ときはイラク戦争でフセイン政権が崩壊した2003年のこと、12歳の少年とその祖母は岩や砂が織りなす荒涼たるイラクの大地を歩き続けるだろう。
やがて私たちは、かれらが少年の父、つまりその祖母の息子を探して旅立ったことを知るだろう。
そしてまた、かれらがイラクの中でもいっそう過酷な境遇を生きた少数民族のクルド人であることを知るだろう。
私たちはかれらとともに、無残に破壊された街々、間断なきテロルとゲリラの活動現場、そして米軍による高圧的な規制の場面に立ち会わなければならないだろう。
かれらはその旅の途次でいろいろな人たちに出会うだろう。
そして私たちは、これほど優しい人々が殺しあわねばならなかった現実をいぶかしく思わざるを得ないであろう。
形すら留めぬ警察署や刑務所、そして荒野から発掘される累々たる人骨とも出会わねばならないだろう。
少年は当初の軍人になリたいという夢を捨て、父と同じく音楽家になることを決意し、祖母と共に行くことを選ぶだろう。
そしてわたしたちは、少年がたくましくなり、祖母に庇護される立場から、祖母をを守る立場へと身をおいたことを知るだろう。
幾度も悲嘆にくれる祖母、それを抱擁する少年、そこには家族を越えたある種の同胞といった絆があることに気づくであろう。
ラストシーンでは涙する少年のクローズアップを、そして父親譲りの笛を口に当てるのを見るだろう。
果たして少年はその笛を吹くことができたのだろうか・・・。
これは真理や正義の名で殺戮が続く歴史の舞台で、それに翻弄されて生きる人間の物語といえるだろう。
私たちはそうした回路から抜け出す方図をどのようにして見出す事ができるのであろうか。
自立した、あるいはせざるを得なかった少年の優しくも強いまなざしに一縷の望みを託さざるをえないであろう。
監督はモハメド・アルダラジー。この映画作成を契機に、イラクで発見された無数の遺体の身元を調べるための「イラク・ミッシング・キャンペーン」を呼びかけている。
主役の少年と祖母は、街で出会った人のなかからそれぞれ選ばれたという。
少年はその目の光が素晴らしかったから、そして祖母役は映画の内容のような実体験をもっているから。
なお、この優れた映画をイラクの人たちが観る機会はほとんどないという。
イラクには映画館がないからである。