こちらはずいぶん春めいてきましたが、そちらはいかがですか?
どういう風に過ごしていても、時は止まらず流れるので、
ふと足を止め振り返ると驚いてしまいますよね。
で、足元をじっと見続けていると、
自分が動いているのか、周りが動いているのか、時折分からなくなります。
子供の頃私はよく、橋の上から流れる川面や波打つ池の水面を眺めていました。
するとそのうち、動いているのが水面ではなく、
まるで自分のいる橋そのものであるかのような錯覚に陥って来るのです。
その感覚がとても楽しく、
「ああ、今僕は大きな船に乗って進んでいるんだ!」
と夢想しながらいつまでも眺めている子供でした。
そして最近は、むしろ感覚としてそういうものがあるので、
その錯覚も視覚ではなく、体全体で感じるような、
それこそ最初に言っていたようなそんな感じで…
(この辺をもっとうまく表現できないかな~。)
以前こういう話を書き、その中で
時間とは長短ではなく、強弱でとらえるべきもので、
また、それらは流れ去るものではなく、脈打つリズムであるから、
その、脈動が大きければいかなる時も、即時に感じ取れるので、
遠い「過去」の出来事さえも、「今」にも「未来」にも体感できる。
というような趣旨のことを書きました。
特にここ最近立て続けにハムスター(ここあもち、豆大福)をはじめ、
ジョイや、顔なじみのご近所のわんこ達を見送っていたので、
あの子達の一生の時間と、私たちの一生の時間の差について、
いろいろ思うところがありました。
そんな感じで今朝のこと。
娘が残るハムスターの「きなこもち」に朝ごはんをあげていたので、
何気にひょいと覗くと、何とも言えず可愛らしく、
「まるで子豚みたいやなぁ~。」
とか言いながら見ていたのですが、
次第にその姿が、ここになったり、豆になったり、ハムちゅうになったり、はむむぅになったり。
サイズはもちろん毛色や姿かたちも全く違うはずの子たちと次々に重なってきたのです。
それはほんの一瞬でしたが、鮮やかに脳裏に浮かびました。
無論それは、印象的な記憶がよみがえっただけの錯覚なのですが、
まるで見ているような感覚でした。
だから私の中では、その時時間を一気にさかのぼっていたんですね。
でもそのことに気づくと、すぐにその感覚は冷め、
後は可愛いきなこがモリモリご飯を食べている姿だけがありました。
でも、そういうことがあったので、今日は朝から得した感じ。
こういう感覚はたぶん誰にでもあるとは思います。
そう言うとき、それが幸せな記憶ならば、すごくうれしくなるでしょう?
だから私はいつもわんこ達と散歩に出たりするときには、
道々の草花や、風景に常に目をやります。
いつか、それらが「今」のこの幸せを瞬時に呼び戻せる、
そんなタイムマシンのスイッチになるかもしれないから。
これは、無論家族、友人たちとの時も同様です。
そういうわけで、私があちこちきょろきょろしていても、
「よそ見しない!」
とか言って叱らないでください。
(=^^=)ゞ
「だれが子豚ちゃんなの!」
「失礼しちゃうわ!モリモリ♪」
「ほんとに失礼ね!ぶくぶく♪」
どういう風に過ごしていても、時は止まらず流れるので、
ふと足を止め振り返ると驚いてしまいますよね。
で、足元をじっと見続けていると、
自分が動いているのか、周りが動いているのか、時折分からなくなります。
子供の頃私はよく、橋の上から流れる川面や波打つ池の水面を眺めていました。
するとそのうち、動いているのが水面ではなく、
まるで自分のいる橋そのものであるかのような錯覚に陥って来るのです。
その感覚がとても楽しく、
「ああ、今僕は大きな船に乗って進んでいるんだ!」
と夢想しながらいつまでも眺めている子供でした。
そして最近は、むしろ感覚としてそういうものがあるので、
その錯覚も視覚ではなく、体全体で感じるような、
それこそ最初に言っていたようなそんな感じで…
(この辺をもっとうまく表現できないかな~。)
以前こういう話を書き、その中で
時間とは長短ではなく、強弱でとらえるべきもので、
また、それらは流れ去るものではなく、脈打つリズムであるから、
その、脈動が大きければいかなる時も、即時に感じ取れるので、
遠い「過去」の出来事さえも、「今」にも「未来」にも体感できる。
というような趣旨のことを書きました。
特にここ最近立て続けにハムスター(ここあもち、豆大福)をはじめ、
ジョイや、顔なじみのご近所のわんこ達を見送っていたので、
あの子達の一生の時間と、私たちの一生の時間の差について、
いろいろ思うところがありました。
そんな感じで今朝のこと。
娘が残るハムスターの「きなこもち」に朝ごはんをあげていたので、
何気にひょいと覗くと、何とも言えず可愛らしく、
「まるで子豚みたいやなぁ~。」
とか言いながら見ていたのですが、
次第にその姿が、ここになったり、豆になったり、ハムちゅうになったり、はむむぅになったり。
サイズはもちろん毛色や姿かたちも全く違うはずの子たちと次々に重なってきたのです。
それはほんの一瞬でしたが、鮮やかに脳裏に浮かびました。
無論それは、印象的な記憶がよみがえっただけの錯覚なのですが、
まるで見ているような感覚でした。
だから私の中では、その時時間を一気にさかのぼっていたんですね。
でもそのことに気づくと、すぐにその感覚は冷め、
後は可愛いきなこがモリモリご飯を食べている姿だけがありました。
でも、そういうことがあったので、今日は朝から得した感じ。
こういう感覚はたぶん誰にでもあるとは思います。
そう言うとき、それが幸せな記憶ならば、すごくうれしくなるでしょう?
だから私はいつもわんこ達と散歩に出たりするときには、
道々の草花や、風景に常に目をやります。
いつか、それらが「今」のこの幸せを瞬時に呼び戻せる、
そんなタイムマシンのスイッチになるかもしれないから。
これは、無論家族、友人たちとの時も同様です。
そういうわけで、私があちこちきょろきょろしていても、
「よそ見しない!」
とか言って叱らないでください。
(=^^=)ゞ
「だれが子豚ちゃんなの!」
「失礼しちゃうわ!モリモリ♪」
「ほんとに失礼ね!ぶくぶく♪」