retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線五反田駅(東五反田三丁目 島津山への階段)

2011-06-20 05:03:16 | Weblog
街中を北へ。
さっきの東西に伸びる通りを越えて、さらに、北へ。
あまり、ここらへん、来たことはない。
すぐ西側は、五反田の歓楽街なのに、とても、静かな、住宅地。
もっとも、昼間だから、静かなんだろうけど。
住宅地の中、路地のような道を、北へ北へと、歩いていく。
道は、上り坂。高輪の台地、というわけかな。
東へ曲がり、そのまま、細い道を、東へ。
その先には、石段がある。
石段は石段だが、こういうのも、いちおう、坂道なのだろう。
なんという、名前の、坂なのかな。
それはそれとして、この、石段の上には、島津山、という、有名な、山の手住宅地が、広がっている。
坂の下は、猥雑な歓楽街、坂の上は、閑静な山の住宅地。
なんだか、光と影、天国と地獄、みたいな感じだが、こういう、組み合わせ、実は、それほど、珍しくはない。
それぞれが、持ちつ持たれつ、なのだろう。
それでは、石段を、上ってみるかな。
(2010年10月記)

山手線五反田駅(パークタワーグランスカイ)

2011-06-19 07:08:38 | Weblog
五反田駅の南端には、そこそこに、交通量の多い、東西に伸びる通り。
この、通りの、南側に出るには、歩道橋を、渡らなければならない。
歩道橋が、面倒なら、駅前広場の北側で、まず、広場の東側に出て、南へ。
そうすれば、東西に伸びる、通りの、北側に出られる。
そこには、横断歩道があるのだ。
ずいぶん遠回りだが、なぜ、そうなるかと言うと、つまり、そもそも、駅前広場の北側に行かなければ、東西に伸びる通りの、北側にすら、出られないようになっている。
たぶん、駅東側から南へと行くことを、考慮していないのだろう。
あるいは、このような、駅周辺の道路や駅前広場、いつできたのか、わからないが、おそらく、昭和の初め頃か、当時は、あまり、交通量が、多くなかったのかも。
そんな歩道橋で東西に伸びる通りの南側に出て、東へと、歩いていく。
程なくして、途中、南へ曲がり、街中を、そのまま、南へ。
しばらくすると、巨大な、パークタワーグランスカイ。
最近、竣工した、高層住宅だ。(工事中はこちら
北側には、一足早く、完成した、付属の、オフィスビル、東五反田スクエアがある。
五反田駅周辺も、変わったものだ。
(2010年10月記)

山手線五反田駅(歩道橋から臨む五反田駅東側の大通り)

2011-06-18 07:10:56 | Weblog
高田馬場駅で山手線。
五反田駅で下車。
五反田駅も、しばらく、見ない間に、ずいぶんと、きれいになったな。
ちょっと前までは、立ち食いの蕎麦屋が、似合いそうな感じだったのに。
そういえば、実際、駅舎の北端、立ち食いの蕎麦屋が、あったはず。
一回か二回、蕎麦、食べたな。
いつの間に、なくなったんだろう。
もっとも、ごく普通の、どこにでもある、立ち食いの蕎麦なので、なにか、特別に、美味しいというわけでもなかったけど。
ただ、当時は、そういう蕎麦屋、違和感は、なかった。
まわりが、工場地帯、歓楽地帯だったから、そうなんだろうけど。
でも、今だったら、余程、高級な、蕎麦屋、という感じでないと、無理そう。
それほど、まわりは、しゃれた、お店が、並んでしまったから。
そんな、五反田駅の、東側に出る。
南側には、歩道橋。
この、古ぼけた、歩道橋、そして、そこから見える風景も、あまり、変わらない。
ちょっと、安心してしまう。
(2010年10月記)

東急世田谷線宮の阪駅(宮の坂駅ホーム)

2011-06-17 04:39:34 | Weblog
豪徳寺の南側を、西へと、進むと、小さな駅。
東急世田谷線の宮の坂駅だ。
烏山川を、遡って、ここまで、辿り着いたわけだが、もちろん、この駅に、源泉があるわけでもなく、まだまだ、烏山川は、その先、続いている。
だが、もう時間がない。
仕方がないので、東急世田谷線で、帰ることにする。
もし、烏山川を遡る道行、続きがあるとすれば、この駅からだ。
そのとき、もう一度、豪徳寺に寄ってもいいかな。
たしか、豪徳寺は、招き猫、発祥の寺院らしい。
さらにいえば、宮の坂駅という駅名、近くに、大きな神社があるからだろうけど、そちらも、興味深い。
そういえば、ここから、少し、西側に、もう一つ、南北に伸びる道路が、工事中だったはず。
今は、どうなっているのやら。
ということで、次回、訪れる興味は、尽きない。
でも、いつになるだろう。
そんなことを考えているうちに、小さな車両が、ホームに、滑り込んでくる。
再び、この駅に降り立つことを、思い抱きつつ、三軒茶屋へ。
(2010年10月記)

東急世田谷線宮の阪駅(豪徳寺二丁目 豪徳寺)

2011-06-16 05:04:29 | Weblog
住宅地の中、さらに、北へと歩いていく。
しばらくすると、広大な寺域を持つ、豪徳寺。
入ろうかと思ったのだが、もう、時間がないのでやめた。
寺門の前で、引き返す。
豪徳寺の南側に、さっき、訪れた、世田谷城址公園があるのだが、豪徳寺は、もともと、その、世田谷城の中にあったらしい。
創建は、室町時代、というところか。
当時は、弘徳院、という名前だった。
江戸時代になって、世田谷城は、とうに、なくなったが、残っていた弘徳院は、彦根藩井伊家の菩提寺となる。
そして、名前は、変わり、豪徳寺。
明治維新の激動の最中、桜田門外の変で倒れた、井伊直弼、井伊家の菩提寺、というわけで、この豪徳寺に、眠っているわけだ。
そういえば、井伊直弼が、処刑した、吉田松陰は、東隣の、松陰神社に眠っている。
その、吉田松陰の辞世の句、「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」は、とても、有名だが、実は、井伊直弼にも、以下の句、
「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」。
吉田松陰の辞世の句と、よく似ていはいまいか。
敵味方に分かれてはいても、同じ時代の中に生きていた、そういうことかな。
そんなこと考えながら、豪徳寺を、後にする。
(2010年10月記)

東急世田谷線宮の阪駅(豪徳寺二丁目 世田谷城址公園)

2011-06-15 04:20:27 | Weblog
烏山川、大きく、蛇行していたらしく、その流路跡の、烏山川緑道は、徐々に、南へと、向きを、変えていく。
まわりは、緑の多い、郊外。
とても、静かだ。
烏山川緑道の、西側一帯は、丘陵地で、かつて、世田谷城が、あったらしい。
そして、東側は、長州山、ということか。
そんな、丘陵地に挟まれた、長閑な、緑道を歩いていくと、今度は、逆方向へと、大きく、蛇行を始める。
すなわち、西へと、向きが、変わっていくのだ。
しばらく、西へ進み、途中、北へ。
住宅地に入っていく。
すると、すぐに、世田谷城址公園。
木々の鬱蒼と、生い茂った、丘になっている。
この公園、世田谷城の跡、ということだが、実は、城の敷地、もっと、広かったらしい。北側にある、豪徳寺あたりも、城の跡地だったのだ。
城が築かれたのは、鎌倉時代の後、室町時代の初め頃。
城としては、かなり、古く、土塁、空掘を周囲に、張り巡らせていて、その中に、幾棟かの館、といったところか。
今は、住宅地の中、静かな、公園。
時代の流れを感じるな。
(2010年10月記)

東急世田谷線世田谷駅(世田谷四丁目 国士舘大学の西側を通る新しい道路予定地)

2011-06-14 04:28:58 | Weblog
さらに、西へと進む。
国士舘大学の西側、ちょっと、行ったところに、南北に伸びる、新しい道路予定地。
こちらは、まだ、工事中。
立て続けに、道路が、開通しているような気がするな。
そういえば、この、工事中の道路の南側、その先の部分、以前、東急世田谷線世田谷駅で、見かけた。
おそらく、工事中の通りは、世田谷通りから、世田谷区役所の西側、国士舘大学の西側、と伸びていき、烏山川緑道を横切って、小田急線梅ヶ丘駅西側に、向かうみたい。
さっき、通った、新しい道路は、途中で、行き止まりだが、こっちは、すでに、梅ヶ丘駅西側部分は、完成している。
だから、たぶん、いちおう、開通は、するようだ。
ところで、梅ヶ丘駅、というと、駅近くを、北西方向に、通りが伸びていて、駅前は、どうか、わからないが、交通の便はいい。
そのような、梅ヶ丘駅と直結することで、道路網が、完成していくのだろう。
さっき、通った、茶沢通りは、三軒茶屋と下北沢の、二つの街を、結んでいるだけだが、工事中の、この道路は、交通網の一環、というわけだ。
便利になるのは、いいけど、なんだか、世田谷の街らしくなくなっていくような気がする。
もっとも、自分には、関係のないことなのだが。
(2010年10月記)

東急世田谷線世田谷駅(世田谷四丁目 国士舘大学を通る新しい道路)

2011-06-13 04:32:36 | Weblog
住宅地の中、北に向かい、烏山川緑道に出る。
再び、西へ。
烏山川は、北に、大きく、膨らむように、蛇行していた。
その内側に、江戸時代、長州藩の別邸が、あったらしい。
当時、一帯を、長州山、ともいっていたそうだ。
ちょっとした、丘陵地なのだろう。
今では、その別邸跡に、国士舘大学の敷地が、広がっている。
さらに、進んで行くと、南北に伸びる、真新しい道路。
やはり、長州山、といっただけのことはある。
その道路、丘陵地の下を、トンネルで、抜けているのだ。
新しい通りが、世田谷通りから、世田谷区役所の東側、と伸びてきて、丘陵地を、トンネルで潜り、烏山川緑道を横切って、さらに、北へ、伸びていく。
そのまま、伸びていくと、小田急線梅ヶ丘駅東側。
ただ、ここから、あと少しで、行き止まりになっているみたい。
とても、梅ヶ丘駅までの、延伸は、ないだろうな。
それにしても、世田谷にしては、珍しい。
細い道路が、迷路のようになっているのだ、世田谷の街並み、という感じだからだ。
世田谷の山の手住宅地も、変化してきている、ということなのかな。
(2010年10月記)

東急世田谷線松陰神社前駅(若林四丁目 松蔭神社)

2011-06-12 07:09:51 | Weblog
南に向かい、烏山川緑道。
さらに、西へ西へと、歩いていく。
しばらくして、南北に伸びる、交通量の多い、幅広な、環状七号線。
環状七号線を越えると、いよいよ、郊外の住宅地、という感じだな。
再び、西へと、進んでいく。
かなり歩いたところで、南へ曲がり、そのまま、南へ。
住宅地の中、進んで行くと、有名な、松蔭神社。
明治維新の方向を、決定付けた、先駆者、吉田松陰を、祀ってある。
ところで、吉田松陰は、もともと、長州藩、なのに、なんで、この場所に、松蔭神社があるのだろうか。
実は、この場所、江戸時代、長州藩の、別邸があったらしい。
あたりには、国士舘大学、世田谷区役所、などがあるが、それらも、おそらく、長州藩別邸の跡地を、流用したのだろう。
ただ、理由は、それだけでは、なさそうだ。
西側には、豪徳寺、という、大きな寺院がある。
その、豪徳寺、吉田松陰を、処刑した、井伊直弼が、眠っているのだ。
わざわざ、吉田松陰の亡骸を、ここに、移してきたのは、明治維新の中にあって、当時としては、思い切った、政治的なパフォーマンス、だったのかもしれないな。
もっとも、激動の時代も、今は、昔。
ここは、すっかり、落ち着いた、静かな住宅地になっている。
(2010年10月記)

田園都市線三軒茶屋駅(若林二丁目 福寿稲荷神社)

2011-06-11 05:15:46 | Weblog
住宅地の中、南に向かい、烏山川緑道へ。
再び、西へと歩く。
おそらく、江戸時代になって、一帯が、開拓される前は、さっき、歩いた、鎌倉街道が、主要な幹線ルートだったに違いない。
ただ、まわりは、湿地帯が多く、ほとんど、通過するだけだっただろう。
その鎌倉街道、今の、中野、板橋、赤羽岩淵まで、そして、さらに、北へと、向かっていた。
ちなみに、鎌倉街道、といっても、固有名詞、というよりは、当時の、幹線道路の、総称だったらしい。
だから、鎌倉街道を冠した、道路は、何本もある。
さらに言えば、鎌倉橋、というのも、各所に、残っている。
そういった、鎌倉街道に沿って、神社や寺院が、建てられ、今に残っているわけだ。
しばらくして、また、住宅地の中、北へ。そのまま、北へ向かう。
突き当たりに、福寿稲荷神社。
こちらは、江戸時代の創建だ。
あたり一帯が、開拓され、ようやく、集落が、でき始めた頃だろう。
(2010年10月記)