*以下は、『新潮』2月号の巻頭を飾った黒川 創氏の小説、「かもめの日」を読んでの全く独りよがりな感想です。
「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」は通奏低音なのだろうか。
いずれにしてもそれはプレリュードとしてこの小説の冒頭におかれ、さらに全編にわたって、その余波を及ぼし続ける。
物語は、モザイク片のようなシーンが、まるでジグソーパズルのピースのように散りばめられるところから始まる。
しかし、やがてそれらのモザイク片は、人工衛星からの視線のように、透明の糸で繋がれてゆく。いや、もともと繋がれていたものの露見なのかもしれない。
そしててそれは、語る世界へと移行する。
シーンの移行がFM放送局にかかわるとすれば、視線と見えたものが、語りとしてのパロールの世界になることは必然であるのかもしれない。
「地球は青かった」という語りがその青さを表象として固着したり、「ヤー・チャイカ」の叫びが「テレシコワ」という女性を「かもめ」として現出せしめたように。
しかし、こうした視線や語りは、最終的に書かれたものとして提示されるだろう。
それが言葉の流通の普遍的楽譜のようなものであれば。
果たせるかなこの小説も、「作家」によって書かれた章によって収斂してゆくのである。
ここでいっているのは、作者としての黒川氏のことではない。作者が常に作品の外部にいて書く者であることは極めて当たり前だから。
この場合の書かれたものとは、登場人物の作家・瀬戸山の書いたものが朗読されるシーンをいっているのである。そして、これによって最後のピースが埋められるのだが、作中人物の書いたものがその物語全体の構造を最終的に支えるという二重化された仕組みにもなっていてとても面白い。
いわば、劇中劇の引用としての劇が、本元の劇の成立を担保しているのである。
これをもって、見たもの、語られたもの、書かれたものが相互にせめぎ合いながら、ひとつの横断面として、ほぼ全貌を提示されることとなる。
その終幕以前に、もう一つ、全く平行に進んでいた事態がクロスするのであるが、その交差は少し推理小説に馴染んだものにとっては予め推測できたとはいえ、少女の仕草とADの青年のその後の行動の描写によって起承転結の平板という罠を免れている。
文中に様々なエピソードとしてのピースが登場するのだが、往時の人工衛星にまつわる事情やFM局の内情、後半の交通博物館に関するものなど、実に丹念に調べられていて、それ自身がとても面白い。
そうした事実と虚構の狭間にあるものとして、百歳になるチェーホフの妹がニキータ・フルシチョフに送ったという「マリアの電報」は実に面白かった。フルシチョフをリアルタイムに知っている私としては、もしその電報が打たれたとしたら、彼がどんな表情でそれ読んだかすら想像できてしまうのだ
惜しむらくは、というのは私が勝手に惜しんでいるのだが、最初に述べた通奏低音のような「ヤー・チャイカ」を後半、とりわけ最終局面で、見失いそうになったことだった。
しかし、それはや仕方ないのだろう。
「ヤー・チャイカ」はなにがしか宇宙空間に対する人々のロマンを付帯するものであったとはいえ、この作品自体が示唆するように、それは当初から、政治や軍事、人体実験の場であったのであり、後半で少女がいうように、はるかな宇宙空間から、携帯の光すら識別する探索機のパラポラアンテナにすっかり変身してしまっていたのだから。
しかし、そうばかりではない、それ、つまり、かもめはいたのだ。
「川のほうへと向きなおり、膝を抱く。白い鳥が、水面すれすれに飛んでいき、だんだん、空に上がっていくのを、目で追った。」(P109)
多摩川の白いかもめ、ユリカモメであろうか。いずれにしてもそれはどんどん上昇し、そして叫ぶだろう、「ヤー・チャイカ」と。
ちなみにチェーホフは、その『かもめ』という脚本のタイトルに、「四幕の喜劇」との断りを添えている。しかし、それは決していわゆる笑劇ではない。
だとしたら、悲劇と喜劇を分かつのはどこにおいてだろうか。それは、チェーホフのように、あるいはシェークスピアのように、舞台を模して観るものの特異な視点においてだろうか。
いずれにしても、舞台に上がってしまっている、というより舞台そのものが不可視な私たちは、それが悲劇であるか喜劇であるかは分からぬままに、ただ演じ続ける他はないのだ。
しかし、私は夢見る。既成の立脚点=大地を離れた空間に臨んで、ヤー・チャイカ!と、驚愕し、恐怖し、戦慄し、歓喜し、祝福し、そしてなによりも、来るべき「できごと」の到来に、できうる限りおのれを開きながら飛翔することを。
「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」は通奏低音なのだろうか。
いずれにしてもそれはプレリュードとしてこの小説の冒頭におかれ、さらに全編にわたって、その余波を及ぼし続ける。
物語は、モザイク片のようなシーンが、まるでジグソーパズルのピースのように散りばめられるところから始まる。
しかし、やがてそれらのモザイク片は、人工衛星からの視線のように、透明の糸で繋がれてゆく。いや、もともと繋がれていたものの露見なのかもしれない。
そしててそれは、語る世界へと移行する。
シーンの移行がFM放送局にかかわるとすれば、視線と見えたものが、語りとしてのパロールの世界になることは必然であるのかもしれない。
「地球は青かった」という語りがその青さを表象として固着したり、「ヤー・チャイカ」の叫びが「テレシコワ」という女性を「かもめ」として現出せしめたように。
しかし、こうした視線や語りは、最終的に書かれたものとして提示されるだろう。
それが言葉の流通の普遍的楽譜のようなものであれば。
果たせるかなこの小説も、「作家」によって書かれた章によって収斂してゆくのである。
ここでいっているのは、作者としての黒川氏のことではない。作者が常に作品の外部にいて書く者であることは極めて当たり前だから。
この場合の書かれたものとは、登場人物の作家・瀬戸山の書いたものが朗読されるシーンをいっているのである。そして、これによって最後のピースが埋められるのだが、作中人物の書いたものがその物語全体の構造を最終的に支えるという二重化された仕組みにもなっていてとても面白い。
いわば、劇中劇の引用としての劇が、本元の劇の成立を担保しているのである。
これをもって、見たもの、語られたもの、書かれたものが相互にせめぎ合いながら、ひとつの横断面として、ほぼ全貌を提示されることとなる。
その終幕以前に、もう一つ、全く平行に進んでいた事態がクロスするのであるが、その交差は少し推理小説に馴染んだものにとっては予め推測できたとはいえ、少女の仕草とADの青年のその後の行動の描写によって起承転結の平板という罠を免れている。
文中に様々なエピソードとしてのピースが登場するのだが、往時の人工衛星にまつわる事情やFM局の内情、後半の交通博物館に関するものなど、実に丹念に調べられていて、それ自身がとても面白い。
そうした事実と虚構の狭間にあるものとして、百歳になるチェーホフの妹がニキータ・フルシチョフに送ったという「マリアの電報」は実に面白かった。フルシチョフをリアルタイムに知っている私としては、もしその電報が打たれたとしたら、彼がどんな表情でそれ読んだかすら想像できてしまうのだ
惜しむらくは、というのは私が勝手に惜しんでいるのだが、最初に述べた通奏低音のような「ヤー・チャイカ」を後半、とりわけ最終局面で、見失いそうになったことだった。
しかし、それはや仕方ないのだろう。
「ヤー・チャイカ」はなにがしか宇宙空間に対する人々のロマンを付帯するものであったとはいえ、この作品自体が示唆するように、それは当初から、政治や軍事、人体実験の場であったのであり、後半で少女がいうように、はるかな宇宙空間から、携帯の光すら識別する探索機のパラポラアンテナにすっかり変身してしまっていたのだから。
しかし、そうばかりではない、それ、つまり、かもめはいたのだ。
「川のほうへと向きなおり、膝を抱く。白い鳥が、水面すれすれに飛んでいき、だんだん、空に上がっていくのを、目で追った。」(P109)
多摩川の白いかもめ、ユリカモメであろうか。いずれにしてもそれはどんどん上昇し、そして叫ぶだろう、「ヤー・チャイカ」と。
ちなみにチェーホフは、その『かもめ』という脚本のタイトルに、「四幕の喜劇」との断りを添えている。しかし、それは決していわゆる笑劇ではない。
だとしたら、悲劇と喜劇を分かつのはどこにおいてだろうか。それは、チェーホフのように、あるいはシェークスピアのように、舞台を模して観るものの特異な視点においてだろうか。
いずれにしても、舞台に上がってしまっている、というより舞台そのものが不可視な私たちは、それが悲劇であるか喜劇であるかは分からぬままに、ただ演じ続ける他はないのだ。
しかし、私は夢見る。既成の立脚点=大地を離れた空間に臨んで、ヤー・チャイカ!と、驚愕し、恐怖し、戦慄し、歓喜し、祝福し、そしてなによりも、来るべき「できごと」の到来に、できうる限りおのれを開きながら飛翔することを。