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【ズンドコ節考・5】「君いつ帰る!」

2008-01-31 01:44:08 | よしなしごと
以下は連載の五回目に当たります。はじめてお越しの方、もちろんこれだけお読みいただいても結構ですが、お時間に余裕がございましたら、前のものもお読み下さい。 
 
 前回には「海軍小唄」と呼ばれたズンドコ節の元歌をとりあげました。
 そのおさらいで、1番と2番の歌詞をもう一度掲載してみます。

(1)
 汽車の窓から 手をにぎり  送ってくれた 人よりも
 ホームの陰で 泣いていた  可愛いあの娘が 忘られぬ

(2)
 花は桜木 人は武士  語ってくれた 人よりも
 港のすみで 泣いていた  可愛いあの娘が 目に浮ぶ

 ここには、目立つヒロインと目立たないヒロインの対比があり、それは同時に、建前のヒロインと本音のヒロインの対比に相当することを述べました。
 そして建前のヒロインは「大日本帝国婦人会」へと流れることも述べました。
 では、「柱の陰」や「港のすみ」で泣いていた女性はどうなったのでしょうか。
 それが今回のテーマです。

 そして、その状況にぴったりの歌があるのです。
 ズンドコ節では一貫して男の視点からのものでしたが、それを女性の立場から唱ったものがあったのです。
 それは以下のものです。

 

 「夜のプラットホーム」 作詞 奥野椰子夫・作曲 服部良一.
             唄 二葉あき子 1947年(昭・22)


(1)
  星はまたたき 夜はふかく 
  なりわたる なりわたる プラットホームの 別れのベルよ 
  さよなら さよなら 君いつ帰る

(2)
  ひとはちりて ただひとり 
  いつまでも いつまでも 柱によりそい たたずむわたし 
  さよなら さよなら 君いつ帰る

(3)
  窓に残した あのことば 
  泣かないで 泣かないで 瞼にやきつく さみしい笑顔 
  さよなら さよなら 君いつ帰る


 年輩の方はご存知の方が多いと思いますが、同時に、戦後の1947年(昭・22)のこの歌がなぜ、ズンドコ節のアンサーソングなのか、男女の別れを唱ったものに過ぎないではないかとお思いになるかも知れません。
 確かに、戦後においてはそうしたものとして受容されたのでした。
 しかし、この歌にはその前史があったのです。

 というのはこの歌、実は戦時色がいよいよ濃厚になりつつあった1939(昭・14)年に、既にレコーディングされていたのです。しかも、出征兵士を送るという意味合いを込めてです。作詞、作曲や歌詞は一緒でしたが、その折りの歌い手は淡谷のり子でした。
 しかし、この歌は陽の目を見ることはなかったのです。

 発表されるやいなや、即、発売禁止になってしまったからです。
 理由は、出征兵士を送るには全体的に陰々滅々として勇壮な見送りではない、むしろ厭戦気分をかもし出す、とりわけ、「行ってきます」が、「逝ってきます」の時代に、「君いつ帰る」とは何ごとかというわけです。
 一銭五厘で狩り出された以上、兵士達の命はもはやお国のものであり、天皇のために死を厭ってはならない存在だったのです。
 要するに、それを悲しむ本音のヒロインはもはや登場する余地がなかったのです。

 

 従って、この歌が晴れて登場するためには敗戦という事態を越えねばならなかったのです。それが二葉あき子によるリメイク版なのでした。これは、先に見た「海軍小唄」が、戦後、田端義夫によって恋の歌として甦ったのと同じですね。
 ただし、「海軍小唄」は戦時中でも歌い継がれていたのに対し、この「夜のプラットホーム」は権力の手によって、固く固く封印されていたのです。

 しかし、これには後日談があって、作曲者の服部良一はどうしても諦めきれず、「I'm waiting」という詩に英訳し、なおかつ、作曲者名を服部良一をもじったR・Hatterとして、あたかも洋盤であるかのようにして売り出したのです。

  I'm waiting

Soon, I will be all alone.
Soon, you will be gone.
How sad each long day !
How dark each long night !
I will be waiting you,
Counting the hours you are away.
Good-bye, my lover, though we part now.
Soon be back to me, certainly !

 この歌がどのように具体的に流通したのか今となっては分からないのですが、ただし、こちらの方はどうも発禁にはならなかったようです。
 検閲官が英語に暗かったのか、それともこれを前に発禁にしたものと同じものであることが分からず、恋の歌としてスルーさせたのかも知れませんね。

 しかし、いずれにしてもその二年後の日米開戦以後は、英語の歌は敵性歌として全面的に禁止されてしまいました。時あたかもスイングジャズの全盛時代、ジャズ愛好家達はポータブルレコードを持って押入に入り、頭から布団を被って外へ音が漏れないようにして聴いたのでした。
 むろん発覚すれば、特高警察か憲兵隊へしょっ引かれたのですから、命がけの鑑賞だったわけです。

 



おまけのトリビア
 服部良一は、戦前戦後を通じて、古賀政男と並び、日本歌謡曲界を引っ張ってきた大御所でした。古賀の方が演歌に通じていたのに対し、服部はバター臭いものを得意としました。
 
 それもそのはず、彼は若い頃、あの朝比奈隆と共に、大阪フィルの団員だったことがあるのです。その後、ポピュラーに移るのですが、西洋音楽をバックとしたものを作り続けました。
 戦前では、淡谷のり子と組んだブルースのシリーズ(「雨の・・」、「別れの・・」など)、「蘇州夜曲」、「湖畔の宿」などがヒット。戦後では、笠置シズ子と組んでのブギウギ(「東京ブギ」、「買い物ブギ」など)や、「青い山脈」、「銀座のカンカン娘」など多くの曲で知られています。

 要するに、服部良一は、間違いなく、和製ポップスの元祖的存在であるということです。

 なお、現在も作曲家として活躍している服部克久はその子息で、その孫、隆之もまたドラマや映画の音楽を多く手がけています。
 さらに、その曾孫は富沢宏順といってジャニーズJr.のメンバーらしいのですが、その辺までくると、もう私の守備範囲ではありません。

  

<予告> 次回からは、こうした「厭戦歌」のバリエーションを考察して行きます。
 これらは、私の少し上の年代の人々の青春のありようだったのであり、それを調べ、書いていると、何だか切ないものがこみ上げてくるのです。

     
 


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1 コメント

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Unknown (冠山)
2008-02-01 09:58:53
「夜のプラツトホーム」… なつかしいですね。早速、you tube で聴かせてもらいました。六文銭さんの解説つきでよかったです。ありがとう。
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