らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

2.26事件から80年

2016-02-26 | 時事

今日は2月26日です。
2月26日と聞いて何を思われるでしょうか?
私は学校の歴史で習った2.26事件を思い出します。
勿論、この事件は私が生れる前の出来事なので、先生から聞いたことや書物で読んだ程度の事しか知りません。
今日はこの事件から80年となる日なので、その概要を調べました。

「2.26事件」
2.26事件は、ちょうど80年前の昭和11年(1936年)2月26日未明、陸軍の青年将校ら1483名が兵を率いて、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こし、高橋是清(たかはし これきよ)蔵相、斉藤実(さいとう まこと)元総理・内大臣らを暗殺したクーデター未遂事件です。

「事件の背景」
この事件の背景には、革命的な国家社会主義者の北一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想があります。
この思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し、皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野田四郎らを中心とする一部の青年将校が、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況などの現状を打破する必要性を声高に叫んで行動を起こしたものです。
しかし、結局のところこのクーデターは、その天皇によって彼らは反乱部隊として数日のうちに鎮圧されることになりました。
(参考)
・「尊皇討奸(そんのうとうかん)」・・・天皇による政治を実現するためには私利私欲に走り、天皇の命令を曲げて伝えて悪政をしている政治家を討つこと。
・「君側の奸(くんそくのかん)」・・・・・君主の側で君主を思うままに動かして操り、悪政を行わせるような奸臣(悪い家臣・部下)。

「事件の要因」
2.26事件の要因には、根底に陸軍の派閥争いという側面があります。
当時陸軍は、「皇道派」・・・天皇による親政を望み、その為には武力を持ってしても、それを邪魔するものたちを排除すべき
         「統制派」・・・合法的に政府に圧力をかけ、自分たちの望む政治体制を実現させよう。
という二つの派閥に分かれていました
2.26事件を起したのは、皇道派でしたが、彼等は天皇の命により統制派をはじめとする軍部によって一掃され、以降、陸軍では、統制派が力を付けていく事になりました。

「事件の概要」
事件の概要は、大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校らは、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を持って元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が終息すると考えていました。

彼らは、この考えの下、昭和11年(1936年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣や橋是清大蔵大臣などの殺害を図りました。
斎藤内大臣、橋大蔵大臣、および渡辺教育総監を殺害し、岡田啓介総理大臣も殺害したと発表しましたが、総理大臣については誤認だったそうです。

その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えました。
当初、陸軍の首脳部は青年将校たちの行動を容認する態度をとっていましたが、海軍が鎮圧を要求し、天皇も同様の立場をとったので、軍と政府は彼らを「反乱軍」として武力鎮圧を決意し29日に鎮圧を開始しました。

そして飛行機やラジオで投降を呼びかけた結果、形勢が不利になったと判断した反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、2名が自決しましたが、大半の将校は自首して、その日のうちに鎮圧されました。

岡田内閣に代わった広田内閣は陸軍の要求で軍部大臣現役武官制を復活し、これが軍による内閣介入の端緒となりました。
そして、軍部は事件の威圧効果を利用して政治的発言力を強め、戦争体制へと突き進むことになったのです。

戦後70年の現在の日本は豊かで平和な国ですが、今より貧しい生活を強いられていた昭和初期は、軍部の発言力が次第に強くなり、戦争への道を一直線に歩んでいたようです。