大阪泉州地域は今サクラが満開ですが、和歌山市の紀三井寺では数日前に既に満開となっており、関西で一番早い満開とのニュースが流れていました。
先日、孫のピアの発表会に行ったついでに紀三井寺のサクラを観てきたのでご紹介します。
「紀三井寺」
紀三井寺は、今から1240年余り前の宝亀元年(770年)、唐僧・為光(いこう)上人によって開基された霊刹です。
為光上人が日本各地を行脚していた時、名草山(標高228.7m)山頂から一筋の光が発せられているのを見て、光の元をたどって名草山に登ったところ、為光は、そこで金色の千手観音を感得(かんとく)しました。
為光は自ら観音像を彫刻し、胎内仏としてその金色千手観音像を奉納し、草堂を造って安置したのが紀三井寺の始まりであると伝えれれています。
・開山堂の前から眺める本堂です。
「楼門」
室町時代・永正6年(1509年)再建された三間一戸・入母屋造・本瓦葺きの楼門です。
建立以来たびたびの修理を受けていますが、桃山時代の様式を今に残しているそうです。
・重要文化財に指定されている紀三井寺の楼門と参道両側に並ぶ土産物店です。
「結縁坂」
紀三井寺の楼門から上に231段の急な石段があります。
参詣者泣かせの急坂ですが、この坂は、結縁坂(けちえんざか)と呼ばれ、次のような”いわれ”が伝えられています。
「結縁坂」の由来
「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃には貧しかったけれど孝行者でした。
ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしていたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。
それ以来、この坂を「結縁坂(けちえんざか)」と呼ばれるようになったそうです。
後に、文左衛門は玉津島神社の宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしました。
有名な文左衛門のミカン船伝説です。
・参道の急な石段です。
この坂には、女厄除坂37段や男厄除坂42段、還暦厄除坂60段等の名称がつけられており、本堂まで231段の急な石段続きます。
「清浄水(しょうじょうすい)」
紀三井寺の名称は、「紀州にある三つの井戸が有るお寺」に由来していると言われています。
三つの井戸を「三井戸」と呼び、その内の一つが石段の途中にある清浄水(しょうじょうすい)で、石垣の間から枯れることなく水がチョロチョロと流れ落ちています。
あと二つは、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)で、こちらも清水がこんこんと湧き出して、年中絶えることがないそうです。
大正11年、昭和天皇陛下が皇太子殿下のみぎり、当地に行啓された時、紀三井寺の清浄水が非常に良いということで、わざわざ和歌浦の御宿舎までこの水を運んで調理その他の用水に供されたそうです。
このことは、当時の人々の誇りとして、今尚諸人の記憶に残っているそうです。
・紀三井寺の三井水は昭和60年3月、環境庁より日本名水百選に選ばれています。
「こころの灯台・新仏殿」
この建物は2002年~2003年頃に建造されたもので、その目的は「現在の荒廃した社会から生かされていることに感謝すると言う本来の考え方を取り戻すために『こころの灯台』となるべくこの法塔、新仏殿を建立した」とされています。
見た目には灯台を模した建物になっていますが、上層部は有料の展望台となっています。
・こころの灯台・新仏殿です。
・新仏殿から見た、満開となっている境内のサクラです。