退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「好きに死にたいこと」について

2016-08-05 02:00:33 | Weblog
晴れ。毎日暑い。

上野千鶴子「ケアのカリスマたち 看取りを支えるプロフェッショナル」を読む。

どうやらみんな自宅で死を迎えたい模様。
その一方で子どもたちに遠慮する親たちの姿もあり。

医療が未発達の時代は「病院で死ぬこと」がありがたいことだったものの
今となってはそうでなくなったという「歴史」にふむふむ。

「好きに生きるもしくは死ぬこと」が
こんなにも難しくなっている現実を知る。

それにしても著者は「縁」に恵まれすぎているような。
「希望」を見出す場所に常にいる趣き。

「カリスマ」が支える場所も重要な一方
もっと「普通の人々」が「システム」に支えられることも必要だという「合理性」なども。

「好きに生きること」が結局は肝心要。
楽しい気持ちが「免疫力あるいは治癒力」を増す効果もあるはず。

そのために必要なのはおそらく「欲望のまとめ」。
「最低限を確保すること」ができればあとは「どうでもいい」という姿勢さえあれば。

「決められた道」からはずれることを恐れているだけではどうにもならず。
むしろ「現実」は思いもかけない姿を見せることがある。

ただし。

「ごく普通の『幸せ』」を手に入れられる環境がもっと各地にないと。
「人という資源」にどう接触できるかどうかが重要だったりもするけれど。

それぞれにどうにかそれらを確保する手段を見つけつつ
自らがその「資源」として周囲に働きかけることが出来れば。

「視野狭窄」の最悪のパターンが先日の相模原。
自分ごときに「世界」の何がわかるかという単純な「事実」を忘れずに。

「自分=世界」なら自分のみ滅びよ。
それがせめてもの「倫理」だと思いたいところではあるが「現実」はそうもいかないらしい。
コメント
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