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らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

山田方谷(2)

2013-04-05 | 雑学

昨日に続き山田方谷(やまだほうこく)をご紹介します。

山田方谷について、日本維新の会の平沼赳夫衆議院議員が1月30日の衆議院本会議の代表質問の冒頭で取り上げており、昨日はその前半部分をご紹介しました。
今日は後半部分の藩政再建についてご紹介します。

「山田方谷の藩政再建」(平沼衆議院議員の発言より)
備中松山藩(現:岡山県高梁市)は当時大変な貧乏藩で、石高は5万石でしたが、方谷が調べたところ実際は1万9000石ほどしかなかったと言われております。
そして借金は膨大で、10万両の借金が大阪の両替商にあり、利息を払うだけでも四苦八苦の状況でした。
このような状況下で山田方谷は藩主・板倉勝静(かつきよ)に請われて全権を委任されて、元締役兼吟味役、今で言えば財務大臣に就任したわけであります。

方谷は現在の日本に匹敵する財政難に、節約の大号令を発し、藩札の刷新、産業の振興、藩政改革、文武の奨励、軍制の確立、新田の開発等々に取り組み、現在の貨幣価値で言うと600億円にもなる10万両をわずか7年で完済し、その上に10万両の蓄えまで持つことができました。

彼は節約でお金を浮かし、大阪の両替商には正直に内情を示し、再建計画書を提出、利息をまけてもらい、この資金で製鉄のための“たたら”を造り、鉄製の三本又の備中鍬(くわ)を大量製造して、当時日本の総人口の8割を占めている農民に向かって、江戸でこれを販売しました。
これが羽根が生えたように売れ、藩の収入に大変寄与しました。
この収入で方谷は街道の整備、港の建設を行い、流通面でも配慮したわけであります。現在の公共事業です。

当時は藩の発行した紙幣、藩札は紙くず同然になってそれぞれの家に眠っていたことから、方谷は、「藩札を持ってくれば金貨、銀貨、銅貨に替える」と、交換を約束を致しました。
藩中の人たちは半信半疑で藩庁に藩札を持っていくと約束どおりに金、銀、銅貨に交換してくれました。
回収した旧札は、藩の中心にある河原にうずたかく積まれ、衆人環視の中で方谷はこれに火をかけて燃やし、新たに藩札を発行しました。
新しい藩札には信用があり、瞬く間に流通をし、隣の藩にまで浸透しました。

こうして情報を開示し、資金を創出し、産業を興し、信用ある藩札の発行、金融改革、財政改革を行い、必要な公共事業にも手を伸ばしました。

更に、方谷は新田の開発にも熱を入れ、新田からの米には年貢をかけませんでした。
農民だけでなく、武士にも屯田兵(とんでんへい)制度で新田を開発させ、これも無税扱いに致しました。
これは税制改革のひとつと言え、経済は盛んになりました。

また軍備にも着目し、武士でない農民・一般人からなる里正隊(りせいたい)といいう軍隊を創設しました。
総理のご地元である長州の奇兵隊が組織される10年も前のことです。これを日下玄瑞もわざわざ見学に来て、多大な影響を与えたものと言えます。
山田方谷は72歳で没するまで、教育にも邁進し、彼の教えを受けた人々が大変活躍をしました。

彼の藩政刷新の効果は絶大で、板倉勝静(いたくらかつきよ)は徳川幕府の筆頭老中にまで上り詰めることができました。
方谷は勝静の右腕として活躍し、大政奉還の精神も彼が起草したと言われております。

現在の日本と同じ状態となっていた備中松山藩を実質1万9千石から20万石の実力とまで言われるようにした山田方谷のこと、我々は今、今後の参考に大いになると考えております。
以上が平沼赳夫衆議院議員が代表質問の冒頭に紹介した山田方谷の財政改革です。

「方谷への評価」
「山田方谷」は、上杉鷹山、河合継之助、調所広郷(ずしょひろさと)などのような名の知られた改革成功者ではなく、歴史の谷間に埋もれたままで忘れ去られた地味な存在となっていた改革者ですが、その業績からみてその偉業はずば抜けていると評価されています。

山田方谷の成功は、誠意中心主義一筋を貫徹し、陽明学を理解して生涯を清貧、公明正大、率先垂範に努めるなど儒教思想を通じてそれを体現したことにあったそうです。
生涯の行動や業績をみると、どんな逆境や困難に遭遇しても夢、希望、明るさを失わず絶えずプラス思考で生きた人物であることが分かります。

越後長岡藩の河井継之助は、「才徳を兼ねた陽明学の経国救民の実学の人は江戸にはおらず、備中松山の山田方谷しかいない」として門を敲(たた)き、学び、そして国に帰ってから、方谷の書幅を一室に掲げ毎朝礼拝したと言われています。  
 「方谷以前に方谷なし、方谷以後に方谷なし」