『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』斑猫独語(37a)**<2009.11. Vol.61>

2009年11月06日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<我輩は鉄ちゃんである!>

 私は鉄道が好きだ。交通手段にはまず鐵道を考えるし、一人で電車に乗る時には出来るだけ運転台の真後ろに立ち前方を見たいというささやかな欲望にかられる。いわゆる“鉄ちゃん”なのである。国鉄西成線や市電桜島線を見て使って育った結果こうなったのだと思っている。高齢鉄ちゃんは今、鉄道のすべてがわかる「ビジュアル大百科・鉄道データファイル」という週刊誌を毎週買い、過去、現在の鐵道情報を仕入れ楽しんでいる。そんな鐵道データファイル285号(2009.9.8)は、私に懐かしい思い出をよみがえらせてくれた。それはDD12型ディーゼル機関車の記事だ。そこを少し引用してみよう。

 「昭和20(1945)年8月の終戦時、米軍の予測では日本国内の鐵道は壊滅状態にあり、十分に機能していないはずだった。そのためフイリピンのマニラに鉄道要員2000人と各種資材を待機させており、この中には8両のディーゼル機関車が含まれていた。しかし、上陸後に列車が時刻表に従って走っていることが判明、米軍は鐵道の直接統治を止め、国鉄に対し指令を出して占領輸送を行う間接統治に切り替えることにした。」

 ぼかぼかにやっつけたはずの日本で列車が時刻表通り走っていたのだ。これにはアメリカ人は驚いた。びっくりしたアメリカ人の事は笑えるが、福知山線列車事故にまでつながる列車ダイヤ厳守の精神におもいが行けば笑いもひきつってしまう。

 さて私の思い出話だが、この時アメリカが用意した8両のディーゼル機関車の一つに私は乗っているのだ。続いて引用すると「昭和25(1950)年3月には、西宮球場で新聞社主催の「アメリカ博覧会」が催され、会場内の仮設線路で8500級(アメリカが持ち込んだ8両に与えた米軍標識ナンバー、後に国鉄のDD12型になる)が展示運転された。おもに航空機関係を主体とした博覧会であったが、当時ディーゼル機関車は多くの日本人にとって非常に珍しく、注目を集めたという」このアメリカ博覧会に仲良しだった渡辺君が兄さんと行くことになり、私も一緒に連れて行ってもらったのだ。たしか小学校5年生の時のことだ。ナイアガラの滝や大統領の顔を彫った岩山の野外模型、空飛ぶホテルと呼ばれた二階建ての旅客機の模型内部を歩いたことなどを覚えているが、なんと言ってもそこで先の展示運転ディーゼル機関車に乗ったこと、機関車の外側のデッキに乗って短い仮設線路を往復しただけのことだが、あのうれしかったことは今も忘れられないのである。それまで蒸気機関車と電車しか知らなかったから、ディーゼル機関車を見て、乗ったことに私の得意度は最高になっていただろう。その響きはしばらく体にしみついていたのであった。

 こんな話を歴史の一こまとして発達してきた鉄道も、衰退に向かって走るしかなかった。そこには様々な要因があったが、自動車の普及が引導をわたしたのである。大幹線はともかく地方鉄道の多くは廃止されて行った。鐵道を衰退に追い込んだ自動車が、今またフエリー業界を衰退に追い込んでいる。これには無定見な道路行政が荷担していることは明らかである。こんなことが平然と起こる日本に私は住み続ける。政治を怒るのは簡単だが、簡単に行かないのが、自動車に乗る一人一人についてである。

 自動車を利用する者一人一人が、その社会的に及ぼす影響を、もう少し深く真剣に考えなければならないのである。

 和歌山電鉄の“玉ちゃん”という駅長ネコが人気だ。これとて鉄道経営の困難から生まれた、人寄せ策なのだが、玉ちゃんを見るため車が殺到して駅周辺の人たちが困っているという。“電車に乗ったらんかい”あ!地が出てしまった。ついでや、1000円で走れる高速道路におしよせ、自らが渋滞の一員でありながら、全く他人事のように「しんどいです、へとへとです」などと差し出されたマイクに向かってしゃべる光景をテレビニュースで何度か見たが、あほか!これは貧しさのあらわれではないのか、私は思う。ゆったり、ゆっくり、堂々と行こう、これが貧しさの対極なのだ、と断言までする気はないが、ゆったり、ゆっくりのある状態、私はそこに少なくとも精神的には富者を感じるのだ。とか何とか意地を張るのである。

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