日本には現在、文化遺産と自然遺産を合わせた世界遺産が25件登録されています。
その内、大阪には「百舌鳥・古市古墳群ー古代墳墓群ー」が令和元年に世界文化遺産に登録されています。
先日、古市古墳群がある羽曳野市で「埴輪作り」をテレビで紹介していました。
そこで、今日は埴輪について調べてみました。
その前に、大阪の世界遺産についてご紹介します。
前記したように、大阪では「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されています。
「百舌鳥古墳群」
百舌鳥古墳群は、堺市内の東西・南北約4キロメートルの範囲に広がる古墳群です。
古墳時代、この一帯には100基を越える古墳が造られましたが、都市化の進展などによってその多くが失われ、現在は4世紀後半から6世紀前半に造られた44基の古墳が残っています。
その中には、世界三大墳墓の一つに数えられている、世界最大級の墳墓・仁徳天皇陵古墳をはじめとする巨大前方後円墳などが含まれており、日本の古墳文化を物語る貴重な遺産です。
なお、世界三大墳墓とは、仁徳天皇陵古墳、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とされています。
「古市古墳群」
古市古墳群は藤井寺市から羽曳野市にかけて東西・南北約4キロメートルの範囲に広がる古墳群です。
墳丘の全長が400メートルを超える巨大な前方後円墳の応神天皇陵古墳から、一辺10メートルに満たない小型方墳まで120基を越える様々な墳形と規模の古墳からなります。
現存する45基のうち、墳丘の全長が200メートルを超える巨大な前方後円墳は7基も含まれています。
「埴輪の由来」
これらの墳墓からはたくさんの埴輪が出土しています。
土で作られたこれらの出土品を何故、埴輪というのでしょうか?
埴輪の「埴(はに)」は、赤や黄色のきめ細かい粘土のことです。
埴輪の「輪(わ)」は、輪のように並べて立てたことからとする説と、初期の埴輪は筒形の「円筒埴輪」が中心であったため、その形状からとする説があります。
テレビでは、土で「輪」を作って人型を作ったことが「ハニワ(輪)」の由来と紹介していました。
今から約1750~1300年前の古墳時代(3世紀後半~7世紀)のお墓である古墳からは、人や動物をかたどった土製品がしばしば見つかっており、これらを「埴輪」と呼んでいます。
日本で最初に書かれた歴史書の一つ「日本書紀」には、天皇が亡くなった時、生きた人を一緒に古墳に埋めることは余りに可哀そうなので、代わって人の形をした土製の人形を立て並べたものが埴輪であると書かれています。
「日本書紀の記述」
『日本書紀』には次のような記載があります。
垂仁(すいにん)天皇が心を悩ませた悲惨な光景に次のようなことがありました。
「倭彦命(やまとひこのみこと)の葬儀に際して、近習者を集め、陵墓のまわりに生きたまま、埋め立て並べた。数日しても彼らは死なず、昼夜悲しげに泣いた。ついに死んだ彼らを犬やカラスが食い荒らした。天皇は泣き叫ぶ声を聞いて、心締めつけられる思いがした」
というものです。
そうした天皇の思いに応えて皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の仕方について、妙案をひねり出した人物がいたのです。
それは相撲で名声を博した野見宿禰(のみのすくね)だったのです。
宿禰は「陵墓に生きた人を埋め立てるのは良くない」と言い、出雲国へ使者を派遣し、土部(はじべ)100人を呼び寄せました。
そして自ら土部を率いて埴(はにつち)をとり、人や馬などいろいろな形のものを作って献上し、この土物(はに)を生きた人に替えて陵墓に立てることを提案したのです。
天皇は野見宿禰の提案を大いに喜び、この土物(はに)を日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の陵墓に立てました。
これを埴輪(はにわ)あるいは立物(たてもの)いい、今後陵墓には必ず土物を立て、人を傷つけないよう命じました。
埴輪ができる前は近習の人達が生きたまま埋められたのですね。
何と酷い大喪儀の風習だったのでしょう。