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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

母が作ってくれた硬式ボール

2008-01-03 17:43:09 | 想い出を掘り起こす
 正月、子供と孫が来ました。
 元旦、94歳の母のところへ行きました。親子四代の出会いです。
 母は高等小学校の出身です。
 とても素早しっこしくて、郡の運動会で一等になったのが自慢です。
 卒業後、看護婦になりたくて見習いに行きました。手術の見学の時、失神しました。
 それで看護婦は諦め、今のミズノの前身のスポーツ用具店に入り、もっぱら硬式ボールを縫っていました。
 縁あった、亡父と結婚したのですが、以来、内助の功ばかりか、父の仕事も表だって手伝ってきました。

     

 父は戦争にとられ、敗戦時はハルビンで、ソ連軍に持って行かれたままずーっと生死不明でした。シベリアへ抑留されていたのです。
 母と私は、いわば母子家庭のようなもので、母は編み物の内職で、私はさる銀行の頭取の息子の遊び相手というバイト(いくら貰っていたのかは分かりません)で暮らしていました。

 戦後のなんにもない時期、子どもたちの夢は野球でした。
 母は、私のためにあり合わせの厚い生地で、グローブを作ってくれました。そして、なんと、昔取った杵柄でボールまで作ってくれました。
 でもそれは硬式ボールでした。
 表面は皮ではなかったと思いますが、その縫い目は赤い糸で、しかもその縫い目の数は、甲子園やプロ野球で使うものと同じだったようです。
 終戦直後、大垣の郊外の片田舎で、硬式ボールで野球をしていたのは稀有なことだと思います。
 
 ところが、教師がこれは危険だからといって取り上げてしまいました。
 私たち子供はがっかりしました。それ以上にがっかりしたのは母でした。母は、硬球ボールしか作れないのです。

 
  私が買ってきてやったグラビア風の本を見て喜んでくれました。
 
 終日の編み物で母が疲れ肩が凝ると、私の役目は肩たたきです。ただ叩くのは退屈なので、歌を唱いました。童謡やその頃はやった流行歌です。
 あまり覚えていませんが、当時のラジオドラマの主題歌、『鐘の鳴る丘』や『異国の丘』だけは覚えています。
   
  きょ~おも、く~れ~ゆ~く、いこくのお~か~に~
 
 その哀愁を帯びた歌は、父へと届けという叫びのような歌でした。
 その父は、零下30℃の中、強制労働に耐え、私が小四の時帰国しました。
 もともと頑強な人でしたが、帰ってきたときにはズタズタでした。

 十数年前に父を喪った後、母は戦後を共に生き抜いてきた同志のような存在です。元気はいいのですが、ほとんど耳が聞こえないため会話はすれ違います。
 でも、どこかにすれ違わないものがあるのです。

 ちなみに、幼くして両親を亡くした私にとって、二人とも養父母でしたが、違和感を感じたことは一度もありませんでした。

追記
 養父母には違和感を感じませんでしたが、私自身の身辺には、ある種の差別はありました。
 小学校の時、「貰われ子」といって囃されたり、「貰われ子のくせに」といわれたことがありました。
 でも貰われ子がどうしていけないのか理解できなかったので、へっちゃらでした。囃している奴が馬鹿に見えました。

 高校は商業学校でしたが、まあまあの成績の人は銀行に就職できました。
 しかし、一年の時、担任の教師から、六君は勉強しても銀行は無理だよといわれました。
 当時銀行などの一流企業は、養子や片親の子の採用には厳しかったのです。
 その教師に感謝しています。ならば大学を狙おうと決心するきっかけを与えてくれたのですから。

 ですから、今も血縁にはクールです。血縁などは単に遺伝子の授受関係に過ぎません。一緒に暮らしていれば血縁などなくとも愛情が湧くものです。
 逆に、血縁があっても殺し合います。

 中国残留孤児の問題にしても、日本の棄民政策への憤りはありますが、中国の人に数十年も育てられたら、その家の子供でどうしていけないのかが分かりません。むろん、複雑な事情があるのでしょうが、私なら、私を育ててくれた人を父と呼び母と呼びます。国籍や血縁は私をこの世に送り出した偶然的な契機にすぎないと思うからです。
 むろん、それらが私をさまざまに規定することは否定しませんが・・。


 

 


コメント (4)
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