退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「盛者必衰と小国民あるいは『現実』を生きること」について

2016-08-26 03:12:17 | Weblog
くもりのち晴れ。暑さは少し和らぐ。

アンドリュー・ゾッリ+アン・マリー・ヒーリー「レジリエンス 復活力」を読む。

分野を問わず「世界の複雑さ」を「生態系」として捉えること。
「過剰適応」はやがて決定的な「脆弱性」になること。

好ましい具体例を示しながら著者はそうしたことを説く。
途中で瞑想が入ってくるあたりで少し「眉唾」なところも。

言葉は新しいけれどどうやら「基本」は同じ。
曰く「盛者必衰」と「小国寡民」。

かつての「くに」が「藩」であったという事実を思い出しつつ
さらにスケールダウンした「地域」でそれぞれにといったあたり。

「独立した集団」が各地にあるのがよさそう。
「ハブ」としての人材が活躍することを祈るのみ。

これまた繰り返せば重要なのは「『ハブ』になれる人材の育成」。
もっとも「通常の教育」からは生まれないものではあるのだけれど。

新海誠「言の葉の庭」(’13)をTVで観る。

新宿御苑と思しき東屋で雨の日に出会ったふたり。
その後互いの事情から何度も会うことになりあれこれあってというお話。

監督の名前は確か東浩紀の著書で初めて知ったはず。
ひとりで全部作った「ほしのこえ」という作品の紹介だったか。

雨と綠のしたたり具合が素敵。
「カメラ」と「アニメ」の隙間のような映像に魅力あり。

物語そのものについてはむしろどうでもよく。
「重さ」を感じさせる題材を少し集めて淡く描いた印象。

いっそ人物が全く出てこない風景のみの作品だったらなどと。
「コヤニスカッツィ」(封切当時は「カッティ」だったはず)(’82)を思い出したり。

「本当のわたし」という発想はそもそも「青春時代」のもの。
「ありのまま」というのは案外厄介なものだったりすることを忘れずに。

本気で「失われたまっすぐさ」を取り戻したいなら実はいつでも可能。
それを「不可能」だとするのは「現在」を維持した上での「安全な場所」からの発想。

果たしてそれが自動的に「維持すべきもの」かどうかなど考えもせず。
「偽物のノスタルジー」は醜いだけ。

「束の間のカタルシス」に溺れる前に「現実」を生きよう。
たかが知れた自分の「物語」のみを生きないように。
コメント
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