『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(23)**<2007.3. Vol.45>

2007年03月05日 | 熊野より

三橋雅子

<牛の草鞋(わらじ)>

 古道の木の根に足を引っ掛けそうになりながら、同年輩の女性が、「よく牛の草鞋作りを手伝わされたわ」と言う。馬喰(ばくろう・牛馬の売買をする人)の父親が牛を連れて、田辺への道を始終往復したものだという。「牛に草鞋履かせて、それも途中で破れるから替えを持って行くわけよ。人間の足元は少々ほころびてもかまへんけど、牛の草鞋が破れたらえらね。」なるほど、こういう道なら牛も、あの大きな図体で足を痛めるわけか。

 牽いて行くのは一頭だが、十足ほどの履き替えを持って行ったという。それを編むのは馬喰う自身。それぞれの牛の足に合わせて分厚く大きく編んだのを爪にしっかり挟み、紐を後ろにまわして結わくのだと言う。一頭づつのお誂えとは!靴なら銀座よしのやの誂えか、さしずめ外反母趾用の特注か。

 子供たちはめいめい履物は自分で編み、雨降りの登校には、濡らしてはすぐ破れるからと藁草履を懐に入れて素足でぱーっと走ったというのに。子供の仕事は、藁を編みやすくする藁打ちと餌用の藁切り。

 群馬県、長野県など養蚕の盛んなところでは牛の代わりに「おカイコ様」が人間より大切にされたのであろう。軍隊でも「馬は高い」と大事にされたが、「人間は一銭五厘でいくらでも補給できる」シロモノでしかなかった。関東では嫁を牛と言うところもあったとか、熊野の牛同様労働力としては貴重だったのか?

 今、国道が通る本宮?田辺は約六〇キロ、そこを縫うように、上り下りがきつい紆余曲折の道のりは、最近でこそ「熊野古道」と脚光を浴びて大勢が部分的に歩くようになったが、当時は未整備でさぞ難儀な道行だったに違いない。所用で田辺に行くには、夜明け前に家を出て日の落ちる前に着くのがやっとだったと聞いたが、人間は一日行程でも、牛を連れては、途中で一泊。牛も草鞋を解いて足を休めたのであろう。

 牛への手間暇は草鞋にとどまらない。角には綺麗な布を巻き、背中には筵などで立派な覆いを被せて装ったという。保温や日除けも兼ねたであろうが、何より見栄えがして綺麓なもんじゃった、そうだ。

 当時田を持つ限り、牛のない農家はなかったという。牛が人間以外の唯一の動力であった。今、車がないと、ここらでは暮らせんのと同じや、とかつての馬喰の息子は言う。馬喰は車のセールスマンや。新型が出ると、まだまだ走る車でも、買い換えたがるのがいるやろ、そんなんが、いいお得意さんなんよ。とことん動けなくなるまで使いきる農家も、いずれは買い替えにゃならんし仔が生まれるとそれを売る…客が途絶えることはないんや、と。しかしキャリアカーに載せて行くのと違って、売り物を歩かせ、餌を与えながら運ぶのは、神経を使ったことであろう。

 牛の市もあちこちで賑やかに開かれたらしい。本宮町の庁舎(今、行政局)がある所もかつての牛市の跡地で、市がすたれてからは子供たちの溜まり場だったという。平地で屋根もあり、手綱をくくりつけた柱や柵にもたれて相談ごとをしたり、何かと集合場所にしたものだ、と牛市の実態は見たことがない世代も懐かしがる。

 山の雑木が萌え出して代掻きが近づくと、馬喰の足元も活発になったに違いない。

 装ひし牛の旅路の春熊野

コメント
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