retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

東西線西葛西駅南口(清新北ハイツ4-5号棟)

2008-11-20 05:09:06 | Weblog
永代通りに出て、西へ歩く。
やっと東陽町駅に戻る。
東陽町から砂町あたりにかけて、大きくぐるっと一回りして、歩いきたわけだ。
あいにくの雨天で歩くのは大変だったが、以外にもきれいな街並みと、公園の緑の多さには、ちょっとした驚きがあったな。
もっとも、この一帯には、今後、高層ビルが建つ予定はないので、ひょっとしたら、もう二度と訪れることはないかもしれないなあ。
そう考えると、名残惜しいような気もするけど。
東陽町駅で再び東西線に乗り込み、東陽町には、別れを告げることにする。
東西線は、南砂町駅を過ぎたところで、地上に出て、荒川を鉄橋で渡っていく。
荒川を渡り終わったところに西葛西駅があり、西葛西駅で下車する。
南口に出て、商店の建ち並ぶ一帯を抜け、南西方向へと歩いていく。
駅前商店街を出ると、東西に伸びる大通り、永代通りがある。
その永代通りを少し西に歩いていくと、南側には、広大な団地が広がっている。
清新北ハイツと清新南ハイツだ。
その団地の中には、清新北ハイツ4-5号棟、清新北ハイツ4-7号棟、清新南ハイツ1-6号棟の3棟の高層住宅がある。
竣工は、バブルの直前ぐらい。
さっき訪れたいくつかの高層ビルもバブルの頃だったな。
いかに、この一帯がバブル期に変貌を遂げたか、ということがよくわかる。
もっとも、この大変貌は、江東区ばかりではなく、日本中のことなんだけど。
このようにして、バブルの頃にできた、新しい街並みは、その時点では、たしかに、新しかったのだろうが、やはり、月日の経過とともに、レトロになっていくのだろうな。
例えば、団地には、木立が生い茂り、新しかった商店も、なんだか、古ぼけて、味のある雰囲気を持つようになるものだ。
さっき通ってきた、西葛西駅前の商店街も、歴史はないはずなのに、ちょっと古びていて、親しみやすくて、いい感じだったし。
けれど、こちらにも、高層ビルが建つことはないので、来ることはもうないだろう。
小雨が降り続く中、西葛西駅に歩いていく。
(2008年5月記)

東西線東陽町駅東側(新砂プラザビル)

2008-11-19 05:04:02 | Weblog
今日は、小雨が降り続く中、延々と歩き続けているようだ。
葛西橋通りに出て西へ。さっきの明治通りとの交差点に戻る。
明治通りに入って、南へと歩いていく。
本当に、まわりには、集合住宅しかないな。
さらに歩いていくと、永代通りとの交差点。永代通りに入り、西へと歩いていく。
かなり歩いたところで、南へと曲り、そのまま、南へと進む。
通りの東側には、運転免許試験場の広大な敷地があったりするが、他にも、オフィスビルなどが建ち並んでいる。
さらに、南へと歩いていくと、通りの東側に新砂プラザビルがある。
竣工は、バブルの終わり頃だ。
たぶん、運転免許試験場以外のオフィスビル群も、同じく、バブル以降にできたのだろう。
なんでこんな辺鄙な場所にオフィスビルが忽然と現れるのだろうか。それこそが、バブルの所以、と言えば、それまでなんだろうけど。
そういえば、有楽町線の豊洲駅から別の地下鉄路線が北へと伸び、東陽町駅を通って、住吉駅に到る、という計画があったっけ。
だから、東陽町駅も乗換駅となって、重要性を増し、オフィスビルも建つ、とバブル的に考えられたのだろうか。
だとすると、東陽町駅と住吉駅の間に地下鉄路線が伸びるなら、その間に駅ができる可能性が高い。その駅は、今日、最初に訪れた、高層ビルのあるイースト21の近く、ということになる。
新砂のビル群もイースト21の施設も同じだ、ということになるな。
もっとも、この新しい地下鉄路線、いつになったら、着工するのやら。今のところ、まったく、着工するようには思えないんだけど。
それよりも、豊洲駅から、ゆりかもめを分岐させて、今日、訪れた、スカイシティ南砂の西側を南北に通っている貨物線の代わりに、ゆりかもめにしてしまった方が実現性は高いかもしれない。
そうなると、今度は、スカイシティ南砂が便利になる。
こちらも、残念ながら実現することはないだろうなあ。
なんか、今回、訪れた高層ビルは、皆、このような、実現しない夢の土台に建っているような気もしてきた。
(2008年5月記)

東西線東陽町駅北側(スカイシティ南砂)

2008-11-18 05:17:15 | Weblog
葛西橋通りを延々と西へ歩いていく。
道路沿いには、マンションも多く、昔の街並みは、もう残っていない。
しばらく、歩くと豊砂橋。横十間川親水公園が南北に伸びているのだが、その公園をまたいでいる橋だ。
少し北側には、仙台掘川公園が東西に伸びている。
ということは、豊砂橋の北で、川と川が十字に交差していることになる。
どういうふうになっているのかわからないけど。
ただ、両方とも親水公園になっていて、それらの公園が交わっている、ということでもあるので、緑が豊かな一帯になっている。
といっても、もともと、埋立地だったわけで、この緑は自然のものではない。
やはり、人工的なニュータウン、という雰囲気がする。
さらに西へ。かなり歩いたところに、南北に伸びる貨物線があり、その下をくぐっていく。
この貨物線に沿って、北へ行くと、砂町銀座、という商店街がある。
東側に、ひょっとしたら、一キロメートルぐらいに亘って伸びている、昔からある商店街だ。
かなり前に、一回か二回、端から端まで、通ったことがある。
東京近郊では、掛け値なしの、ナンバーワンの下町商店街だろうな。
もっとも、今はどうなっているのか、わからない。
昔みたいに、活気があって、親しみやすい、そういった商店街のままなのだろうか。
もう一度、行ってみたい場所の一つではあるけど、寂れていたら、どうしようか、とも思ってしまう。
南北に伸びる明治通りとの交差点を越え、さらに東へと歩く。
しばらく歩き、途中で北へと向きを変える。
葛西橋通りの北側に沿うように仙台掘川公園が伸びているが、その北側にスカイシティ南砂がある。
竣工は、バブルの頃だ。
この高層住宅も、江東区埋立地一帯が、バブルの頃に、一気に変貌してニュータウンのようになった、という歴史的な遺産なのかもしれない。
もし、そうなら、さっきの砂町銀座も、スカイシティ南砂が建つ前の、一帯が下町だった頃の歴史的遺産として、残っていて欲しいものだ。
(2008年5月記)

東西線東陽町駅北側(ホテルイースト21東京)

2008-11-17 04:15:25 | Weblog
東京イースト21タワーの南側には、ホテルイースト21東京がある。
東京イースト21タワーとは、ツインビルになっているが、高層オフィスビルと高層ホテル棟という、現在から見ると、考えられない組み合わせだ。
今だったら、高層住宅とそれより低めのオフィスビル、という組み合わせが普通だ。
バブル期ならではの発想なのだろう。
四つ目通りと葛西橋通りとの交差点から少し南に進むと、東京イースト21タワーとホテルイースト21東京との間にある、テラスのような敷地に上がれる、階段がある。
さっそく、階段を登っていったら、踊り場には大きな水溜り。
それほど激しい雨ではないけど、なんで、こんなところに、水が溜まってしまうのか。
これでは、歩くのに不便ではないか。
テラスに上がってみると、二棟の高層ビルに挟まれて、まるで、天井が吹き抜けになっている、巨大な建築物の中に入ったような錯覚を覚える。
つまり、このような仕掛けによって、人工的な空間をより大きく見せているのかもしれない。
なかなか凝った施設のデザインに感心してしまう。
だけど、そこには、誰もいないのだ。まわりを見渡しても、閑散としているばかり。
これでは、階段の踊り場に水溜りができても、もはや、誰も気にもとめないのだろうなあ。
せっかくの広大な施設なのだが、そもそも、駅から遠すぎる。
オープンした当初は、バブルの熱気の中、華々しく登場したのだろうが。
それが今では、バブルの遺産、レトロな施設になってしまったのか。
もっとも、地域に密着していて、逆に、静かで落ち着いていて、いいのかもしれない。
たしか、この場所は、江戸時代、六万坪、という埋立地だったはずだ。
江戸の街のゴミを、ここまで輸送してきて、海を埋立てた、ということだ。
まるで、昭和の時代の夢の島みたいだ。
そして、そこには、バブルの頃に、夢の施設が建ったわけか。
その夢の施設は、今、こうして、小雨の中、静かに佇んでいる。
夢からやっと開放されて、ほっとしているように見えるな。
(2008年5月記)

東西線東陽町駅北側(東京イースト21タワー)

2008-11-16 03:57:37 | Weblog
高田馬場から東西線に乗る。
都心を通過し、城東へ。
東陽町駅で降りる。
今年は、やはり、雨天が多い。
まだ、梅雨にも入っていないのに、梅雨のような天気。
しとしとと小雨が降り続く中、永代通りを西に歩き、途中、南北に伸びる、四つ目通りに入り、北へと歩いていく。
一帯は、江東区の埋立地、下町、だったはずだが、ずいぶんときれいな街並みになったものだ。
ニュータウンといってもいいぐらいだ。
東西線が開通したのが、高度経済成長期の後半ぐらい。そのことによって、郊外のベッドタウンになったとすると、新しい街ができたのは、高度成長期が達成された後の安定期の頃だろうか。
とすると、多摩ニュータウンと時期的には、同じ、ということになる。
ニュータウン、という雰囲気がするはずだ。
ただ、大きく違う点が一つある。
多摩ニュータウンは、何もないところにできた、新しい空間なのだが、この江東区一帯は、それ以前に、歴史があり、昔ながらの街があった、ということだ。
もっとも、例えば、東側にある、門前仲町なんて、観光地、あるいは、歴史テーマパーク、みたいになっていて、ほんの少し前まであった、昔の下町の面影が、ほとんど、なくなってしまったけど。
そのような街の中をさらに北へと歩いていく。
江東区役所を過ぎ、やがて、東西に伸びる葛西橋通りとの交差点。
その交差点の南西側に東京イースト21タワーがある。
高層のツインビルの一つだ。
まわりには、お店なども併設されており、ツイン高層ビルも含めて、イースト21、という施設になっている。
竣工は、バブルの終わり頃。
江東区、埋立地のベッドタウンが、急激に、今のような、きれいな街並みになっていった頃のことだ。
(2008年5月記)

都営大江戸線西新宿五丁目駅(住友不動産西新宿ビル5号館)

2008-11-15 03:55:03 | Weblog
靖国通りに出て西へ歩く。
山手線、中央線の高架をくぐり、新宿駅の西側へ。
都営大江戸線の新宿西口駅がある。
新宿西口駅で都営大江戸線に乗り込み、都庁前駅で光が丘駅行きに乗り換え、西新宿五丁目駅で下車。
方南通りを東へ。
南北に伸びる十二社通りとの交差点の手前で南へ曲る。
住宅地の中、細い道へ入りそのまま南へ南へと歩いて行く。
密集しているが、閑静な住宅地だ。上り坂なので山の手っぽいのだろうか。
このような、のどかな住宅地を歩いていると、どうしても、さっき、訪れた歌舞伎町のことを考えてしまうな。
こんな住宅地を後背地に持っているなら、客層的に見ても、新宿駅の近くに歌舞伎の劇場を開設してもいいかな、と誰しも思ってしまうだろう。それなのに、なぜ、今のような、風俗店密集地帯になってしまったんだろうか。
その転換は、やはり、バブルの頃が画期、だったのだろう。
もともと、風俗店、といえば、歴史的に限られた場所にあったり、その存在が、何よりも、水面下、アンダーグラウンドなものだったはずだが。
バブルの前ぐらいからだろうか、ニュー風俗、というのが登場して、そのような、環境が一変してしまった。
なんだか、妙に明るくて、敷居が低そうな、風俗店が一気に乱立したんだっけ。
その舞台が他ならぬ、歌舞伎町なのだ。
ひょっとしたら、北側の大久保の街が国際化していったのと同じ時期かもしれない。
つまり、バブルの熱狂の中、新宿の北東側では、妙に明るい風俗店が林立し、そして、その北側では、急に国際化が進行したのだ。
それらが、いったい、相互に、どのように関わったのかは、まったく、わからない。
そこまで考えた頃には、住宅地の中の上り坂は、下り坂になっていた。そして、その坂道をそのまま下っていくと、東西に伸びる通りに出る。
水道道路、という通りだが、その北側に住友不動産西新宿ビル5号館がある。
最近、竣工した高層ビルだ。
この真新しい、ビルを見上げていたら、ふと思い出した。
そういえば、歌舞伎町のシンボル、新宿コマ劇場は、もう解体されてしまうらしい。
結局、最後まで、歌舞伎は演じられずに、なくなってしまうんだな。
そこまで考えたら、さっきの謎が解けたような気がした。
歌舞伎は、所詮、夢ではなかったのだ。
逆に、大久保の国際化は、バブル期日本を黄金郷と見定めた、外国人の夢の実現。
そして、ニュー風俗も、男たちの夢の儚い実現なのだろう。
ならば、目の前の、この高層ビルも、夢なのだろうか。
たぶん、そうなのだろう。
今という時代が、未来へと進んでいる、という淡い夢、なんだろうな。
(2008年5月記)

西武新宿線西武新宿駅(新宿プリンスホテル)

2008-11-14 06:14:01 | Weblog
小滝橋通りを南へ歩き、東西に伸びる大久保通りとの交差点で東側に曲り、そのまま、東へ歩いていく。
中央線の大久保駅を過ぎ、山手線の新大久保駅を過ぎる。
さっきの交差点から東側、大久保駅、新大久保駅を越えて、明治通りとの交差点までが、国際的に賑やかな通り、となっている。
適当な路地のような細い道を見つけて、南へと曲る。
最近は、まず、いないが、ひところは、外国人の街娼だらけだったところだ。
今は、韓国の飲食店などが並び、健全な意味で異国情緒に溢れている。
賑やかになってよかったな。
さらに、細い道を歩いていくと、東西に伸びる、職安通り。
ここまでが、国際色豊かな地域の南限だ。
さらに、南側は、歌舞伎町の繁華街、ということになる。
実は、大久保という地名の由来、大きな窪地、というのは、歌舞伎町の真ん中あたりにあった、沼沢地、を指していたらしい。
だから、この歌舞伎町こそが、本来の大久保、ということなのかもしれないのだが。
などと考えながら、ラブホテルだらけの一帯を歩いていくと、東西に伸びる花道通り。
この南側が、繁華街、及び、風俗店街、となっている。
花道通りを西へ歩く。
やがて通りの南側に新宿コマ劇場が現れる。
この劇場が、歌舞伎町のそもそもの由来なのだが。ただ、肝心の歌舞伎が演じられたことは、一度もないそうだ。
さらに西へ歩いていくと、通りの北側には、歌舞伎町浄化のために建てられたらしい、東京都健康プラザ ハイジアがあったりする。
そして、西武新宿線の西武新宿駅に行き当たったところで、南へと向きを変え、そのまままっすぐ南へと歩いていく。
すぐに東西に伸びる交通量の多い幅広の靖国通りとの交差点となる。
その交差点の北西側、西武新宿駅の南端に新宿プリンスホテルがある。
竣工は、高度成長期が終わり、安定期に入った頃だ。
まだ、歌舞伎町が、歌舞伎こそ演じられなかったものの、大きな劇場を中心にした、賑やかな繁華街だった頃だ。
そうだったからこそ、プリンスホテルの高層ホテル棟が建ったのだろう。
今のように風俗店密集地帯だったら、さすがに、西武新宿線のターミナルでも、プリンスホテルは建たなかっただろうな。
(2008年5月記)

中央線大久保駅(百人町三丁目アパート2号棟)

2008-11-13 06:14:11 | Weblog
小滝橋通りを北へ歩く。
西側へとカーブを描いていく中央線の高架をくぐってさらに北へと進む。
少し歩いていくと、小滝橋通りの西側に百人町三丁目アパート2号棟がある。
竣工は、バブルが崩壊した後の失われた10年の終わり頃。
場所的にみて、さっきの、フレイザープレイス・ホフ新宿のツインビルとビル群を形成しているような感じだ。
さらにいえば、小滝橋通りを挟んで西側には中央卸売市場があり、東側にも、学校や病院、集合住宅などの施設が建ち並んでいて、百人町三丁目アパート2号棟もその施設の一部になっている。
それらの施設群は、やはり、大久保のインターナショナルな商業地と、北側の住宅地との間に東西に横たわる境界線になっているようだな。
もっとも、そのような東西に帯状に広がる施設群ができた頃から、大久保が一大商業地になっていたわけでもないだろう。
とりあえず、現状は、そのような境界線になっている、ということかな。
そんな帯状の境界線を昔はよく通過して、新宿まで行ったものだ。
バブルの直前ぐらいの頃だったかな。高田馬場から新宿まで、歩いて行ったのだが。
今、振り返ってみても、とても不思議な感じだが、その頃の記憶によると、大久保は、もっと静かだったような気がするし、それどころか、歌舞伎町も、今のような風俗店街ではなくて、ただの、飲食店中心のでかい繁華街だった気がする。
それが、いつ、どのようにして、現在のように変わったのだろうか。
もともと大久保通り沿いは、昔から、今のように国際的ではあったし。
変わってしまった今となっては、判然としない。
もう薄れてしまった記憶を探ってみることにする。
たしか、大久保の北側に、今でもあるが、東京グローブ座、という劇場があって、演劇でも一度は見ようか、ということで、昔、行ったことがあるのだが。
一緒に行った同僚が、ちょうど大久保の近くに住んでいた。
その同僚から、急激に大久保のお店が外国人だらけになってしまった、と聞いたんだっけ。
街中には、山下達郎のクリスマス・イブが流れいたなあ。
そうだとすると、大久保の街が、一気に国際色の豊かさで盛り上がった、その時、というのは、やはり、バブルの頃だった、そうとしか思えない。
つまり、バブルの熱狂に覆われていた頃、大久保の街は、国際色豊かな街に変貌し、今に到っている、ということだ。
(2008年5月記)

中央線大久保駅(フレイザープレイス・ホフ新宿ウエストタワー)

2008-11-12 06:14:11 | Weblog
荻窪駅に行き、今度は、総武線に乗る。
中央線に乗ると、中野駅から新宿駅まで停まらないからだ。
中野駅の次、大久保駅で下車。
改札を出ると、東西に伸びる大久保通り。
大久保通りに出て、西へと歩く。
すぐに南北に伸びる小滝橋通りとの交差点がある。
この交差点の北東側には、旧ホテル海洋、現ハンドレッドサーカス・イーストタワーがある。他にも、フレイザープレイス・ホフ新宿イーストタワー、という名前でもあるらしい。いったい、正式には、どういうビル名なんだろうか。
小滝橋通りに入り、北へと少し歩くと、フレイザープレイス・ホフ新宿ウエストタワーがある。こちらは、最近、竣工した高層住宅だ。(工事中はこちら
この高層住宅のビル名、フレイザープレイス・ホフ新宿ウエストタワー、からだと、旧ホテル海洋、現ハンドレッドサーカス・イーストタワー、別名、フレイザープレイス・ホフ新宿イーストタワー、とは、小滝橋通りを挟んでツインの高層ビル、ということになるな。
ただ、ハンドレッドサーカス・イーストタワーの方は、昔から建っている、ホテル海洋を改装しただけなので、ビルの形はまったく異なるけど。
そして、これらのツインビルの間を南北に伸びる小滝橋通りの西側は住宅地、東側は大久保の商業地、となっているので、小滝橋通りは、その境界線のようになっている。
ということは、これらのツインビルは、境界に建つ、壁のようなものかもしれない。
たぶん、ハンドレッドサーカス・イーストタワーに変わる前のホテル海洋が建った頃は、一帯は、まだ、新宿の街外れ、というだけの場所だったのあろうなあ。
だが、今は、大久保駅から東側、大久保通りに沿って、明治通りまで、一大商業地域になってしまった。
しかも、その一大商業地域は、実に、国際色豊かな場所になっている。
だから、そういう地域との壁が必要となったのだろう。
訪れる分には、国際色豊かな商業地は、とても楽しいのだけど。
(2008年5月記)

中央線荻窪駅北口(インテグラルタワー)

2008-11-11 06:13:23 | Weblog
駅の北口の東側。青梅街道と中央線に挟まれたような場所には、インテグラルタワーがある。
かつて、何回か行っているので、今回は、近くまでは行かない。北口にも行かない。
竣工は、バブルの終わり頃だ。
この高層ビルもバブルの遺産、ということなのだろう。
インテグラルタワーの西側、駅寄りには、飲食店が密集している一帯がある。こちらにも、再開発計画があったようだが、いつの間にか、立ち消えになっている。
ただ、本来は、立ち消えになった、この飲食店の密集地帯こそが、荻窪の再開発のメインだったような気もする。
一番、最近、荻窪に行ったのが、といっても、かなり、昔なんだけど、このインテグラルタワー西側の飲食店地帯だったな。
ラーメンを食べに行ったのだけど。
たしか、荻窪のラーメンは、ラーメンブームの発祥だったように思うのだが。
食べに行った時は、もう、二匹目のドジョウのご当地ラーメンブームで盛り上がっていて、荻窪ラーメンのお店には、長蛇の列、なんて光景はなくなっていた。
といっても、まだ、荻窪ラーメン、といえば、かなり有名だったので、遅ればせながら、話の種に食べに行ったのだ。
食べに行ったのはいいけど、なんでただのラーメンで、こんなに敷居が高くて、客に対して高飛車なのかと、戸惑ってしまったのをよく覚えている。
しかも、たいして美味しくもないし。
美味しくないと感じるのは、こちらが高価なものを食べていないので、舌が肥えていなからなんだろうけどな。
この荻窪ラーメンブーム、というのは、バブルの頃だったなあ。
ラーメンに付加価値を付けてしまう、というのが、バブルの底の浅さを示しているのかもしれない。
ということは、荻窪ラーメンブーム、というのは、そういう意味では、バブルの所産だったのだろう。
つまり、インテグラルタワーがバブルの遺産なら、この飲食店の密集地帯もバブルの遺産なわけだ。
(2008年5月記)