日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
ドイツ語について
去る8月29日に金沢星稜大学で行われた公開パネルディスカッション:アジアにおける複言語主義と未来志向のドイツ語ドイツ文学研究とドイツ語教育の役割"Asiatische Mehrsprachigkeit und zukunftsorientierte Rollen der Germanistik und des Deutschunterrichts"のご報告です(↑ 道を挟んで向かい側に、あの松井選手の出た星稜高校があります。(^_^) )。
そしてこの機会に、わたしのドイツ語教育観を述べさせていただきます。
あらかじめ申し上げておきますが、かなりマジで、挑戦的で、長いです。f(^_^;)
この公開パネルディスカッションは8月26日から29日まで開かれた「アジア・ゲルマニスト会議」(日本独文学会主催)最終日の行事として行われたものです。
巻頭の祝辞以外全文ドイツ語のゲルマニスト会議プログラムにもこのパネルディスカッションの解説はないし、会場にもレジュメ等の配布物は一切なかったので、ドイツ語を解しないわたしが同時通訳の日本語で聞いた限りでのご報告です。
実際の発言と真意が違う、というようなことがお分かりになる方にはその旨ご指摘いただければ幸いです。
内容は各パネリストとも自国のドイツ語教育の現状の報告(アジアのパネリストからは自国の複言語状況の報告)が主なので、肝心の「未来志向のドイツ語ドイツ文学研究、ドイツ語教育の役割」という最も興味ある論題については方向性が提案されるだけだったのは残念です。具体的方策、具体的実践例の報告をうかがいたかったのですが。
以下、司会の三瓶教授の発言をのぞく各パネリストのおもな発言のメモを並べてみます(パネリスト諸氏は一回7分ずつ発言したあとばらばらに発言する形になったのですが、順番は無視しています)。
中国のWei教授:
「学問のある種の領域(哲学、心理学など)にドイツ語の場が残る」
「中国ではいまドイツ語学科生、インテンシブコース履修生が増えているところであるが『春はいつまでも続かない』ことは明らか」
「高レベル教育と、副専攻と組み合わせた教育に意義があると考えられる」
「経済、技術のドイツ語を教える意義はなく、ドイツ語は文化言語としてドイツへの文化的関心と不可分」
「英語が既習言語であるということは中国では織り込み済みでドイツ語教育をしている。英独中の文法比較などをやっている」
「ドイツにあるインターナショナルスクールは英語で授業をやっているのだから中国人には魅力がない」
「ドイツ人にドイツ語への忠誠が欠けていてドイツ語不可欠の状況がなくなっている」
「ドイツ語を経由しなければならないものを教えるべき(会場から小さな拍手)」
韓国のKim教授:
「カリキュラム改正で英語オンリーが加速。2001年には公立校の149人のドイツ語教員のうち113人が中国語あるいは日本語教員に配置転換させられた」
「しかしドイツ語は文化言語として認められている」
「大学のドイツ語学ドイツ文学専攻学生が2005年の5000人から2007年には5800人と増えている」
「ドイツ語は、韓国の民主主義への刺激となる」
「小さくともきめ細かな教育が望まれる」
日本の平高慶大教授(日本独文学会長):
「日本社会も多言語化が進んでいるが、日本においてはアジア言語が中心になるべきでしょう」
「日本語、英語の次に『パートナー』の言語ができるとよい」
「ドイツ語は日英に続く第三言語としては重要な文化言語、ヨーロッパ社会を開く言語という意義がある」
「旧来のドイツ語ドイツ文学中心のドイツ語教育から離れて、言語だけを教えるというよりデザイン、都市計画、環境問題などの専門分野と絡めた教育を考えるべきである」
スイスのHess-Lütich教授:
「母語/となりの地域の言語/英語の三つの言語という考え方がある」
「スイスではドイツ語圏の人が国家意思を決定し、フランス語圏の人が異議を唱えるというパターンがあるといわれる」
「ドイツ語圏の人はフランス語をやるより、フランス語圏の人はドイツ語をやるより、先に英語をやる傾向もみえる。つまりスイス人の内輪でも英語でコミュニケーションする場が増えている。4言語のスイスというのはすでに神話である」
「さらにスイスの場合、スイスドイツ語へのこだわりという要素がある。スイスドイツ語というのは諸方言にわかれ標準語化できない。いわゆるドイツの標準ドイツ語は外国語と位置づけようという考え方があるが、しかしそうすると移民の人たちはスイス社会に統合されるためにはスイスの各方言ができないといけないことになる。これはさすがに極端な議論である」
「2015年までに世界の人の半分以上が英語で話すことが可能になるが、2050年ころにはそれが中国語、アラビア語、スペイン語の台頭で相対化されるという予測がある。やっぱりドイツ語は不利である」
Hanuljakova国際ドイツ語教員連盟(IDV)会長(スロヴァキア):
「文化は特有の言語と結びついている。言語を捨象できない。複言語主義を学校、職場において実現していく。単言語の方がコストがかかることになる(←このあたり時間が短すぎてなぜそうなるのかというお話がなかったですが、それについてはまたいつか考察します)」
「アフリカの人にはドイツ語圏で勉強したいというモチベーションがある」
「アメリカ大陸におけるドイツ語団体の存在はドイツ語の地位の向上に役立っている」
「そういう状況はヨーロッパにはない。スロヴァキアに進出するドイツ企業も、スロヴァキア人に要求するのはドイツ語ではなくて英語能力である」
オーストリアのGoltshnigg教授:
「フンボルト財団でも自然科学分野ではもうドイツ語は不要、というおかしな政策をやっている。ドイツの地域研究も英語だけでよいではないか、という議論がアメリカでおこっている。地域研究があるだけまし、という考え方なのだがこれはあさはかである」
「アフリカでもドイツ語が良い地位を保っている国がある」(←これについても後で述べます)
*****
さてわたしの感想、そしてわたしの(日本における)ドイツ語教育観を述べます。
日本では、フランス語教育は多くの点でドイツ語教育と立場を同じくするところがたしかにあります。
しかしフランス語は、たとえフランス共和国そのものへの文化的関心が全くなくても、広大なフランス語圏において代替の困難な言語ツールであるということが、かなり多くの国際的コミュニケーションの場における言語であるということが否定しがたい現実として存在するので、学習する意義があります。あってしまうわけです。
そしてスペイン語やアラビア語、中国語、あるいはポルトガル語やロシア語などにもそれぞれの固有の事情がありますが、だいたいは今の日本の現状からしてスペインやロシアなどの特定地域の文化研究を超えたところにおける代替困難な言語ツールとして、教育をこれからより充実させる方針をとりうる可能性をもっています。
ドイツ語には、そういう状況はないです。残念ながらない。
EUの有力言語という地位はありますが、多くの場合日本の人にとって、EU関係は英語で代替がきいてしまいます。
だから、フランス語教育者がドイツ語教育者と仲よくして協調するのはよいことで、どんどん協調すればいいのですが、フランス語関係者がドイツ語に気を使ってドイツ語に合わせる、まったく同じ方向性をとるという意味はないです。
そういうことは自分にとっても、日本国にとっても、そしておそらく世界にとっても良くないことのように思うのです。
たいへん気になるのは、ドイツ語教育の指導的立場にある人たちが英語とドイツ語の関係に話を集中しすぎなのではないか、という印象を受けることです。
もちろん多くの場合限られた時間等の制約があるわけですが。
そして同じような偏りは実にフランス語教育関係者にも厳然と存在するわけですが(多くの場でフランス語教育関係者も、英語とフランス語の関係ばかり話していて、それ以外の言語は「別の業界」でありよく知らないままにほうってあるようにみえます)。
すべての言語教育に携わる者(英語教員も含めます)が、自らの専門言語と英語以外のすべての言語を視野に入れて日本規模、世界規模でバランスのとれた有益な言語教育を考えるために対話を重ね、思索を重ねる、という発想があってもよいのではないでしょうか。
ただそういう対話、思索を現実化させるためには、ドイツ語が現在日本の大学教育(とくに多くの地方大学)で享受している非英語教育のなかでの相対的優位が失われることを、ドイツ語教育関係の方々に納得していただかなければならないでしょう。
しかし、その方が最終的にドイツ語教育界を利することだと、わたしは信じます。
ヘス=リュティッヒ教授の発言ではスペイン語、アラビア語は2050年までには英語支配を相対化するだけの存在感を有すると目されるというのですが、この両言語の教育は日本ではまったく無力な存在です。
その大きな理由は、大学に教員がほとんどいないということです。
ポストがないから、勉強しても就職ができない。就職が難しいから専門的に勉強する人が増えない。教育界が充実しない。ポストが増えない。悪循環です。
教員は「マイナー言語」の疎外感の中で育ち、高等教育の場で十分声を上げて自らの有用性を主張する声をあげることすらできず、時代の日本の言語教育を構想しリードするという気概を持つ機会も、言語能力だけでなく教育スキルを磨き、発揮する機会も、なかなか与えられないのです。
ドイツ語教育関係者には、ドイツ語教育業界固有の利益を離れて、真に日本の人々を益する言語教育体制ができるよう努力していただくことを期待します。
もちろんフランス語教育者たちにもおんなじことを言います。
そして、現在マイナー言語とみなされている(でもその必要性は日々増大している)言語の教員が数的にも増え、大学内、社会内で責任ある地位にどんどんつけるような人づくりの体制を作ることに多くの人が積極的に取り組んでいただきたいのです。
わたしは、ドイツ語教育が滅びるべきと言っているわけではまったくありません。
時代の現状にあった言語教育の具体的姿が国民に提示されるならば、あまたある非英語、第二外国語の学習にもそれなりの「飾りものではない」有用性があると社会に認知してもらうことができるはずだと思うし、そういう認知が成立すればドイツ語は、第二外国語内第一位の座は失うにせよ栄誉ある、しかるべき地位が保証されるはずだと言いたいのです。そうしたら、実際の教員数自体はたいして減らさなくてもいいということになるかもしれないじゃないですか。
ドイツ語文化は、ほかのどの国にもまして日本において近代化に大きく貢献しました。だからドイツ語教育は確かに日本においてかなり大規模に存続するだけの存在理由を持っていると思います。
ただそのために今現在必要な言語の教育を押し潰さないようにしてほしいです。
そうすればドイツ語教育はまっとうな、妥当な地位を日本の言語教育界の中で占めて存続していくことができるのではないでしょうか。
・・・来週は、集中講義で筑波大学に行きます。それからフランスです。
[追記] 一部語句訂正しました。 08.09.05.
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