らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

ポンペイ遺跡

2022-07-29 | 旅行

先日、桜島の南岳山頂火口で爆発的な噴火が発生しました。
気象台は、活動が非常に活発化しているとして、桜島では初めて噴火警戒レベルを最も高いレベル5の「避難」に引き上げました。
その後、火山活動が沈静化し、27日午後8時のニュースでは警戒レベルをレベル3の「入山規制」に引き下げ、有村町と古里町の一部に出していた「避難指示」を午後8時25分に解除しています。
火山の噴火では、過去にはイタリアで大災害をもたらした事例があります。

「2000年ほど前のヴェスヴィオ火山想像図」
今からおよそ2000年程前の西暦79年に、イタリア南部の町「ポンペイ」の北西方向そびえるヴェスヴィオ火山で大噴火が起こり、たった1日で麓のポンペイの街を焼き尽くすという大災害がありました。

今年1月14日~4月3日まで東京国立博物館で特別展「ポンペイ」が開かれていたのでご存じの方もおられると思います。
それに合わせたかのように、2月10日にはNHKBSで映画「ポンペイ」が放送されました。

私は10年ほど前にイタリア旅行でポンペイ遺跡を訪れたことがあるので、この映画に関心があって録画しておきました。
先日、録画していたその映画「ポンペイ」を観たので、今日は10年前を思い出しながらポンペイについて取り上げたいと思います。

・大噴火前のヴェスヴィオ火山とポンペイの街並みの想像図です。(ウィキペディアより)


「ヴェスヴィオ火山」
ヴェスヴィオ火山は西暦79年8月24日の大噴火が有名であり、この時の火砕流でポンペイの街は埋没しました。
嘗ては標高3000mを超える火山だったそうですが、度々の噴火で山が削られ、現在は1281mになっています。
1880年には山麓から火口まで登山電車が開通し、これを記念して作られた曲がご存じの『フニクリ・フニクラ』です。

・現在の「ヴェスヴィオ火山」です(2012年4月撮影)


「古代都市ポンペイ」
ポンペイ遺跡はイタリア南部のカンパニア州にある広大な遺跡です。
洗練されたローマ帝国の都市として繁栄していましたが、西暦 79 年にヴェスヴィオ山が大噴火したことで、街は大量の火山灰と軽石に埋もれました。
ナポリ湾の近くで発掘されたこの遺跡は、保存状態が良く、自由に探索することができることから、イタリア旅行でも見学コースに組み込まれていました。

ポンペイはヴェスヴィオ火山南東麓(ろく)の肥沃なな土地で、ナポリ湾に近く交通要地でもあったために、古くイタリア先住民のオスク人が集落をつくっていました。
紀元前8世紀にはギリシャの植民者が来住し、前7世紀にはエトルリア人も移住して都市国家に成長し、貴族共和政となったと考えられています。
その後、紛争や戦争を繰り返しながら急速にラテン化、ローマ化が進み、都市参事会制度(下記参照)も整いました。
ローマの富裕者も好んで別荘をつくり、劇場、神殿、バシリカ(市場、裁判所などに使われた施設)、浴場、凱旋門、柱廊、商店が続々と建設されました。
最盛時の人口は1万5000~2万を数え、カンパニアでも有数の壮麗な都市となり、その後も保養地として繁栄を続け、水道や舗装路も整備されました。

しかし、西暦63年2月に大地震に襲われ、住民が不安に陥っていたところ、西暦79年8月24日ヴェスヴィオ火山が大爆発を起こしたのです。
火山から10キロほど離れていたポンペイの街には高温の火砕流や火山灰、火山礫が降り注ぎ、街全体が6~7メートルもの火山灰に埋没し1万人以上が暮らす都市はたった1日で消滅してしまったのです。
(参考)
なお、都市参事会制度とは、北西ヨーロッパの諸都市で成立した制度で、上層市民を中心に同等の権利を持つ無報酬の参事会員(通常12名前後)から構成され,多数決による議決を行った制度です。

「ポンペイ遺跡」
「車道と歩道」
およそ2000年前にすでに車道と歩道が設けられていました。
通り(スタビアナ通り)の両側には家や商店が立ち並んでいました。



「大噴火で亡くなった人のレリーフ」
ヴェスヴィオ火山の大噴火に伴い、発生した二酸化硫黄や硫化水素などの有毒ガスによって、ポインペイでは多くの人が亡くなり、膨大な量の火山灰が降り、人々の上に積りました。
長い年月が経つと、人間や動物の肉体は腐食し、微生物による分解でなくなります。その結果、火山灰の中が空洞化します。
考古学者等はそこに石膏を流し込み、石膏が固化した後、火山灰を取り除くことで人や動物のレリーフができあがります。
この方法によって、往年の人々の顔の表情や容姿、衣服から装飾品までがレリーフで再現されているのですが、その数は1200体に上ると云われています。



「ジュピター神殿跡」
ポンペイ最初の守護神はアポロでしたが、次第にアポロへの信仰心が失われ、ジュピターが最高の神として崇められるようになったそうです。
ジュピター神殿の両側には二つの立派な凱旋門があり、広場全体が回廊で囲まれた、大きくて荘厳なものだったようです。



「フォロ(公共広場)」
ヴェスヴィオ火山の大噴火による火山灰の深さは6~7mにもなり、その重みで建物の屋根は殆ど崩壊し、柱や壁だけが残っているものです。
この壁の奥に太陽の神「アポロ神殿跡」があります。



「メイン道路」
およそ2000年前のポンペイのメインストリートで「アッボンダンツァ通り」です。
全長は約1㎞、車道と歩道に分かれており、飛び石を置いた横断歩道もあります。



「轍(わだち)の後」
スタジア通りにはおよそ2000年前の轍(わだち)の跡が今もそのまま残っています。



「商店跡」
商店の入口扉の溝跡です。一般住宅にはこの溝がなく、これで住宅と商店の区別ができるそうです。



「パン屋」
パン屋の跡です。右がパン焼きがまのようです。



「住宅の玄関」
およそ2000年前の玄関のタイルです。
タイルの奥が家屋で、その奥に庭があったそうです。



「公衆の水道」
顔の口から水が出て、石の中に溜まり、溢れた水は左右の石を削っているところから流れるようになっています。



2000年前と言えば、日本では弥生時代の中期に当たります。
稲作とともに、青銅器や鉄器など金属器が伝わり、銅鏡や銅鐸などが作られ、お祭り宝物として使われるようになった時代です。
この時代にイタリアでは都市国家が出来ていて繁栄していたのです。
古代ローマ帝国の先進性が見て取れますね。