私のような古い人間は、1月14日が成人の日と聞いてつい違和感を持ってしまう。成人の日は1月15日という刷り込みが強力だからである。
しかし、今年の14日は最もぶれが少ない方で、去年なんかは8日だったのだ。
これは、いわゆる国民の祝日に関するハッピーマンデー制度によるもので、それによれば、成人の日(かつては15日に固定)は1月の第二月曜日に、海の日(かつては20日固定)は7月の第三月曜日に、敬老の日(かつては15日固定)は9月の第三月曜日に、そして体育の日(かつては10日固定)は10月の第二月曜日とされたからである。
ここでやや不思議なのは、成人の日と老人の日が共に15日固定だったのに、前者は第二月曜日に、後者は第三月曜日にされていることである。
これについて調べてみたら、もし、敬老の日が9月21日で、続く秋分の日が9月23日となるか、敬老の日が9月20日で秋分の日が9月22日となる場合、祝日法の規定により間に挟まれる日(それぞれ22日か21日)が国民の休日とみなされ、敬老の日前日の日曜日から4連休(週休2日制であれば5連休)となるため、「第2のゴールデンウィーク」あるいは、敬老の日が関係するため、シルバーウィークともいう連休を設けるためとあった。
粋な計らいといえばそうかも知れない。
徳山神社での元服式
中京TV 一昨年
しかしまあ、こんなことを言っても年寄りの愚痴になるばかりだが、祝日にはそれなりの曰く因縁があるのであって、成人の日は昔の元服の日、海の日は沖縄返還後のイベント・沖縄海洋博が開催された日、敬老の日は戦後、兵庫県の地方の村から始まった「としよりの日」に起源を持つ住民提言型の祝日、体育の日は東京オリンピックが開催された日といった歴史的なエポックが張り付いているのである。
そうした祝日が可変式になってころころ変わるのは、確かに連休が増えるなどのメリットもあろうが、しかし一方、上に述べたその日の単独性、「その日」性のようなものが喪われて、利便性だけになり、結局祝日といっても、何をことほいでいるのかが分からなくなってしまうのではないだろうか。
絵画などが教会や王侯貴族の館から引っぺがされ、美術館や個人に退蔵されるのに対し、芸術におけるアウラの喪失を指摘し、それが複製芸術の時代に繋がると指摘したのはベンヤミンだったと思うが、私たちの暦自身も、自然や出来ごととの有機的な関連を喪失したアウラ無きものになりつつあるようだ。
まあ、こんなことを大声で言ったら、せっかく増えた休みを減らすつもりかと顰蹙を買いそうなので、ある人のブログへのコメントとしてコッソリ書き込んでおいたら、やはりそのブログの常連さんである先輩格の方からこんなコメントを貰った。
============================
<前略>アウラ喪失の指摘もさすが。徳山民俗資料、古文書もアウラ抜きで収蔵庫に眠っています。
可変式祝日は山の学校ではずつと前に先取りしてました。だって祝日がとびとびだったら平坦部から赴任した先生が往復に時間が取られて休むひまがなくなり、不便だったからでした。村の人は、お仏事、旧正月と学校など関係なく、「その日」性を満喫していました。
============================
この方のコメントに説得力があるのは、文中にあるように、この方自身が、今や巨大公共事業で出来上がった徳山ダムの湖底で「水になってしまった村」、全村離散の旧徳山村の住人であり、村の学校でながらく教鞭を執ってこられた方だからである。
実際のところ、かつて岐阜市街地からこの村への往復は、優に半日以上を要したのである。
全村を飲み込んだ巨大な水溜まり
この水の用途はほとんど決まっていない
いや~なるほど、そういう可変式休日があったかと改めて感心。
そうした地区毎での自治としての決めごとはむろんあって然るべきだと思う。
ところで、成人式に関しての話は、この方の出身地徳山村とは深い因縁があるのである。
この旧徳山村の成人式は、室町時代からの伝統に従い、15才をもって成人とし、その若者たちに烏帽子装束をまとわせて祝うのである(もともとは村の中の本郷地区だけだったらしい)。
今もそれが継承されている。現在は、比較的多くの人が移住した岐阜県の本巣市に全村内の八つのお社をまとめて建立された「徳山神社」で、村の出身者を対象に行われている。
しかし、離散の度合いが進むのと少子化とで、年々対象となる新成人が減り、今や数人にも達しないようである。
人々が慣れ親しんできた状景、その中にあるアウラのようなもの、それらをすべて引っぺがして進むのが近代化であるのだろうか。
その世界的規模での展開が、いわゆるグローバリゼーションというものではなかろうか。
しかし、今年の14日は最もぶれが少ない方で、去年なんかは8日だったのだ。
これは、いわゆる国民の祝日に関するハッピーマンデー制度によるもので、それによれば、成人の日(かつては15日に固定)は1月の第二月曜日に、海の日(かつては20日固定)は7月の第三月曜日に、敬老の日(かつては15日固定)は9月の第三月曜日に、そして体育の日(かつては10日固定)は10月の第二月曜日とされたからである。
ここでやや不思議なのは、成人の日と老人の日が共に15日固定だったのに、前者は第二月曜日に、後者は第三月曜日にされていることである。
これについて調べてみたら、もし、敬老の日が9月21日で、続く秋分の日が9月23日となるか、敬老の日が9月20日で秋分の日が9月22日となる場合、祝日法の規定により間に挟まれる日(それぞれ22日か21日)が国民の休日とみなされ、敬老の日前日の日曜日から4連休(週休2日制であれば5連休)となるため、「第2のゴールデンウィーク」あるいは、敬老の日が関係するため、シルバーウィークともいう連休を設けるためとあった。
粋な計らいといえばそうかも知れない。
徳山神社での元服式
中京TV 一昨年
しかしまあ、こんなことを言っても年寄りの愚痴になるばかりだが、祝日にはそれなりの曰く因縁があるのであって、成人の日は昔の元服の日、海の日は沖縄返還後のイベント・沖縄海洋博が開催された日、敬老の日は戦後、兵庫県の地方の村から始まった「としよりの日」に起源を持つ住民提言型の祝日、体育の日は東京オリンピックが開催された日といった歴史的なエポックが張り付いているのである。
そうした祝日が可変式になってころころ変わるのは、確かに連休が増えるなどのメリットもあろうが、しかし一方、上に述べたその日の単独性、「その日」性のようなものが喪われて、利便性だけになり、結局祝日といっても、何をことほいでいるのかが分からなくなってしまうのではないだろうか。
絵画などが教会や王侯貴族の館から引っぺがされ、美術館や個人に退蔵されるのに対し、芸術におけるアウラの喪失を指摘し、それが複製芸術の時代に繋がると指摘したのはベンヤミンだったと思うが、私たちの暦自身も、自然や出来ごととの有機的な関連を喪失したアウラ無きものになりつつあるようだ。
まあ、こんなことを大声で言ったら、せっかく増えた休みを減らすつもりかと顰蹙を買いそうなので、ある人のブログへのコメントとしてコッソリ書き込んでおいたら、やはりそのブログの常連さんである先輩格の方からこんなコメントを貰った。
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<前略>アウラ喪失の指摘もさすが。徳山民俗資料、古文書もアウラ抜きで収蔵庫に眠っています。
可変式祝日は山の学校ではずつと前に先取りしてました。だって祝日がとびとびだったら平坦部から赴任した先生が往復に時間が取られて休むひまがなくなり、不便だったからでした。村の人は、お仏事、旧正月と学校など関係なく、「その日」性を満喫していました。
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この方のコメントに説得力があるのは、文中にあるように、この方自身が、今や巨大公共事業で出来上がった徳山ダムの湖底で「水になってしまった村」、全村離散の旧徳山村の住人であり、村の学校でながらく教鞭を執ってこられた方だからである。
実際のところ、かつて岐阜市街地からこの村への往復は、優に半日以上を要したのである。
全村を飲み込んだ巨大な水溜まり
この水の用途はほとんど決まっていない
いや~なるほど、そういう可変式休日があったかと改めて感心。
そうした地区毎での自治としての決めごとはむろんあって然るべきだと思う。
ところで、成人式に関しての話は、この方の出身地徳山村とは深い因縁があるのである。
この旧徳山村の成人式は、室町時代からの伝統に従い、15才をもって成人とし、その若者たちに烏帽子装束をまとわせて祝うのである(もともとは村の中の本郷地区だけだったらしい)。
今もそれが継承されている。現在は、比較的多くの人が移住した岐阜県の本巣市に全村内の八つのお社をまとめて建立された「徳山神社」で、村の出身者を対象に行われている。
しかし、離散の度合いが進むのと少子化とで、年々対象となる新成人が減り、今や数人にも達しないようである。
人々が慣れ親しんできた状景、その中にあるアウラのようなもの、それらをすべて引っぺがして進むのが近代化であるのだろうか。
その世界的規模での展開が、いわゆるグローバリゼーションというものではなかろうか。