フランスとmanga


 このところこのブログはマンガのことばっかり書いてるなあ、と思われているかもしれません。(^_^;) すみません。 m(_ _)m
 しかし、おそらくここ2,3年というのは、フランスと日本マンガの関係において重要な節目になる時期と思うので、少し突っ込んで考えておきたいのです。
 近いうちに旅に出ますから、帰ってきたらまた調子が戻るでしょう。

 3月に日本マンガについての大きな国際シンポ Le manga, 60 ans apres... 「マンガ、60年後・・・」がフランスで開かれていて、『ユリイカ』6月号がその報告と、いくつかの関連する論文を載せています。なかなか面白いです。

 またフランス人がやりはじめているんですね。(^_^;)

 異質な文化のなかで面白いものが出てきたら、好奇心旺盛なフランス人が目をつけて、何人かがしゃかりきにがんばってそれを勉強、フランスに持ち込んで、分析、咀嚼してあらたな文化潮流の形成に役立て、世界に再発信する。

 史上なんども繰り返されてきたパターンかもしれません。

 こういうことができる、させられる体制が社会に根付いているからこそ、フランスは「文化大国」であり続けているのでしょう。
 だからこういうことをするのは、アメリカであるより、フランスなのです。
 ウィキペディア日本語版の『よつばと!』の項には日本語版と並んで英語版のISBNしかあげてないですけど、他の諸語のなかでもフランス語版はもう少し優先的に、英語版と並べて紹介するくらいの重要性はあると思うんですけどね・・・(わたしのひいき心が判断力を歪めてるかな・・・)


 ところで残念ながら(?)こういうフランス人たちのような姿勢は、外国マンガに対してのみならず日本マンガに対しても、日本の人には取りにくい感じがします。
 マンガ評論の第一人者、伊藤剛氏でさえこんなことを言ってます。

「(フランスの)BDだけでなく、私は海外の<マンガ>についてあまりにも無知だ。[...]
 この『閉鎖性』は、長らく、日本国内の読者たちは、強い感情移入と、ときに切実な思い入れとともにマンガと接してきたことに由来する。国内の読者の生活との密着ぶりが重要視されてきた。その限りにあっては、マンガを表現として『鑑賞する』というセンスはそぐわない。たとえば、海外コミックの翻訳に関して、石子順造氏は晩年の文章で『ほとんど実効はあるまい』と切り捨てている」(「『テヅカ・イズ・デッド』のそれから」、前掲書、146ページ)

 そう言い切られてしまうと、実も蓋もありませんね・・・ (*_*;)
 日本では大学みたいな、いくらか資本主義を無視することが許されている場で外への回路を確保しておかないと、全然外国文化が分かんない人間ばかりになっちゃいますね・・・(と自己の存在の妥当性を主張しておいて・・・ (^_^;) )。

 ところでWikipediaフランス語版の『よつばと!』の項目にはこう書いてあります:

「あずまきよひこの描くマンガの筋を日本以外の場所に移すことは困難である。使われている語彙は単純であるにも関わらず、ある種のギャグは日本文化をよく知っている人でなければ理解が難しいものとなっている。また描写されている日本における日常生活のある種の側面は、西洋の読者には奇妙なものに見えるかもしれない。」
Azuma Kiyohiko dessine des mangas dont l'action est difficilement transposable hors du Japon ; bien que le vocabulaire utilisé soit simple, certains gags sont donc difficilement compréhensibles tels quels si l'on n'a pas une bonne connaissance de la culture japonaise. De même, certains aspects de la vie quotidienne japonaise tels qu'ils sont décrits pourront paraître étranges pour des lecteurs occidentaux.

 そう、たしかにこういう指摘は『よつばと!』みたいなのに一番よく当てはまる気がします。
 どういうところが西洋の読者に「理解が難しい」か考えて読んでみるのもまた一興でしょうね。 (^_^)y (逆にこういうフランスマンガは、わたしにはどこがおもしろいのかさっぱりわからないので、機会があればフランスの友人に聞いてみたいです)

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