に添った日記らしい日記を書こう。
 といっても昨日のことだが、そこのところはご容赦願いたい。

 締め切りをひとつクリアーし、その校正も済んだので、今年はじめて名古屋へ出る。
 まずはシネマテークで初映画

 『ここに幸あり
 これを聞いて、かつての大津美(よし)子の歌を思い出すとしたら、あなたはもう年金世代(笑)。
 監督はオタール・イオセリアーニ。イタリア人的な名前だが、旧ソ連、グルジアの出身。
 映画の制作国は、フランス、イタリア、ロシアとある。

 

 なぜ観に行ったかというと、この監督のものでかつて観た、『月曜日に乾杯!』、『素敵な歌と舟はゆく』が何ともいえぬすっぽ抜けたような味を出していたからだ。
 まあ、少し理屈っぽく言うと、すっぽ抜けたらこの競争社会の中ではアウトということなのだが、この監督は執拗にすっぽ抜けることを追求している。この映画もそうだ。
 この映画についてはあまり語るまい。賢しら気に語ることから身を引くことこそがこの映画の真意なのだから。
 主人公の母親役、ミシェル・ピッコリがいい味を出していた。

 

 映画のあとはやはり初コンサートだ。
 河合優子モーツアルト・ピアノソナタ全曲演奏会(全4回)の最終回。

 この人、地元愛知の出身。菊里高校から愛知県立芸大、そして今は、ポーランドに住むショパン弾き
 しかし、モーツアルトも良い。メリハリが効いていて表情が豊かである。特に、最後のソナタ第17番ニ長調(K576)の終章、対位法が全面的に展開される箇所の演奏は鮮やかであった。

        

 このコンサート、設営から手伝ったこともあり、彼女のリハーサル風景から、最後の打ち上げまで付き合うこととなった

 彼女の写真はそのHPからのパクリだが、風景を撮したものは、映画とコンサートの間の街中の夕まぐれである。
 昨日の夕方は、一月にしては暖かかった。厳しい寒さの宵よりも、少しけだるい冬の夕べの方がなんとなくメランコリーである

 打ち上げで飲んだワインの火照りが残っている中でこれを書いている。
 考えてみれば、贅沢な一日だった。
 



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忘れた手紙とフロイト先生への感謝状

2008-01-07 14:57:03 | よしなしごと
 以下に掲載する写真は、一枚を除いて、文中に出てくる私の家と郵便ポストとの間の風景です

 ある人のブログに記憶の問題が書かれていたので、それについてもっともらしいコメントを付けた後、とんでもないことを思い出しました。

 昨年末のことでした。ある人に手紙を出す必要があって、それをしたため投函に出かけました。
 ポストは家から三百メートルもないほどの近さです。それでも冬の外気は冷たく、早く投函して帰ろうとつい早足になるのでした。

 ポストの前に着きました。
 ないのです。
 ポストじゃぁないですよ。
 投函するはずの手紙がないのです。

 急いで家にとって返しました。
 玄関で、私が靴を履いた傍らに、それはちょこんと置かれていました

 
    玄関先の蛙六匹です。揃って新年をムカエルことが出来ました。

 フロイトは、その『精神分析入門』の中で、人の失錯行為にはそれなりの理由があるとしています。
 今、思い出す例では、どっかの国(ドイツ?)の議会の開会に当たり、議長が、「只今より、第○○回議会を開会します」というべきところを「閉会します」といってしまったのです。
 日本語ではは文字は似ていますが、発音は違います。その国(ドイツ?)の言葉では発音が似ているところがあるのだそうです。
 
 私たちなら、「ああ、だから間違えたんだな」と思ってお終いにするのですが、フロイト先生はさらに考えます。
 その議会というのは、その議長の属する与党側にとって大変厳しいものだったというのですね。まあ、今の自公政権のようなものです。
 従って議長には、その議会を一日も早く乗り切って閉会したいという願望があり、その願望が無意識のうちに働いてそうした言い間違いをしたのだということになるのです。

 
        私の家のすぐそばのモルモン教会

 フロイトは、熱烈な恋愛で結ばれた夫妻のことにも触れています。彼らは恋愛時代、激しい恋心を訴えたラブレターを交換していました。夫の方は、時折それをとりだしては読み、その愛を反芻するのでした。
 ところがある日、どこを探してもその手紙が見つからないのです。懸命に探したのですが、遂に見つかりませんでした。
 そしてどれだけかが経ち、彼らの愛は醒め、ついには離婚することとなりました。
 するとどうでしょう。あれほど探しても見つからなかった例の手紙が、なんだこんなところにあったのかというところから見つかったというのです。

 そこでフロイト先生はいいます。実は、本人も気付いていなかったにもかかわらず、その手紙が見つからなかった段階で、既に夫の方の愛は醒めていたのだ、と。従って、懸命に探していたにもかかわらず、無意識のうちでは、もうその手紙は見たくないというので、そのあるべき場所を探さなかったというのです。

 

 さて、その応用です。私が手紙も持たずにポストまで出かけたというのは、実は、その手紙を出したくはなかったのだということになります。
 もちろん、私はその手紙を必要があって出したのであり、今のところその人を忌避する理由は表面的にはなにも見いだせません。しかし、フロイト先生にいわせると、私の意識下には、その人への嫉妬か羨望か、あるいは密かな憎しみといったコンプレックスが潜んでいることになります。

     
     これのみ、ポストから少し行った冬の川。春には桜が・・。


 というようなわけで、今の私にとって、フロイト先生はとても便利な方なのです。
 なぜなら、明らかに認知症の始まりである私の失錯行為を、フロイト先生は精神分析学の言葉で、そうではないものに翻訳してくれるからです。
 フロイト先生、これからもなにとぞよろしくお願い致します。

 ア、それから、私が置き忘れて出かけた手紙、決してあなた宛のものではありませんからね。
 エ? じゃぁ誰宛かって? それは、ナ・イ・ショ



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「理性」の裏には「狂気」が張り付いている

2008-01-05 04:54:17 | 現代思想
 これは、私が昨年末書いた、『実録・連合赤軍』(若松孝二監督)に呼応するように寄せられた、私より二世代ほど若い人の文章への応答です。
 彼女の許可を取っていませんので、全文の掲載は致しません。
  
 

>○○こさん
 お書きになったタイトルに「狂信」とありましたので、「ン?」と思ったのですが、終わりの三行を読んで、安心(?)致しました。

そんでも、これを、この状態を「狂気」と呼ぶのは危ない。「狂気」と呼んで自分から遠ざけるのは危ない。
これは、この状態は、多分人がみんな持ちあわせているものなんだろうなあ。」


 そうなのです。あれを「狂気」として遠ざけることは出来ないのです。
 なぜなら、あの閉塞された状況下で「狂気」とも思えるような形で起こる出来事は、より大きな視野から見れば、狂気の反対物とも思える近代「理性」の裏にべったり張り付いているものなのです。

 近代理性は、意志の力により、事態を正しい方向へと動かそうとします。たとえば歴史のゆがみを正そうとします。その時、彼らの中には、歴史はこうした方向へ向かって進むべきだという「大きな物語」がはっきりと形をなしています。もちろん、自分はその側にいる、つまり、真理や正義は自分の側にあるという確信を持っているわけです。

 従って、その真理や正義に忠実であろうと突き詰めれば突き詰めるほど、その「理性」は、反対物である「狂気」に似てきます。
 例えば、ナチズムやスターリニズムは、今や単純に悪の体制であったとして片付けられていますが、あれとても、19世紀末の初期資本主義の野蛮な体制、そしてはじめての近代戦であった第一次世界大戦の悲惨な結果に対する理性の側からの応答であったわけです。少なくとも、その初期における動機については。
 しかし、それが、数百万を越える野蛮で狂気ともいうべき殺戮へと至ったことは歴史の示すところです。

 日本の戦時中の様相もそうです。19世紀末以来の悲惨を、西洋文明の限界(これはある意味で正しい)と捉え、日本を中心とした大東和共栄圏を築こうという「理性」的な試みとして、近隣諸国への侵略は開始されました。
 それが南京大虐殺や、沖縄の民間人への自決の強要という悲惨に至ったことは周知の通りです。
 国内で戦争に反対する人たちは、憲兵隊へ連行され、「大和魂を注入してやる」という名目でリンチを受け(連赤と一緒です)、裁判もなく多くの人が死亡しました。

 女性たちも負けてはいませんでした。「大日本愛国婦人会」のたすきを掛けたおばさんたちは、化粧の濃い女性やパーマをかけた女性を発見し次第、「非国民」とののしり、顔に鍋墨を塗ったり、ハサミで頭髪を切ったりしました。

 これらはすべて、歴史が進むべき道に忠実であらんとした真面目な「理性」の名において行われました。戦争に反対したり、戦時体制に従わないものの方が「狂気」だったのです。

 連赤の事件は、少数の限られた範囲でのできごとでしたから、「狂気」で片付けられてしまいますが、同じ次元のできごとが、ベトナムでもカンボジアでもハンガリーやチェコでもあり、そして今日でもアフガンやイラクで起こっていることなのです。それぞれが「理性」の名において。

 こんなたいそうな世界史的事件を持ち出すまでもなく、私たちは常に、虐めや差別、相手の抹殺という加害者たり得る局面に晒されています。「理性」という名の「狂気」において。

 若松監督の意図は、二つあったように思います。
 ひとつは、巷間、興味本位に描かれていた事態を歴史的文脈にちゃんと置いてみること(これはタイトルに付された「実録」にあらわれています)、そしてもう一つは、狂気としてそれを忌避するのではなく、人間のありようとして直視せよと言うことではないかと思うのです。

 評論家風に生意気なことを書いていますが、私自身そうした「理性」=「狂気」のうちにあったことがあり、あの映画を「作品」として距離を置いて評価するとは出来ないのです。
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母が作ってくれた硬式ボール

2008-01-03 17:43:09 | 想い出を掘り起こす
 正月、子供と孫が来ました。
 元旦、94歳の母のところへ行きました。親子四代の出会いです。
 母は高等小学校の出身です。
 とても素早しっこしくて、郡の運動会で一等になったのが自慢です。
 卒業後、看護婦になりたくて見習いに行きました。手術の見学の時、失神しました。
 それで看護婦は諦め、今のミズノの前身のスポーツ用具店に入り、もっぱら硬式ボールを縫っていました。
 縁あった、亡父と結婚したのですが、以来、内助の功ばかりか、父の仕事も表だって手伝ってきました。

     

 父は戦争にとられ、敗戦時はハルビンで、ソ連軍に持って行かれたままずーっと生死不明でした。シベリアへ抑留されていたのです。
 母と私は、いわば母子家庭のようなもので、母は編み物の内職で、私はさる銀行の頭取の息子の遊び相手というバイト(いくら貰っていたのかは分かりません)で暮らしていました。

 戦後のなんにもない時期、子どもたちの夢は野球でした。
 母は、私のためにあり合わせの厚い生地で、グローブを作ってくれました。そして、なんと、昔取った杵柄でボールまで作ってくれました。
 でもそれは硬式ボールでした。
 表面は皮ではなかったと思いますが、その縫い目は赤い糸で、しかもその縫い目の数は、甲子園やプロ野球で使うものと同じだったようです。
 終戦直後、大垣の郊外の片田舎で、硬式ボールで野球をしていたのは稀有なことだと思います。
 
 ところが、教師がこれは危険だからといって取り上げてしまいました。
 私たち子供はがっかりしました。それ以上にがっかりしたのは母でした。母は、硬球ボールしか作れないのです。

 
  私が買ってきてやったグラビア風の本を見て喜んでくれました。
 
 終日の編み物で母が疲れ肩が凝ると、私の役目は肩たたきです。ただ叩くのは退屈なので、歌を唱いました。童謡やその頃はやった流行歌です。
 あまり覚えていませんが、当時のラジオドラマの主題歌、『鐘の鳴る丘』や『異国の丘』だけは覚えています。
   
  きょ~おも、く~れ~ゆ~く、いこくのお~か~に~
 
 その哀愁を帯びた歌は、父へと届けという叫びのような歌でした。
 その父は、零下30℃の中、強制労働に耐え、私が小四の時帰国しました。
 もともと頑強な人でしたが、帰ってきたときにはズタズタでした。

 十数年前に父を喪った後、母は戦後を共に生き抜いてきた同志のような存在です。元気はいいのですが、ほとんど耳が聞こえないため会話はすれ違います。
 でも、どこかにすれ違わないものがあるのです。

 ちなみに、幼くして両親を亡くした私にとって、二人とも養父母でしたが、違和感を感じたことは一度もありませんでした。

追記
 養父母には違和感を感じませんでしたが、私自身の身辺には、ある種の差別はありました。
 小学校の時、「貰われ子」といって囃されたり、「貰われ子のくせに」といわれたことがありました。
 でも貰われ子がどうしていけないのか理解できなかったので、へっちゃらでした。囃している奴が馬鹿に見えました。

 高校は商業学校でしたが、まあまあの成績の人は銀行に就職できました。
 しかし、一年の時、担任の教師から、六君は勉強しても銀行は無理だよといわれました。
 当時銀行などの一流企業は、養子や片親の子の採用には厳しかったのです。
 その教師に感謝しています。ならば大学を狙おうと決心するきっかけを与えてくれたのですから。

 ですから、今も血縁にはクールです。血縁などは単に遺伝子の授受関係に過ぎません。一緒に暮らしていれば血縁などなくとも愛情が湧くものです。
 逆に、血縁があっても殺し合います。

 中国残留孤児の問題にしても、日本の棄民政策への憤りはありますが、中国の人に数十年も育てられたら、その家の子供でどうしていけないのかが分かりません。むろん、複雑な事情があるのでしょうが、私なら、私を育ててくれた人を父と呼び母と呼びます。国籍や血縁は私をこの世に送り出した偶然的な契機にすぎないと思うからです。
 むろん、それらが私をさまざまに規定することは否定しませんが・・。


 

 


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ア・ハッピィ・明けましておめでとう!

2008-01-01 10:48:09 | インポート
 


      目出度さもチュウぐらいなりおらが春    六茶
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