retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

千代田線日比谷駅(日比谷見附跡)

2011-11-10 05:03:34 | Weblog
日比谷通りを、さらに、南へ。
内堀通りとの交差点の、南西側一帯は、日比谷公園の敷地。
日比谷公園の北東端、有楽門から、園内に入っていく。
園内、西へ、歩いていくと、すぐに、石垣。
日比谷見附跡だ。
見附、というと、見張りをする場所なのだが、この場合は、城門ということになるらしい。
城門には、必ず、見張りをする場所が、併設されていたので、見附が、城門、なのだろう。
では、城門以外に、見張りをする場所は、なかったのだろうか、と思ってしまうが、ちょっと、わからない。
ところで、こうした城門は、江戸城を、螺旋状に、囲む、濠に沿って、配置されているわけだが。
濠が、螺旋状、ということは、外側の、濠を、突破しても、その先、内側の、濠を、包囲するのは、難しい、らしい。
内側の濠を、包囲しようとして、回り込んでいくと、だんだん、先細りになっていくからだ。
さらに、先細りになる手前、濠と、城門が、あったりする。
包囲するつもりが、逆に、包囲されている、という寸法なのだろう。
そう、うまく、いくものかどうか。
ともあれ、内側の濠を、攻囲しようとする敵の前に、立ちはだかる城門の一つが、目の前の、日比谷見附だ。
(2011年3月記)

千代田線日比谷駅(日比谷交差点から日比谷濠を臨む)

2011-11-09 05:00:01 | Weblog
日比谷通りを、南へ南へと、歩いて行く。
西側には、水をたたえた、濠、東側には、幾層にも、建ち並ぶ、丸の内のオフィスビル群。
まさに、奇観、というところだ。
さらに、歩いていくと、東西に伸びる、内堀通りとの交差点。
濠は、このあたりで、西へと、直角に向きを、変える。
ちょうど、角になっているところから、濠を、見渡すと、濠が、両側に広がるように見え、雄大な景色。
そういえば、江戸時代より前、このあたり、日比谷入江だったのだ。
当時は、一面に広がる、海、だったに違いない。
まさに、今、目の前に広がるような、景色。
こういう景色を見ると、江戸、あるいは、東京は、本来は、水郷の街だったのだと気付かされる。
そんな日比谷濠なのだが、ちょっと、水辺を、見ると、ゆったり泳ぐ、大きな鯉。
水鳥も、のんびりと、近くを、飛んでいく。
水、ぬるむ、春、ということか。
さらに、足を伸ばして、日比谷公園に、行ってみることにする。
(2011年3月記)

千代田線日比谷駅(馬場先門から日比谷濠を臨む)

2011-11-08 06:08:15 | Weblog
中央通りを、南へ、歩く。
しばらくすると、東西に伸びる、鍛冶橋通りとの交差点。
鍛冶橋通りに入り、西へ。
東京駅の南端、JRの高架を潜り、さらに、西へと進む。
すぐに、内濠と馬場先門。
ところで、なぜ、馬場先門、というのだろう。
江戸時代の初め頃、今の、皇居外苑、馬場先濠の西岸に、南北に伸びる、馬場が、あったらしい。
当時、第4回朝鮮使節が、来日していて、そこで、曲馬を、披露したのだ。
そのために、馬場を設けたのか、たまたま、直前に、すでに、完成していたのか、わからないが。
その馬場は、朝鮮馬場、という名前なので、あるいは、朝鮮使節のために、新設したのかもしれない。
つまり、門を潜った先に、馬場が、あったので、馬場先門、という名前になったのだろう。
ちなみに、その、朝鮮馬場は、しばらくして、今の、北の丸公園の、南側に、移転している。
そんな馬場先門なのだが、そこから、南側、日比谷濠を見ると、春の陽射しが、水面に、きらきらと、反射して、本当に、美しい光景。
春を感じさせる。
(2011年3月記)

銀座線京橋駅(京橋二丁目 明治屋京橋ビル)

2011-11-07 04:52:42 | Weblog
京橋二丁目プロジェクト工事現場の、すぐ南側、通りの西側には、明治屋京橋ビルがある。
かなり古い建物で、昭和の初めに、完成したらしい。
明治製菓のアンテナショップみたいなものと思っていたが、どうも、関係ないようだ。
食料品の小売店、ということみたい。
おそらく、食料品に特化した、デパートみたいなものかな。
このビルが建つ、直前、ちょうど、銀座線が、延伸してきている。
その銀座線の地下鉄駅と、明治屋京橋ビルは、直結したらしい。
日本では初めての、地下鉄駅直結ビルだ。
今は、どうなっているのだろう。
何度か、京橋駅で降りたことあるけど、そうなっていたかな。
よく覚えていないけど。
北は、江戸時代からの繁華街、日本橋。南は、明治時代からの繁華街、銀座。
明治の終わり頃、やっと、西側に、東京駅。
そして、昭和になって、京橋も、賑やかになったわけか。
そんな京橋も、高度成長期を経ると、忘れられた、商業地になる。
だが、ここにきて、再開発が、始まるのだ。
時代は、動いている。
(2011年3月記)

銀座線京橋駅(京橋二丁目プロジェクト工事現場)

2011-11-06 06:53:18 | Weblog
高田馬場駅から東西線。日本橋駅で、銀座線に乗り換える。
京橋駅で下車。
地上に出ると、南北に伸びる、中央通り。
ちょっと、寒の戻りがあったけど、もう、すっかり、春だな。
晴れ渡った空が、眩しい。
今年は、年末から、厳しい寒さ、どうなることかと思ったけど。
2月は、けっこう、暖かかった。
終わってみれば、それほどでもなかったな。
そして、今日は、まだ、ちょっと、寒いけど、陽射しは、春。
今年が、ようやく、始まる、そんな、感じだ。
中央通りを、北に、歩く。
すぐに、東西に伸びる通りとの交差点。
その交差点の、南西側には、京橋二丁目プロジェクトの工事現場。
最近は、東京駅の西側、丸の内、大手町、ばかりではなく、東側でも、再開発が、始まったようだ。
ここも、その一つだろう。
(2011年3月記)

京浜東北線蒲田駅(蒲田五丁目 六郷用水南堀跡)

2011-11-05 03:07:46 | Weblog
蒲田八幡神社の南側の道路に戻り、北西へ。
駅に近付いていくので、だんだん、賑やかになってくる。
繁華街、小さいビルが並ぶ中、中央に緑地帯のある、不思議な道路が、南西へ。
その道路に入り、そのまま、南西へ、歩く。
実は、この道、かつては、農業用水だった、ということだ。
六郷用水南堀の跡。
このまま、呑川に合流していたのだろう。
開削されたのは、江戸時代の初期。
狛江付近、多摩川から、分岐し、水流は、南東へ。
蒲田付近ばかりではなく、網の目のように、広範囲に、広がっていたようだ。
とすると、この一帯、江戸時代になって、用水路網が完成し、初めて、田園地帯に、なった、ともいえる。
なぜなら、最初から、田園地帯だったら、あらためて、用水路を、整備する、理由がないからだ。
江戸時代より前は、低湿地が、広がるのみだったに違いない。
用水路が、整備されることによって、一気に、田園地帯になったのだ。
ということで、蒲田の歴史も、おぼろげながら、わかったことだし、もう、帰ることにする。
繁華街を抜けて、西へ、蒲田駅はすぐだ。
そういえば、いまのところ、一帯には、高層ビルの計画は、ないな。
だから、もう、来ることもない。
たぶん、蒲田駅周辺の、高架工事が、完成したら、来るかもしれないけど。
そのときは、蒲田駅周辺、どうなっているのかな。
楽しみだが、とりあえず、早く、帰ろう。
蒲田駅の改札口に、向かう。
(2011年2月記)

京浜東北線蒲田駅(蒲田四丁目 蒲田八幡神社)

2011-11-04 05:03:16 | Weblog
妙安寺の西側には、蒲田八幡神社。
これは、円頓寺の西隣に、稗田神社があるのと、同じだ。
稗田神社の場合は、わからないが、蒲田八幡神社の方は、妙安寺が建つ前にあった、斉藤氏の館の敷地内に、建っていたらしい。
とすると、稗田神社も、同じように、円頓寺が建つ前にあった、行方氏の館の敷地内に、建っていたのだろう。
はっきりとは、わからない、行方氏の、そんな蒲田一帯の治世なのだが、では、さらに、それ以前は、どうなのなっていたのかな。
鎌倉時代を中心に、蒲田氏(六郷氏)、という武士団が、いたらしい。
蒲田氏、という名前、江戸氏や、豊島氏、と同じく、土地の名前からだろう。
そして、江戸氏と同じように、海運業を、担っていたのかもしれない。
だとすると、本拠地は、多摩川の河口だろうか。
もう、この頃は、まったく、わからない。
さらに、昔。
実は、蒲田八幡神社、稗田神社、の境内には、古墳があったらしい。
蒲田での、生活の営みは、太古の昔からあったのだ。
もっとも、低湿地帯だったので、漁業中心の、ささやかなものだったに違いないだろうけど。
そういうことなどを、考えていると、本当に、時代を感じる。
(2011年2月記)

京浜東北線蒲田駅(蒲田四丁目 妙安寺)

2011-11-03 07:30:15 | Weblog
第一京浜を、南へ。
しばらくして、呑川を、夫婦橋で渡り、西へ向かう。
すぐに、京急蒲田駅。
工事中の駅舎の西側を、再び、南へと歩く。
駅南側には、北西に伸びる道路。
その道路に入り、北西へ。
道路の北側には、妙安寺がある。
創建は、江戸時代の直前。
さっき、訪れた、円頓寺と、ほぼ、同じ時期だ。
やはり、この時期は、一帯にとって、大きな、画期だったに違いない。
では、それ以前、妙安寺のある場所、どうなっていたのだろう。
戦国大名、北条氏の家臣、斉藤氏の館が、あったそうだ。
ちなみに、円頓寺の場所にいた、行方氏とは、姻戚関係。
とすると、蒲田一帯は、江戸時代より前、行方氏の勢力下にあったのだろう。
では、行方氏とは、いったい、何者なのか、というと、よくわからない。
一説によると、水軍を、率いていた、らしい。
そういえば、行方氏の館と、斉藤氏の館との間には、呑川が、流れている。
館から、直接、呑川に出て、川を下り、東京湾へ、ということかな。
今となっては、そんなこと、想像も出来ない。
(2011年2月記)

京浜東北線蒲田駅(蒲田三丁目 梅屋敷公園)

2011-11-02 04:30:06 | Weblog
京浜急行の高架を潜って、東に向かうと、すぐに、南北に伸びる、第一京浜。
通りの南側、第一京浜の西側には、梅屋敷公園がある。
名前のごとく、梅の名所らしいけど。
ただ、今年は、冬が、えらく、寒かったせいか、梅の花は、まだだった。
なんで、こんなところに、梅の名所があるのかというと、もともと、あたりは、梅が、多く植わっていて、江戸時代の後期、それらの梅を、梅林に見立てて、整備し、庭園のようになった、ということらしい。
当時は、さぞ、風光明媚な景観だったことだろう。
広々とした田園、その中に、繁茂する梅林、そして、遠くには、青い海原。
そんな風光明媚な一帯も、明治時代以降、工業化で、田園は消滅し、梅林も、少しずつ、なくなっていく。
東海道は、幅広の、交通量の多い、第一京浜へ。
さらに、京浜急行が、開通して、市街地が拡大。
そして、今では、第一京浜の脇に、小さく、残っているばかり。
よく残ったな、と思うけど。
でも、一帯は、もう、衰退するだけ。
また、植樹して、梅林を、復活させても、いいような気もするが。
歴史テーマパークになることだし。
(2011年2月記)

京浜東北線蒲田駅(蒲田三丁目 京浜急行工事現場)

2011-11-01 06:07:27 | Weblog
細い道を、東へ東へと、歩いていく。
しばらくすると、京浜急行の踏切。
現在、高架工事中。
すでに、上り線は、高架になっている。
完成すれば、多摩川の鉄橋から、蒲田、平和島まで、高架になるようだ。
もともとは、京急蒲田駅から分岐している、京浜急行空港線の、第一京浜踏切を、解消する、ということから、高架工事が始まった、と記憶している。
南北に伸びる、第一京浜は、交通量の多い、幹線道路。
だから、踏切によって、交通が、遮断されることは、大変なことなのだろう。
ということで、第一京浜の、この部分を、高架へ。
すると、今度は、近くの、京急蒲田駅も、高架に、ならざるを得ない。
京急蒲田駅が高架になるなら、ついでに、多摩川鉄橋あたりから、平和島駅まで、高架にしてしまえ、という具合に、話が、進んだのかどうか、わからないけど。
ただ、理由はどうあれ、かなり、大規模な開発になるな。
ひょっとすると、羽田空港への、輸送が、増大することを、見込んで、大規模な開発が、可能になったかな。
ともあれ、数年後には、あたりの景観、だいぶ、変わったものになっているだろう。
(2011年2月記)