らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

阿倍野橋の由来

2022-07-21 | 地元紹介

大阪は嘗て、「水の都・大阪」と言われていただけに、古くから河川や堀が張り巡らされ、橋の多さから「浪華八百八橋」と称されてきました。
このようなことから、天満橋や心斎橋など川に架かる「橋」の地名はたくさんあります。

ところが、JR天王寺駅周辺の「阿倍野橋」と呼ばれる地名には「橋」が付いていますが、川に架けられた橋ではありません。
川がないのに何故、「橋」なのでしょうか?
今日は阿倍野橋の由来について調べました。

「阿倍野橋」
調べてみると、阿倍野橋は鉄道の敷設に伴って付けられた跨線橋でした。
天王寺区悲田院町と阿倍野筋を結ぶ大阪府道30号線(谷町筋)にあって、JR西日本の関西本線、大阪環状線、および南海天王寺支線跡を跨いでおり、所謂、川に架かる橋ではなく鉄道を跨ぐ橋として架けられました。
その場所は、JR天王寺駅直結の商業ビル「天王寺ミオ」の前で、欄干から見下ろすとJRの線路が束になって橋の下をくぐっています。
大阪市のホームページによると、阿倍野橋は長さ61メートル、幅35メートルの橋だということです。

・鉄道を跨ぐ橋「阿倍野橋」です。おおむね谷町筋の部分が阿倍野橋です。


「阿倍野橋の由来」
阿倍野橋が架けられたのは1889年(明治22年)のことです。
大阪鉄道(現在のJR大和路線)が、湊町(現在のJR難波)~柏原間に鉄道を開通させる際、上町台地を東西に掘削して鉄道を敷き、その上に南北を結ぶ橋を架けました。
この橋が「阿倍野橋」です。
上町台地を掘削した理由は、「当時の電車は馬力が乏しく、台地の勾配を登ることができなかった」から、ということです。
所謂、「浪華八百八橋」と呼ばれている江戸期の橋ではなく、明治期にできた跨線橋が阿部野橋なのです。

・阿倍野橋はその後、1943年に改築工事を行い、現在の姿になりました。


川がないのに「橋」がある地名の「阿倍野橋」は鉄道敷設に伴う跨線橋に付けられた名前でした。
跨線橋に名前が付くこともあるのですね。
でも、谷町筋と阿倍野筋と繋がっている一般の道路なので、これが「阿倍野橋(上の画像)」であることは殆どの方が気づかないでしょうね。


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1 コメント

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八百八橋  (もののはじめのiina)
2022-07-21 12:11:23
> 川がないのに「橋」がある地名の「阿倍野橋」は鉄道敷設に伴う跨線橋に付けられた名前でした。
水の都・大阪は「八百八橋」ですから、陸地に交差する橋もありそうではありますね・・・。

この界隈では、仁徳天皇が難波で、炊事の煙ないことを見て三年間、税を免除した高津宮を偶然歩き当てましたょ。

都会でこそ陸の橋ですが、田舎には交差する水路の橋がありました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/328a15e8a7eb647ba9b11d41283e6c25

ハイ、あだたら渓谷にも橋が架かってました。

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