らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

素人と玄人

2014-12-15 | 雑学

テレビを観ていると、素人の方がプロ芸人顔負の才能を見せることがよくあります。
このような時には、本職の人たちは立つ瀬がないのではないかと思いますが、さて、今日は素人と玄人の語源について調べてみました。

ある物事に経験のない人のことを「しろうと」、技芸などでその道に熟達した人や専門家のことを「くろうと」と言います。
この「しろ」と「くろ」は漢字にすると色の「白・黒」ではなく、「素」「玄」と書きます。

では、色とは全く関係ないのかと言うとそうではないようです。
「しろうと」は平安時代には「しろひと」と言い、「白人」の漢字を当てていたそうです。元々は白塗りをしているだけで、他には全く芸のない役者や芸人を指す言葉でした。
囲碁でも、下位の人が白石を持つことから「未経験者=白人」と言われるようになったと言う説もあるように、元々は色に関係していたようです。
それが室町時代には「しろひと」が「しらうと」に変化し、江戸時代に「しろうと」になったと言われています。
「白人」と言う漢字が「素人」に転じたのは、「素」に「しろい」「平凡なさま」という意味があったためだと言われています。

一方「くろうと」は、「しろうと」の対義語として使われるようになった言葉で、元々は「くろひと」と言い「黒人」という漢字が当てられていました。
これが「しろひと」と同様に、時代とともに「くろうと」に変化し、「奥深くて暗い様」を意味する「玄」という漢字が当てられるようになり、「玄人」になったそうです。
因みに、プロが驚くほど技芸に優れた素人のことを「玄人跣(くろうとはだし)」と言いますが、これは玄人が履物を履くのも忘れるほど驚き、裸足で逃げ出すという意味です。

最近の低俗な芸人さんは裸足で逃げ出すことも知らないのでしょうね。



山の合目

2014-12-14 | 雑学

富士山などの高山には「合目」があって、「五合目」とか「七合目」などと表示されています。
「一合目」とは、十等分した一つであることから、例えば「五合目」は山の高さの半分くらい、「七合目」は標高の7割程度の高さと思われる方が多いと思いますが、実はそうではないようです。
そこで、今日は「合目」について調べてみました。

標高3776mの富士山の場合、半分の高さは1888mですが、表富士宮口五合目は標高2400m、御殿場口新五合目は1450mと約1000mの差があり、どちらも1888mとはかけ離れた数字となっています。
同様に「七合目」についても、標高の七割の高さは2643mなのに対し、富士宮口七合目は3010m、御殿場口の七合目は3070m、須走口七合目は3090mとまちまちです。

この高山道に対して「合」という単位が用いられるようになったのは富士山が最初だそうです。
富士山は昔から神聖な山とされており、僧侶などが修行のために登った山であり、その際、足元を照らした行燈に必要な油が1合燃え尽きる毎に道程を区切ったのが「合」が用いられた始まりのようです。

・標高2400メートルの表口五合目です。


現在、「合目」に対する正式な定義はないそうです。
従って、登山道の距離を10等分したものとするとか、標高或いは海抜を10等分したものとするなど、山や地域によって基準がバラバラのようです。
しかし、どちらの場合にしても10等分と言っても測量を行って正しく等分された山というのはほとんどなく、長い年月をかけて登山者の感覚で習慣的に付けられたものが定着していったケースが殆どだということです。

そのため、登山者の元気がある麓の方では一合目毎の距離が長く、疲労を感じて足取りが重くなる中腹より上では一合目毎の距離が短くなっているといった山も多く見受けられるということです。
また、中には展望が開けて休憩のとれるような場所を五合目や八合目などと先に決めてしまい、残りは適当に振ったとしか思えないような山もあるそうです。

「合目」とは路程などを十等分した一つ、それも適当に付けられたものであり、標高とは何ら関係がないと言うことです。

・海抜3010メートルの表口七合目です。




世界最大の大岩

2014-12-13 | 雑学

「世界最大の一枚岩」と言えば、オーストラリアのエアーズロックが知られているところです。
エアーズロックは、オーストラリアのほぼ中央にある巨大な岩で、今から約2億3000万年前に創造されたのだそうです。
標高は868m、地面からの高さは335m、周囲は9.4㎞の巨大な一枚岩は世界遺産にも登録されています。
オーストラリアの先住民アボリジニは「ウルル」と呼んで、聖地として大切にしているということです。

・これがそのエアーズロックです(ネットより)


前述で「エアーズロックは世界最大の一枚岩で知られている」とご紹介しましたが、実はもっと大きな岩がオーストラリアにあって、エアーズロックは世界最大級ではあっても、大きさでは世界第2位なのだそうです。

世界最大の一枚岩は西オーストラリア州カーナボンの東約450㎞の地点にある「マウント・オーガスタス」と呼ばれる大岩です。
この巨岩は今から十数億年前の原生代初期に、古代の海底に砂や石が堆積して生まれたそうで、標高は1105m、地面からの高さも725m、そして底面積は4795ヘクタールで、エアーズロックの約2.5倍の大きさだそうです。

では、何故、「エアーズロックが世界最大の一枚岩」と伝えられているのでしょうか?
「マウント・オーガスタス」は巨大過ぎて山のようであり、1枚岩に見えないうえに手軽に登れる観光対象になりにくいことから知名度がなく、間違って伝えられているだけとのことです。

・これがその「マウント・オーガスタス」です(ネットより)



やたら

2014-12-12 | 雑学

「むやみ」とか「みだり」など、物事に根拠や秩序、節度のないありさまを言う言葉に「やたら」がありますが、今日はこの言葉の語源を調べました。

「やたら」を「矢鱈」と漢字で書いているのを見ることがありますが、これは当て字だそうです。
「やたら」は「鱈」とは関係なく、その語源は宮中で行われる雅楽の「夜多羅拍子(やたらびょうし)」からのようです。

雅楽では、二拍子と三拍子があわさって五拍子になる変形の拍子があり、この拍子を「夜多羅拍子」と言いますが、このやたら拍子は変形な拍子なのでとても演奏しづらく、テンポが乱れることもしばしばで、そこから秩序や節度がなく、乱れるさまを「やたら」というようになったということです。
なお、「むやみやたら」と言う言葉がありますが、これは、結果の是非を考えないことを意味する「むやみ(無闇)」を強めた言い方だそうです。

余談ですが、「やたら」と言えば、山形県には「やたら漬け」という郷土料理があるようです。
山形へ行かれた時はお土産に如何でしょう。

・これが山形のやたら漬けです。美味しそうですね。
 


他山の石

2014-12-11 | 雑学

文化庁が言葉の本来の意味を解説しているページに「ことば食堂」があります。
当ブログでは月に1~2回、その中からご紹介していますが、今日は10月2日に公開された第12話の「他山の石」をご紹介します。

読者の皆さんは「他山の石」と言う言葉をどのようにご理解されてますか?
ことば食堂では「先生の教えを他山の石として頑張っていきます。」と、「自分が手本にしたい目上の人の良い行い」という意味で用いられていますが、これは本来の意味と違っており、このような使用は「先生」に失礼な発言となります。

「他山の石」は,中国最古の詩集「詩経(しきょう)」にある故事に由来する言葉で、それによると、「よその山から出た粗悪な石も、自分の宝石を磨くのに利用できる」ことから、「他人のつまらぬ言行も自分の人格を育てる助けとなる」という意味で使われてきました。

広辞苑でも、【他山の石とする】を、「他山の石以(いしもっ)て玉を攻(おさ)むべし」と同じとし、「よその山から出た粗悪な石でも、自分の宝石を磨く役に立つ」の意から、「自分より劣っている人の言行も自分の知徳を磨く助けとすることができる」と説明しています。
このように本来、目上の人の言行についてや、手本となる言行の意では使わない言葉なのです。

平成16年度の「国語に関する世論調査」で「他山の石」の意味を尋ねたところ、結果は次のとおりだったようです。(下線を付したものが本来の意味。)
(ア) 他人の誤った言行も自分の行いの参考となる・・・・・・・・・・・・・・ 26.8%
(イ) 他人の良い言行は自分の行いの手本となる・・・・・・・・・・・・・・・・ 18.1%
(ウ) (ア)と(イ)の両方の意味で使う ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5.5%
(エ) (ア)と(イ)のどちらの意味でも使わない ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22.4%
分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27.2%

年代別では、
16~19歳で「他人の良い言行は自分の行いの手本となる」と、本来の意味の意味でない(イ)を選んだ人が、本来の意味である(ア)を選んだ人の割合を上回っています。
20代になるとその割合が本来の意味である「他人の間違った言行も自分の行いの参考となる」を選んだ割合に近くなり,30代以上では本来の意味を選んだ人の方が多いという結果だそうです。

また、この言葉については、「分からない」を選んだ人が多いのも特徴で、その割合は,16~19歳を除く年代で2割台半ばから3割強となっており,特に20代から40代まででは,最も多く選ばれた選択肢になっています。
これは、「人のふり見て我がふり直せ」という成文のように、字面を読めばその内容が十分に理解できるのと違って、「他山の石」の場合は、それだけでは「よその山の石」という意から、知識で補わない限り理解することができないということが考えられるそうです。

『他山の石』の本来の意味は『他人の 誤った言行も自分の行いの参考となる』と言う意味です。
使用には十分注意したいですね。


村八分

2014-12-10 | 雑学

「村八分」と言う言葉があります。
現在では、一般に仲間外れにすることを意味していますが、元は江戸時代以降、村民に規約違反などの行為があった時、全村が申し合わせにより、その家との交際や取引などを断つ私的制裁のことを言いました。

何故、「八分」なのか?
「八分」とは、十の付き合いのうちの八という意味です。
十の付き合いとは、冠・婚・葬・建築・火事・水害・病気・旅行・出産・年忌の十で、「村八分」ではそのうちの葬と火事の「二」を除いた「八」の付き合いが禁止されたということです。

葬と火事を除いた理由は、
・「葬」は葬式の世話のことで、死体を放置すると腐臭が漂ったり、また伝染病の原因となるため。
・「火事」は消火活動のことで、これは「延焼を防ぐため」と言われています。
付き合いを禁止して放置した場合、他の人に迷惑がかかる上記の2分については除外し、それ以外の一切の交流を絶つということです。

地域社会や組織の中では「村八分」にされないように、規律を守り、協調し、助け合って生活して欲しいですね。

 


京都の旅(その6)太秦映画村(3)

2014-12-09 | 地元紹介

「京都の旅」シリーズとして5回ご紹介してきましたが、今日でこのシリーズを終了させていただきます。

「アトラクション」
映画村の白壁通りで、俳優3人によるチャンバラのアトラクションがありました。
寸劇の筋書きの中に、観客を仮想女優として話しかける個所があるのでしょう。3人の剣士の内、中央のハンサム剣士が一人の婦人に「おー、○○
殿ここに居られたのか」と話しかけていました。
話しかけられたその御婦人は恥ずかしがって尻込みしていましたが、さすがは俳優さん、アドリブで次から次へとセリフを繰り出し、面白おかしく見せてくれました。



このアトラクションで、観客の中から希望者3名の飛び入りを呼びかけたところ、子供さんと若い女性2名が手をあげてアトラクションに参加しました。
この女性は3人目の方ですが、見事な太刀捌きで俳優さんを切り倒しました。



「長屋門」
江戸時代の武家屋敷の門の形の一つです。
門の両脇続きの建物の中が部屋になっており、家来の長屋住まいとしていたので「長屋門」と呼ばれています。
撮影でよく使われるのは「新撰組屯所」として飾られたり、「遠山の金さん」の北町奉行所やナマコ塀をつけて「大岡越前」の南町奉行所、また「忠臣蔵」では屋根に雪を載せ吉良邸・裏門としてが定番だそうです。



「宿場町」
江戸時代の地方の宿場町を再現しています。
ドラマの撮影では股旅ものや「水戸黄門」「子連れ狼」などの、地方を旅する時代劇の撮影によく使われるそうです。



「江戸の町」
日本橋からの江戸の街並みを撮影しました。
さすが、江戸の町です。大勢の町人たちが行き来しています。


「明治の駅舎」
江戸時代から明治時代に入ると鉄道が敷設されましたが、これは当時の駅舎を再現したものです。



・明治通りに展示されている当時の客車です。



京都の旅(その5)太秦映画村(2)

2014-12-08 | 地元紹介

京都の旅シリーズで東映太秦映画村をご紹介していますが、今日はその2回目です。

「旅籠 寺田屋」
寺田屋と言えば「寺田屋事件」で有名ですが、その事件は2度起きています。
一つ目の事件は、文久2年(1862年)4月23日、薩摩藩主・島津久光の出兵上京に、薩摩藩の過激派の若者が京で攘夷クーデターを起こそうと計画していたのを久光が聞きつけ、同じ薩摩藩士に取締りを命じたもので、同じ薩摩人同士の、凄惨な同士討ちとなった事件です。
同時に薩摩過激派に同調してクーデターを起こそうと構想していた、清河八郎らも計画を断念せざるを得なくなりました。

二つ目の事件は、伏見奉行所の役人によって、慶応2年1月23日(1866年3月8日)に坂本龍馬が襲撃を受けた事件です。
この事件では、寺田屋から屋根を使って逃走した龍馬達は、川沿いの木材屋に隠れました。
龍馬は、役人から逃げ切れないと思った三吉が切腹するのを止めて、薩摩藩邸へ行くように指示を出しました。
一方、龍馬は役人との応戦の際に左手の指を負傷してしまったため、この場に残りました。
薩摩藩邸へ知らせに走ったおりょうと、三吉の報告によって龍馬は、薩摩藩士に救出されます。

・二つの事件の舞台となった寺田屋のセットです。


「旅籠 池田屋」
池田屋でも事件が起きています。
池田屋事件は、文久3年(1863年) 8月 18日の「8.18政変」で失脚した長州藩および、それに同調する過激派公家が追放されたことで、長州および攘夷志士が京都に騒乱を起こそうとしました。
その際、大義名分となる孝明天皇を誘拐しようとしますが、テロを事前に察知した新撰組が集合場所であった三条の池田屋を襲撃し、テロを防いだ一件です。

この事件の眼目は8月18日の政変で京都を追われた尊攘派が、その巻き返し策として洛中市街を焼討ちし、御所より帝を拉致するテロの実行でした。
その密談が行われていたのが池田屋で、治安部隊である新撰組はこれを取り締まる任に当たっていたものです。
なお、坂本龍馬はこの事件に関わってはいませんでした。

・旅籠 池田屋です。


「新撰組屯所」
新選組は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った集団です。



「花魁道中」
花魁(おいらん)道中のアトラクションがありました。
花魁道中とは、上級遊女である花魁が従者を従え、八文字を踏んで練り歩く行列のことです。
このアトラクションでは女優の渋谷めぐみが花魁に扮して、中村座から吉原の三浦屋までを歩くものです。


「吉原」
吉原遊廓は江戸幕府によって公認された遊郭です。
元々は大御所である徳川家康の終焉の地、駿河(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まりだそうです。
吉原の周囲にはお歯黒溝(おはぐろどぶ)と呼ばれる大溝がありますが、これは遊女の逃亡を防ぐための溝だそうです。



「遊女屋」
吉原の「遊女屋」です。
格子の中に遊女が坐って客を待ちますが、自由に外出することもできないことから、「籠の鳥」とも言われていました。


先ほどの花魁は、吉原の三浦屋の近くまでやってきました。




京都の旅(その4)東映太秦映画村(1)

2014-12-07 | 地元紹介

今日は「京都の旅」シリーズを再開し、その4回目をご紹介します。
智積院の傍にある一休庵で昼食の後、東映太秦映画村に行きました。
ここには映画やドラマの時代劇でお馴染みのセットがたくさん建てられてあり、何となく懐かしい気持ちが湧いてきました。

「江戸の町」
・江戸の町を歩いていると、チンドン屋が迎えてくれました。
 カメラを向けると、こちらを向いてポーズをとってくれたのがこの画像です。


「日本橋」
・時代劇でお馴染みの日本橋です。皆さんも見覚えがありませんか?


「将軍の馬」
・日本橋を渡ると暴れん坊将軍(徳川吉宗)が乗っていた白い馬が繋いでありました。
 ちっちゃな子供の将軍がポーズをとっているところを、お母さんがシャッターを切っているところです。


「め組の家」
その暴れん坊将軍(徳川吉宗)のドラマに出てくる、江戸町火消しの1つ「め組」です。
ドラマでは松平健扮する徳川吉宗の仮の名前である“徳田新之助”が居候していた先です。
北島三郎扮する「め組」の頭、辰五郎と徳田新之助が仲良く語り合うシーンが浮かんできます。



「銭形平次の家」
大川橋蔵の銭形平次も人気のあった番組でした。
この番組はドラマ史上最長の全888回という金字塔を打ち立て、ギネスブックで世界記録に認定されていますが、この家はその銭形平次と八千草薫や香山美子が演じた「お静」が住んでいた家です。



「海鮮問屋」
海鮮問「湊屋」の前の船着き場です。
ここに船が付いて、荷を下ろすシーンが度々ありますが、撮影現場はこのように池となっています。


ピクトグラム

2014-12-06 | 雑学

今日は「京都の旅」シリーズを一時休ませていただき、「ピクトグラム」を取り上げます。

ピクトグラム(英語ではピクトグラフ:pictograph)と言う言葉を聞いたことがありますか?
和英辞典では、
1.象形文字とか絵文字。
2.絵で示した統計図表と書いてあります。

この言葉をご存知ない方も絵文字を見れば「な~んだ、これのことか」とすぐに分かると思います。
このピクトグラムが日本で採用されたのは1964年の東京オリンピックからと言われています。
戦後初の国際的な大イベントで言語の壁を越えて案内する手法として、各種競技や施設など、約60種のピクトが作成されたそうです。

・右側の絵文字が50年前の東京オリンピック時のピクトグラムです。(ネットより)


このピクトグラムは日本の家紋から発想して誕生したそうですが、今では国際的にも大きく評価されているということです。
例えば、トイレを表すのに男女のシルエットを使ったピクトグラムがありますが、できたのは東京オリンピックが最初でした。
しかし、当初は意味が理解されず、一般に広まったのは1970年の大阪万博だったそうです。



また、よく見かけるものに非常口のピクトグラムがあります。
緑色の扉に駆け込んでいる人をデザイン化したシンボルでおなじみですが、これは公募で寄せられたものを元に、太田幸夫氏が手直しをして作られたのだそうです。



この非常口のデザインが生まれたきっかけは、70年代後半日本で行われた非常口標識のデザインコンテストだそうです。
それまでは「非常口」や「出口」という文字が書かれているだけでしたが、目立つように「でかでか」と表示すると平常時に目障りであることや、文字の読めない子供や外国人には意味が伝わらないという問題があったことからのようです。

その後、国際規格(ISO)に制定する際には各国からデザイン案が寄せられたそうですが、暗闇や煙の中での視認性や心理的な効果も実験して意見を添えた日本案が採用され、今では世界的に使われるようになったということです。

日本人のデザインが世界で使用されていることは嬉しいですね。