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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(19)**<2006.3. Vol.40>

2006年03月04日 | 熊野より

三橋雅子

<「水のショック」大訂正>

 訂正といっても熊野の水のことではない。第23号(2003年3月)の<水のカルチャーショック その2>に書いた、旧満州、新京市の水のことである。生水は飲めなくて、私がいつも外出時には水筒を持って歩いたこと、引き揚げてきて、水道の蛇口から直接生水を飲んでいる級友達に驚いたものだったが、それは「今は昔の」よき時代だったこと、その内他の水も、今や…という嘆きを書いた。「かつてはきれいだった内地の水」の悲しい末路は誰もが認める所であろうが、「新京の水」に関しては大間違いだったらしいのである。らしいというのは、これを指摘したのが8歳上の姉で、幼かった私より遥かに確かな記憶であろうということ、驚いて13歳上の姉にさらに確かめると、彼女も生水は直接飲んでいたというのである。慌ててネットで、当時の新京事情を探してみたが、今のところ残念ながら水に関してはみつからない。

 「間違い」の発覚が遅れたのは、彼女達にこの「みちしるべ」を送っていなかったためである。唯でさえこんな所へ引っ越すことについては、その年して大丈夫?という危惧の念で相当に心配しているらしい所へ、こと細かな熊野事情を知らせては、老体の彼女達を気遣わせるかとためらわれたからである。最近、大正8年生まれの兄が亡くなり、葬儀や法事で顔をあわせた機会に当然、中国大陸のあちこちで生まれ育った兄姉達の思い出話に花が咲いた。私が熊野の水を自慢して、かつて生水は飲めなかったでしょ、今では東京も、と言った。その時に異論が出なかったのは皆認知症の兆候か?やや経って電話があり、新京生まれの私が変なことを言っていた、というのである。「だって、新京の水は世界一良い水と言われて、大陸ではありえないような“生水オーケー”だったのよ」という。じゃあ、私の外出時の水筒必携はなんだったのか?「そういえば年中水筒持参だったわねえ、それはあなたが所構わず、咽喉が乾いたを連発してうるさかったからよ」と言われてしまった。私にとって、外出は絶対水筒と切り離せなかった(よく、走りかけた馬車を呼び止めて、ボーイが水筒を持って追いかけてきた)し、外でものを口にすることは硬く禁じられていたから、「生水の禁止」と結び付けてしまったのかもしれない。記憶の曖昧さと思い込みの恐ろしさを思い知る。この大幅な遅ればせの訂正を謹んでお詫びします。

 それにしても、あの席で言うてくれれば…。少しボケが?いや、この姉は昔からおっとり型で何でも一テンポ遅かった。反対に稀代の慌て者である私が大分前、自分の周り年になった時、この姉に「今年は猪、私もとうとう還暦迎えちゃった!実に早いねえ」と言ったものだ。いろいろしゃべって、じゃあ切るわ、と受話器を置こうとした時、やおら「一寸待って、少し変じゃない?だって八つ年上の私が、まだ還暦になってないのよ」とおっとり言うのである。「どうしてそれをもっと早く言ってくれないのよ〜」。もともと彼女はひとの話には割り込みをしないで、最後までじっくり聞くタチだった。私は一周り早く、還暦になったつもりでいたのだ。道理で早いわけ、なんだか得をした気がした。その後12年して本物の還暦を無事迎え、だが誰も祝ってくれないので、私は自分で柚子の苗を買って植えた。「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十八年」と聞いていたから、(もっとも最後のは眉唾ものだが、いずれにせよ)柚子が実を付けるまで生きているかどうか?と思いつつも、引越しには大事に持ってきて移植した。かい主に似てかせっかちに、かつ小粒の実を十年足らずで付け始めた。

 来年は猪だから、早6回目の周り年を迎えるわけで、とするとこの間違い還暦騒動は二十数年前のことになる。

 新京市の水の話に戻って、私はまだ腑に落ちぬこともあり、念のため大正11年生まれの姉にも訊いてみた。

 「そりゃア煮沸なんかしないで生水を飲んでたわよ、何しろ新京の設備は何もかも東京の比ではなかったんだから。大同大街が56メートルあったの知ってる?私は水洗トイレしか知らなくて、修学旅行で東京のトイレには困ったわ。だから世界一良い水を作る設備があっても不思議じゃないわね」と、一気に切れ目がない。話は延々と続いて、ちょっとちょっと、こっちから掛けてる長距離なのよ、と言いたいが、八十台半ばの一人暮らし、古いことを思い出すおしゃべりは何よりの老化緩和法と思い直して、私の知らない情報に耳を傾ける。たまには顔見せしてもいい東京までの旅費、と思えば安いものだ。

 そういえば、「あの新京駅から続く大同大街は広かった。信号はなかったから急ぎはしないが、渡りきるのに大変だった。56メートル合ったとは、あの遠さは、足が小さかったせいではなかったのだ。

 「それに豊満ダムが出来て、あの電力の豊富だったこと!」と彼女は続ける。これは私の同級生のお父さんが最高責任者で作った発電所で、やはり姉と同級だったお姉さんと姉はいまだに親交があるらしい。余談になるが、この豊かな発電ダムの技師、本間氏は日本人の引き揚げがすべて終わった後も、中国側の要請で残された。ダムの管理が当時の中国では無理だったのだろう。この「豊満ダム」に因んで豊子と名づけられた私の同級生も父親と一緒に残り、引き揚げて再会したのは、ずっと後50年代だった。今思うと彼女の誕生がこのダムの完成後か、少なくともダムの命名以後だとすると、このダムは昭和10年以前の作ということになる。そんなに早かったのか。

 以来電力はあり余って、なんでも、いくらでも使えということだったらしい。我が家も動力とやらを引き込んで、暖房は全館スチームのラヂエターであったが、それに加える炭のコタツは電気になり、火鉢は電気ストーブに変わった。お風呂まで電気で沸かすようになる。お蔭で私は、内地では電気が一番高くつく熱源だということが容易に理解できなかった。馬鹿でかい板みたいのものにニクロム線が巻きつけてあるのをお風呂にじかに突っ込む。母は使用人たちに、この何百ボルトもの電気が如何に恐ろしいものか、コンコンと使用時の注意を説いていた。母には苦い経験がある。料理はめっぽううまい腕利きのボーイが、うちに来たばかりの時だろうか、ジャージャー音を立てている中華なべを片手に、真っ赤になってガスの火をフーフー吹き消そうとしていたという。母は彼の息がもう少し強かったら…と安堵の胸を撫で下ろし、他の皆はお腹を抱えて笑っていたが、私には何故それがおかしいか分からなかった。ケーキのろうそくだって、息で吹き消すじゃない。

 電気で沸かしたお風呂の湯加減を見るねえやが、電源を切った後しばらくボーっと突っ立っていた。母が何してるの?と訊くと、今切った所なので、電気が逃げるまで待っているのです、と答えて、これにもみんなが大笑いした。私には、この時も何故おかしいのか分からなかったが、今だって私は、怖くてすぐに手を突っ込む気にはならないのではないか、と彼女に同情する。

 脇道に次ぐ脇道で長いお詫びの稿になってしまったが、おっちょこちょいのまま古稀を迎えてしまった反省の弁である。

 年を経てかの大陸の春如何に

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『みちしるべ』熊野より(18)**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 熊野より

三橋雅子

<こうして友達が増える> 

その二 拾われた「地元のおばちゃん」

 ある日、南高梅で有名な旧南部川村(みなべがわむら)で澤地久枝さんの講演会があるというので、バスと紀勢線を乗りついで出掛けて行った。震災前、芦屋で彼女の講演を聴いて以来、お元気なのだろうか、かなり重篤な筈の心臓病はどうなのだろうか、という気がかりもあった。南部町と合併する前の、このちっぽけな、人口7千人足らずの村の、村として最後の催しだというのにほだされたこともあった。南部(みなべ)駅に降りて、バスを待つと時間に間に合わないので、たかが3キロ余り歩くことにする。しかし気楽な散策をして方向を間違ったりしていては遅刻する。途中で確認をしようかとキョロキョロするが、車はたまに行き交うが人っ子一人出会わない。やがてスーッと車がすり寄ってきて、こちらが道を確認しようかと思っているのに、〇〇に行くのはこっちの方向でいいんですか?と訊く。またか、と思わず苦笑。私は道を訊かれる名人なのである。初めての土地だろうがお構いなし。息子と一緒に歩いていたら、ほんとによく訊かれるんだ、時間が掛かってしょうがないとぼやかれるほどである。時間を気にしながら一生懸命こいでいる自転車まで止められるのでかなわない、とは思うものの、せっかく呼び止められるのを無碍にもできない。しかし、稀代の方向音痴、間違って教えたり、知らないからとすげなくしても、と地図を持ち歩くことにしていた。地図を広げて「今ここですから…ええっと」なんて一緒に探すことになるから、余計時間が掛かる。今回も「この土地の者ではないので…」とは言ったものの、あらら?その〇〇は私が行く所ではないか。「知らないんですけど、私もそこへ行く所で竜神行きのバスに乗るつもりだったから、あそこに竜神方面の標識が出てるからこの道で大丈夫のはず」と言うと「じゃあ、乗りませんか?一緒に探しましょう」というわけで、私は道問う人に拾われ、軽トラックの助手席に座った。彼女は「こんな所を歩いているのは、てっきり土地の方だと思った」と苦笑している。本宮からだと知ると余計驚いて、何時に出て来たか、などと感心している。彼女は私がバスから列車に乗り換えた田辺近くの町。折しも市町村合併問題が沸騰している最中。彼女の居住地を聞いて私は思わず「わあ、すごい!と叫んでしまった。そこは、本宮と共に新田辺市に合併が殆ど本決まりだったのが、ごく最近、合併協議会から離脱したのであった。住民運動の成果?すごい快挙!と私が羨ましがるのを、彼女は苦笑の面持ちでいきさつを語る。合併急先鋒の町長は、この町が地理上も町の大きさ、実力から言っても、他の小四町村をつなぐ要のような位置にあり、この町ぬきの合併は考えられないような状況を踏まえてか、その町が抱える財政上の難問題を強気でごり押ししようとした。これが通らなければ離脱する、という脅しにも似た強気が裏目に出て、それなら離脱したら?とおっぼり出されたも同然の、まさかの離脱となったのだと言う。どんなことになるのやらこれからが大変、いずれ無条件で入れてくれ、と泣きついていくのでは?と言う彼女に、でも、単独で行かざるを得なくなったのは何といってもラッキーな話、合併反対の運動は、ここまでに息が切れてしまうのだから…と話は弾んだ。

 帰りは当然、田辺駅まで送ってもらうことになったが、その前に一寸寄り道を、と目指すのは自然食品の店、私もなかなか行けないで買いたいものがある絶好の所。店の主人はタマの私の顔も覚えていて、二人を見比べて「あらーお知り合いだったんですか」と驚くと、彼女は「さっき、ほんの数時間前からのお友達、ねっ!」といたずらっぽく言って、楽しそうにいきさつを語る。その、わずか数時間の知己に彼女は田辺駅まで迎えに来た連れ合いの車を先導してみかん農家の自宅まで案内し、自作の甘夏をダンボール一箱、車に放り込んでくれた。その後も彼女は、知人に紹介してくれる度、必ず出会いのいきさつを語るのである。「だって、あんな所をトコトコテクっていたら、誰だって地元のおばちゃんと思うでしょう?」こうして初対面の人にも、私は、ミナベをトコトコ歩く変わった人、と印象付けられてしまうみたい。

 肝腎の澤地久恵さんは、思ったよりお元気でますますの意気軒昂、しかし体調は思わしくないそうで、いくつもの予定の講演を断り、どうしても義理を果たさなければならない、この、ちっぽけな村での講演だけは、という律儀な彼女の思いを込めての来村だと言う。話は何でも壮大な、遠くロシヤの、ひょんな関わりの知人が、この村から受けた恩義に報いなければならない借りがあるのだという。何で、こんなちっぽけな村に彼女が講演に?という私の疑問が解け、この村が以前からシコシコと紡いできた文化活動の奥行きを垣間見る思いであった。朝日新聞、週刊金曜日などへの常連投稿で有名な、また戦争体験の出前語り部でも広く飛び回っておられる本多立太郎氏が、比較的最近大阪からこの村に、血縁のない家族を構成して居を定められておられるのも、うなづける思いがする。

 澤地氏を含めた「九条の会」発足以前の話ではあるが、当然論調は厳しく、芦屋での講演を上回る激しさであった。情勢がそれだけ厳しくなったということか。

 厳しくなったのは社会情勢だけではないような気がする。年内に紀南でこんなに雪が積もるのは珍しいという。お風呂からは日暮れ前に帰るようにしているが、先日は温泉を出ると大粒の雪が舞っていたのに、湯壷で茹でていたさつま芋をもう少し…と欲張ったお蔭で四時を少し廻ったろうか、果たして最後のトンネルを抜けて危ない橋を渡り、急斜面のカーブを一つは突破したものの、この先いくつもの、ますますひどくなる難所は無理か?と締めて、公民館前に車を停めて雪道をトコトコ歩く羽目になった。何しろ干し芋にする茹で芋大袋を二つと風呂道具を背負っているから手をつなぐどころではないが、雪を蹴散らしての約二キロはなかなか楽しかった。

 振り向けばふたりの来し跡雪の道

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『みちしるべ』熊野より(17)**<2005.11. Vol.38>

2006年01月14日 | 熊野より

三橋雅子

<こうして友人が増える> 

その一 裸で始まる付き合い

 雨に閉じ込められていると、全く人に会うこともない。帰省していた息子が「あっ、三日ぶりに人間見た!」と叫んだ。と言っても川向こうに、小止みになった雨のけぶる中、朧に人影が見えるだけ。あれはきっと隣のアンちゃん。

 お風呂は唯一、人間に会い、しゃべり、お湯に漬かっているだけでも情報が耳に入る場所である。しかし、夏は、暑くて畑に出る気がしない日中、冬も日が落ちかかると急に冷えてくるその前に、となると終始たった一人で広い湯船を満喫することになって、おしゃべりとは無縁、番台のおっちゃんに顔パスの挨拶をするくらいである。それでもどうしてこんなに知り合いが増えるのだろう。ここへ来てからの住所録は滅多に追加はあるまいと、従来のまま片隅に和歌山版を作っておいたら、たちまち溢れてしまった。

 まだ合併前、この小さな町の小さな講演会に行った。かの大逆事件に関わる冤罪の犠牲になった、地元出身、成石兄弟の汚名を晴らす会という。寺の和尚が石川啄木の興味深い手紙などを細々と引用して熱っぽく語った。会ったような気のする人が遠目に見えた。先方も気になったらしく、会釈をしてくる。「どこかで会ったよねえ」「ええそんな気が…」「どこだったかねえ」「うーん、どこだったかしら」我ながら気の利かない、頼りない応答だとは思うが、相手はこちらより若い。どうやらこちらの認知力が怪しくなってきたわけでもないらしい、と少し安心しながら記憶を辿る。「そうそう、お風呂、お風呂だ!」

 殆ど同時に両方から叫んで、思わず笑ってしまった。お互い相手の裸を思い返すことになる、少し照れくさい笑い。思えば、赤が似合う人だったとか、素敵なスラックス、とかいう、服を着た姿が思い浮かばないというのは、かなりの情報不足なのだということに気付く。ほんとに、生身の裸身しか頼るものがないのだ。

 お餅つきに声が掛かり、文字通り昔取った杵柄に腕を鳴らそうと張り切る連れ合い。「わあー、お久しぶり!」と抱きついてきた若い女性、そのプリンプリンの弾む肉体に圧倒され「はて?どなただったか?」と、怪訝な顔をする私に「お風呂、お風呂、私の身の上話を聞いてくれたじゃない!」にたちまち目の前の長ーい髪をざんぶざんぶと洗っていた姿と、見事なグラマー振りを思い出した。しかしその姿は大分楚々として、かのグラマーぶりはうかがえない。「少し痩せたのかしら?」「いいえ、ちっとも変らずよ」「そうかなあ、じゃあ着痩せするんだ、ずい分と。」

 私があまり納得の行かぬ顔でじろじろ見つめるので、やり取りを聞いていた男性群がニヤニヤし始める。どうも裸の付き合いから始まると、文明の衣服を纏われると戸惑ってしまう。そして顔の印象というのは、意外と薄いことに気付く。

 初対面の時彼女は、いきなり「Iターン組?」と訊いて来た。「そうだけど、どうして?」「臭いで分かる」に、お風呂でにおいとは老臭?とどきっとしたものだ。彼女は離婚して一人ふらりとやって来て住み着いたという。熊野は、過去を振り切って、山を見つめながら己の生き先を問うのに適しているのだろうか。ここは夫婦で住みつくより、こういう手合いの方が多い。夫婦ものは、先ずは奥さんが猛反対で付いてこないそうで、男性も大抵一人身である。己が「理想」を貫くのに伴侶の希望や願いを振り捨ててきたという、これもまた傷を待つ身であるのかもしれない。私が「奥さんは偉いねえ」とよく言われるのも道理なのか、でも私には別に我慢も妥協もないから面映い。私を知る知人からは「よくご主人が納得したわね」と言われ、夫の実家では「あまり我慢しないで、彼の我儘に付き合うのもええ加減にしいよ」と諭されるので苦笑してしまう。当地への移住に関して、夫婦の間には何の異論も議論もなかったから、我々二人が一致するのは、この終の棲家に寄せる想いの一点だけかもしれない、とまた苦笑の上塗り。それよりも、かすがいを全部なくして丸腰になってしまった今、三十数年ぶりに向きあう正味「二人きり」の関係を見直したり、修復(?)したりの作業を迫られる方がしんどいことかも知れない。それも、街の喧騒の中で雑音にかき消されたり薄められたりする機会もなく、神の国とか黄泉の国ともいわれる熊野権現のただなか、ただ杉と檜に囲まれて否応なし二人きりで向き合うすべしかないのは…かなりしんどいことかも。

 もう一人の中年の女友達は、まだ離婚には至っていない別居中に、ここで温泉宿の仲居さんをしながら身の振り方を考えている、と言い、まもなく決着をつける決心が付いた、としばらく留守をしていたが、やがて晴れて一人身になりました、と晴れ晴れとした顔で戻ってきた。自分の思いの決着だけで身の振り方を決められるのは、つくづくいい時代になったものだと思う、と思わず言うと、彼女は怪訝な顔をした。私と同世代の友達はかつて離婚の際、何事にも屈託がない「新しい女性」だったのに、「私、とんだ事しちゃったの」と、声をひそめてそっと打ち明けたものである。自分自身の傷以上に、世間の非難がましい目はまだまだ厳しかった。私は「離婚は女の勲章みたいなもの、と思って、胸張って歩けば?」と慰めたものだ。「私を見てご覧なさいよ、三十路半ばも過ぎて、まだ一度も結婚してない方がよっぽどしょぼくれてるわよ」なんて、今で言う「負け犬」は言ったものだ。「ハイミス」に向けられる世間の風当たりもまた強かった。子供を生まない嫁へのまなざしも厳しいものだったに違いない。当世の「負け犬」は多分に自嘲的な、屈折した心理も垣間見えるものの、そこには自立している女の、なまじの分の悪い結婚でキャリアウーマンの栄光をみすみす反故にするわけにはいかないという矜持が見え障れするように思える。己との対決だけで人生を選択できる、いい世の中になったものである。

 杉青きままに熊野の秋深む

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『みちしるべ』熊野より(16)**<2005.5. Vol.35>

2006年01月13日 | 熊野より

三橋雅子

<大阪弁の怪>

 遥か人里はなれて仙人語しか通じないかも、と危惧した当地より、関東の女(?)が関西のおのこと結婚した時の方が、よほど戸惑いが多かった。大阪の夫の生家を訪れた時、姑が気遣ってか、連れ合いに難波までの用足しを頼み、私にも一緒に行って来いという。出る時、門を閉めに送ってきたお手ったいさんが、「おはようおかえり」とお辞儀をして送ってくれた。初めて聞いたそのセリフを、私は反窮しながら「なるほど、早く帰ってこい」という意味だな、とうなづいて、「はい早く帰ってくるわね」といって出かけた。なんだか彼女がにっと笑ったような気もしたが、新婚の二人が出かけるのを彼女なりに冷やかしているつもりか、と気にも留めなかった。連れ合いは用が済んでもチャランポラン心斎橋界隈をぶらぶらして一向に帰る気配がない。挙句、よう通った店や、とコーヒー屋のドアを押す。私は、もう帰らなくっちゃ、○○さん(お手ったいさんの名前)が「おはようおかえり」って言ってたじゃない、としきりに言うが、彼は「かまへん、かまへん」というだけで一向に取り合わない。私は彼女の言葉が耳を離れず気なって仕方がなかった。家の中の事情に精通している彼女が、「大奥様の意向」をそれとなく伝えてくれたのかも知れないのに。これが、外出者を送り出す単なる挨拶語だ、ということが分かったのは、ずっと後のことだった。

 困ったのは、義姉があたふたとお針箱を使った後、「これ悪いけどなおしといて」と何処かへ行ってしまった。なおすったって、一体どこをどう直すんだろう、いろいろひっくり返してみたりするが、修理の必要な箇所も見つからない、見付かったところで、そんなもの直せるかいな、途方にくれた。頼みの網の連れ合いはいない。お手ったいさんの所へ行って、「なおせって言われたんだけど、どしたらいい?」彼女はニコニコと手を拭き拭き、お針箱をボンと筆笥の上において、おしまい。「ほんとにこれでいいの?」私はあっけにとられてしまった。

 姑に「これほうって」と紙にくるんだ物を渡された。どう見てもゴミっぼい。捨てるらしい、とは想像がついたが、待てよその前に「これほかして」と頼まれて、捨てることと見当がつき、それでも確認して捨てた覚えがある。「ほかす」は捨てることに間違いない。とすると「ほうる」は違うかもしれない。

 捨てるのはいつでもできるから早まってはいけない。歯が抜けた時、上の歯なら二階から、下の歯の時は下から屋根に向かって思い切り投げたものだ。これもそんな類のものだったりしたら…。私は姑に向かってポールを投げる格好をして首を曲げた。姑は笑って手を振り、コミ箱を指した。やっぱり「ほかす」と「ほうる」は同義語なのか、微妙に違うのか?いまだにわからない。

 義兄に「隣で一輪車かってきてくれへんか」と頼まれた。えっ?一輪車ってどこで売ってるんだろう?お隣にそんな金物屋みたいな店あったかいな?ま、大分先でもお隣さんらしいから行ってみるけど、お金も渡さんと気安く買ってこいなんて…、私の持ってるはした金で一体買えるのかしら。自信なげに怪訝な面持ちで立ち上がる私を見て、さすがにこの時は連れ合いが助け舟を出してくれた。「まさか銭持ってこうてくるつもりとちゃうやろな」そのまさかよ!そうだ、銭の要るのは「こうてくる」で銭の要らないのが「かってくる」となんともややこしいことだったことをウスウス知っいたのを思い出したが、とっさには頭真っ白でそんなナマ知識はどこかへぶっ飛んでいた。

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『みちしるべ』熊野より(15)**<2005.3. Vol.34>

2006年01月12日 | 熊野より

三橋雅子

<太郎と次郎>

 南極物語の、けなげなタロとジロの話ではない。どこどこんちの息子さんの話をしていたら、あれは次郎でな、と言う。太郎は大阪に出よって…、また別のお宅の話の時、あそこも次郎でよ…。私は、そそっかしいから「このあたりは太郎さんと次郎さんが多いんですねえ」とそれも合理的でいいかもしれない、と我が家の五人の息子達の命名には、少なからず気が揉めた事を思い出して思った。○太郎と×太郎と付けた上の双子が、三男の命名の時はどうしても桃太郎と付けるのだ、と二人が結託して強硬にがんばるのをなだめるのに苦労した。小さい時、旧満州で隣にお金持ちの中国人が住んでいたが、二階から屋敷がコの字型になっているのが見えて、本妻、二号さん、三号さん…が住み分けているのだと聞いた。いつも子供達が中央でうじゃうじゃと遊んでいて、学校にはどの学年にもその張さんが二〜三人ずついて、イー、アール、サン、スー…という具合に通し番号が付いていた。私の学年にはチーとパーがいる、という風に。あれも合理的か。しかしスーの子供のウーとリューが…なんていうのもややこしいか。

 「太郎」といえば昔、疎開の歌というのがあった。「太郎は父のふるさとへ、花子は母のふるさとへ…」という歌を歌っては悲しくなったものだ。空襲に無縁な満州で、疎開は文字通り他人事に過ぎなかったが、家族と別わて馴染みのない土地で暮らすなんて…と思うだけで、どうしようと悲しくなるのだった。おまけにひもじい思いをし、街の子と言われていじめられ…と戦後どれだけ、辛かった疎開の思い出を聞かされたことか。しかしこの歌は短調で如何にも物悲しく、威勢のいい戦争歌とは程遠かったから、たちまち消えたのだろうか。これを知っている人に会ったことがない。

 私の勝手な妄想を振り切るように、目の前のじ様は、ちゃうねんちゃうねん、と手を振っている。まあ言うてみたらなあ、太郎は最初に生まれ総領や、次郎は次男坊や、なーるほど、とすると熊野の作家、神坂次郎さんは次男坊って言う名前か。

 それでもこのあたりは、鉄道距離、道路距離はどこからもメチャクチャ遠い割りに、言葉の「遠さ」で困ったことは殆どない。古来「蟻の行列」といわれるほど熊野詣の往来があったというだけに、言葉の往来も比較的流動的だったのだろうか。いわゆる「田舎の排他性」も私たちがこれまであちこち流れて経験してきた中で一番希薄であることを感じる。超過疎ゆえの人恋しさかと思っていたが、脈々と流れる根強い排外意識は、そのような一時的な現象で帳消しにされるような生易しいものではないはずである。これまでの地で私自身が受けた、不快な「よそ者扱い」の経験は乏しいが、ひとの、よそ者いじめの被害現場は嫌というほど見てきた。それを見て、ああ、私もきっとこんな風にされたんだろうけど、と思い当たることは何度かあった。鈍くて感じなかったに過ぎない。あるいは、どうして?どうして?と知らぬが仏で詰め寄ってことを通してきたきらいもある。古来熊野は何でもありで、神も仏も何でもおわします地、人々が悩み、病苦を抱えて足を引きずり辿り着く地、それをまるごと受け入れ、人生いろいろ、ひとさまざまを付け焼刃でなく、代々つぶさに眺めてきた人たちなのかも知れない。知らぬこととはいえ、ありがたい地に来たものだと思う。

 果てなしの峰や幾重ぞ春熊野

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『みちしるべ』熊野より(14)**<20050.1. Vol.33>

2006年01月12日 | 熊野より

三橋雅子

<熊野タイム>

 沖縄に永いこと住んでいた息子が帰省の折、何事ものんびりになって時間の約束がルーズなのを他の息子達に咎められる。私も内心、そんな風に育てた覚えはないが…と不満だが、本人が言うには、沖縄タイムというのはこうなんだ、何時集合といってもおよそ、そのくらいに行けば良いので、一時間や二時間のずれは誰も咎めないんだという。真偽のほどは分らないが、飲み屋が明け方までやっていて、夜の十時は、飲みに行くにはまだまだ早い、というのは本当らしい。時間に追われてあくせく働くことのない土地柄ならありそうなことか、とも思う。ここ熊野も、時計要らずの、お天道様の出具合、隠れ次第で暮らしが廻っていることにかけては人後に落ちない場所のこと、沖縄タイムに劣らぬ熊野タイムがあろうかと、密かに楽しみにしていた。ところが、あにはからんや、ここでは会合に定刻に少し早め、のつもりで五分くらい前に着くと、大抵皆勢揃いしていることに驚く。一度など、送ってくれるドライバーの都合で開始時間三十分以上早く着いたので本でも読んで待とうと会場近くまで行くと、驚いた事にほぼ全員揃っているではないか。時間を間違えたかと思ったが、さにあらず、皆熱心に世間話をしている。定刻になって初めて司会者が、では始めよか、となる。従って会合は大体定刻には始まる。その前のおしゃべりは、重要な情報交換の時間とみえる。皆暇人ばかりだから?これもさにあらず。田んぼが終わらんでのう、日が落ちるまでは勿体のうてなあ、欲張って遅うなって、ようやっと飯かっ込んで来たわ…と、せわしなく駆け込んでくるのもある。まだまだ時間はあるのに、ゆっくりご飯を食べてくればいいのに、とついこっちは余計なことを考えるが、皆律儀で大真面目なのである。見回すと、大体五分前くらいに、遅うなったという顔もせずに入ってくる(当たり前だが)のは、Uターン族かIターン族。従って、こういう雰囲気の中で遅刻して来る、というのは極めてばつが悪いものだ。Iターン族が増えて(その可能性はありそうもないが)マチの会合の常識を持ち込まないことを願っている。

 終わりも遅れることは先ずない。どこかの公民館か何とか会場のように、定刻までに片づけを済ませてとにかく部屋は明け渡して鍵を返さないと、とにかく出てください、話の続きはロビーで、なんてバタバタするのと違って、誰も留守番がいるわけでもなく、わがらで(自分達で)戸締りをしていくだけで誰にも気兼ねもないのに、大体は定刻ぴったりに、それには司会者が十分以上前には、そろそろ終わりの時間なので、何か言い残したことはないか、これだけは是非、ということはないか、とねんごろに促し確認してほぼ定刻には、ホナさいなら、ごくろうじゃったのう、と別れていく。極めて紳士的。

 地区の氏神様のお祭りで、十時からと言うので、早めに出かけて十分前に着いた。この地域を下りていった四〜五キロ先からも集まり、総勢十二軒、貴重な学童持ちの二世帯も含め家族連れで出てくるから、境内は日頃見たこともない二十人以上という大勢の賑わいで、皆チンとお行儀よく待っている。我が家がお供物(お米を一つまみ、おひねりにして供える)を上げ、拍手を打って拝み終わるや、ホナそろそろ始めよか、と区長さんの声。我が家を待っていてくれたのだと知って、遅刻したわけではないが、なんだか恐縮してしまう。最初に行事のお誘いを受けた時は、行事といっても、新年会とお祭りの二回くらいだが、顔出すも出さんも、好きにしてくれたらええんよ、なんも義理立てすることはないんよ、面白そうやったら来てみいや、と区長さんは繰り返し「自由意志」を強調してくれたのだ。もし我々が気が進まなかったり忘れてしまっても、ああしてみんなで待っているんだろうか。ちょっと気が重い。

 道普請と称する、一斉、共同の溝掃除、道路清掃がお盆前と暮れの年二回ある。公民館までの優に二キロ以上を三軒でクリアしなければならないから、私も及ばずながら出る。それでも皆仕事が早いから、二人で一人前になるかどうか?夏は七時、冬は八時の開始時間までの優に三十分前には、西隣二百メートル奥から兄ちゃん(といっても五十近いが)がスコップ、さらいなど道具一式を担いで通るではないか。ほらほら、ここではもう時間なんよ、と相棒を促すが、まさかこんな早うから、なんか用でもあるんだろう、と一向に動かない。用たって、ここで済む用なんか何もないじゃない、おしっこくらいしか。ほら、もうおしっこも済んだ頃だからいこいこ、とようやく促して出かけてみれば、案の定、数百メートル行けども人影は見えず、溝は木の葉一つなく、道もきれいに掃かれてしまっているではないか。まだまだ先のくねりを曲がったところで、やっと東隣の還暦過ぎの兄ちゃんと二人を捉えることが出来た。挨拶するにも全く間が悪い。やがて、少しは人手の多い下から上がってくる一行と出合って、いやいや二人で出てくんしゃったか、とねぎらわれ、私達やっとこ半人前ですから、と少しいい気持ちになって終了となる。

 思うに日頃、時計に束縛されない生活をしているから、時間を指定されると、律儀なだけに落ち着かなくて早め早めに出かけてしまうのだろうか?この熊野タイムも、どこまでの範囲のものか、ほんの本宮町界隈だけのことなのか分らない。いささか気の揉める習慣である。

 冬至越え杉に去る陽もやや遅れ

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『みちしるべ』熊野より(13)**<2004.11. Vol.32>

2006年01月12日 | 熊野より

三橋雅子

く野辺送り〉

 隣のおじいさんが亡くなった。93歳の老衰。3年前われわれが越してきた時には、かくしゃくとして急な石段を昇り降りし、まなざしの光も鋭く、若き日々の精悍さを髣髣とさせるものがあった。ここしばらくは坂と石段がしんどくなって平地に下りておられたが、意識は最期までしっかりとして、息を引き取る寸前までお孫さんと会話を交わしていたという。大往生と言うべきであろう。葬儀は、もはや土葬ではないので墓穴堀の人夫も不要、万事簡素になって以前に比べれば大層手間ひまはかからなくなったとのこと。それでも明日は朝から準備が始まるという。七時集合。常時五時や六時に起きている習慣の人達には当たり前の時間らしいが、こちら、五時に起きて畑を耕すこともあれば、朝のまどろみが快適な時はすっかり日が高くなるまで、うだうだトロトロしていることもある、気まぐれの怠け者にとっては、とても自発的にきちんと起きられる自信はない。久々に目覚ましをかける。どんな労働が待っているかも見当も付かず、しっかり朝ごはんも詰め込んで行かなければ…。

 集会所まで約二キロ、爽やかな山の朝の冷気を吸って軽いジョギングで…と行きたい所だが、眠たがる連れ合いのお尻を促すので精一杯、不本意の軽トラに飛び乗ることになる。珍しく大勢の凛々しい姿で賑わう集会所。本来ここの集落は7軒、中腹まで下りて行った、かつての住人五軒を合わせて十二軒が、氏神様の掃除当番やお祭り、年二回の道ぶしんと称する道掃除や溝さらいを共にする栗垣内(くりがいと)地区を構成しているが、今回は亡くなったおじいさんにゆかりの、平地の人々が助っ人に登って来ていた。

 男衆は、ナタやノコを腰に、祭具用の竹や木々を切り出しに裏山へ、あるいはしまってある共有財産の祭具などを持ち出しに。連れ合いが、物珍しいものに気を取られて足を止めることなく持ち場に向かったかを確かめて私は女衆の仕事場に。ここもやはり祭具作り、色とりどりの布を折ったり切ったり細工をし、縫い付けたりする。こうやったかのう、いやああやった、と相談したり年長者にOKを求めながら、合間に故人の思い出やエピソードを語り合いつつ作業が進められていくのだった。ほんに、几帳面なお人やったからなあ、ほんまほんま、こんじゃあトミさん(故人)は怒りはるわなあ、成仏でけん言うて…、やり直しやわ、と大笑いしながら進めていく。なるほど、こうして皆で故人をしのびながら、野辺送りの支度を整える時間の中で、故人が確かに故人になってしもうたことを胸に落としているんだなあと、納得できるのであった。

 「さあ今度はお花作り」の声で、次の仕事にかかる。おはながみという薄い薄い紙で、きれいな花を作って、男衆が伐ってきて細工した木にくくりつけていく。送り道に花を咲かせる、ということか。しかし老婆違がいとも簡単に仕上げていく、この麗しい花を作るなんて…たださえブキッチョな私の手にはとても負えない、と思案していると、してみいよ、簡単だから、と促されて、恐る恐る、手順を見ながら挑戦する。確かに見た目ほどには難しいものでなく、何枚も重ねた薄紙の魔術で、少しくらいの出来損ないでも花びらを自在に整形して美しく仕上がるのであった。第一作を何とか作って、やったーこんなきれいなのが…皆にも上等上等と褒めてもらって、糸を付けて木に咲かせる。白と赤を交互に作っては結わき、花の木は見る間に賑わっていく。小さい時の工作の楽しさを思い出すひと時だった。

 墓までの野辺送りには、近親者に抱かれる遺骨、遺影の後に、何やらの何とか、なかなか覚えられない名前の幟や花の木その他皆で作ったたくさんの祭具とその持ち手が延々と読み上げられる。到底親族だけでは納まらず、区長はじめ近憐の人達にまで及んでくるが、あれあれ、新参者のおらが亭主まで名前を呼ばれているではないか。案の定いわれた持ち物などどれのことやら分るはずもなく、そこらの人に面倒見てもらって神妙になんやら持たせられている。こうして準備が整うと、墓までの坂道をゆるゆると長い長い行列が進んで行く。澄んだ空に色とりどりの幟が翻り、野辺送りとは死者が自然の懐に帰っていく美しい光景なのだと思った。トナリのおじいさんも、あの熊野の山の奥深くに安らかに眠りに行くのだ、と私の胸にもすんなりと落ちるものがあった。

 秋の山 野辺の送りの花咲かせ

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『みちしるべ』熊野より(12)**<2004.7. Vo.30>

2006年01月11日 | 熊野より

三橋雅子

<合併問題署名のその後>

 前号に市町村合併に関する署名活動のことを書いてしまった以上、気の重いことではあるが、その後の報告も書かねばならない。

 住民の半数近い署名を得たにもかかわらず、我が本宮町議会は、住民投票条例制定の直積請求を10対3で否決した(5月11日)。これには紀伊民報(兵庫民報の姉妹紙に非ず。和歌山の最もポピュラーな地域紙である)もかなり強引な押し切りだと、非難の論調であった。今後どうするかの集会では相変わらず老人パワーは、ムシロ旗引っさげて町役場に乗り込まにゃあ、と意気盛んではあったが、果たして何人が参加できるか、100人が座り込むなら多少の効果も望めるかもしれないがチョボチョボでは…と実現不能に終わり、ひとまず「合併問題を考える会」は解散となった。もう一息で議会に合併を考え直させることが出来なかったのは、森林組合はじめ小さいとはいえ商工会や青年会といった町の各団体を巻き込むことが出来なかったことであろう。八十過ぎの爺さんたちの正論と足取りと実行力は頼もしいものだったが、いくら老人人口比が高い(65歳以上37.3%)地域とはいえ、それだけでは町を動かすには至らなかったのである。負け戦には慣れっことはいえ、「がんばった」老人たちの純粋な気持ちを無にする結果になったのは、やはり辛いものがあった。しかし、負け惜しみでなく、この運動の波及と影響力のすごさは驚くほどで、県内はおろか他県からも殺到する問い合わせ、ノウハウ伝授の要求に代表は悲鳴を上げたほどである。野次馬かと思いきや、現にあちこちの町村で合併推進も含めて住民投票を実現させ、首長の決定を覆したり合併協議会から離脱するなど、このところ異変続出である。

 今成り行きの如何が注目を浴びているのは、龍神村の署名集め(住民投票請求)が有権者の過半数はとうに達成しているのに、まだまだ止めずに数を伸ばしていることである。われわれの単独、短期決戦の失敗の轍を踏まないように、各層を巻き込み、よそ者・移住者たちのかあちゃんパワーも花開いている様子。この3月の「合併待った!」の集会では、「どないしたらいいか分からんへん」と何もせず手をつくねている状態だったのに、である。つい最近の紀伊民報は、龍神村の町長が出入りの業者に、合併反対運動から手を引かなければ取引を打ち切ると脅した、と第1面トップで報じた。ここでは村が合併をする時は、村から離脱しておらが字だけでやっていく、と既に宣言していた地域もある。万一この龍神村全体が合併から抜けるような事態になったら、「本決まり」となったかの、わが町が属する合併協議会は、ハナから協議事項つき合わせのやり直しとなって、来年5月の新市発足も大幅に遅れることになる。遂には合併特令の飴玉がもらえる「恩恵」の期限切れになれば…は希望的観測に過ぎるか。

 いずれにせよ各地で右往左往が収まらず、全国でも合併の実積は一向にはかどらないのは、中央が財政破綻打開に多大の望みを託して号令をかけた平成大合併が、中央にばかり向いている県の更なる号令にあたふたする、末端の当事者たる弱少市町村に、如何に無理を押し付け、困惑と混乱とを惹き起こしているか、ということの現れであろう。そして多くの行政は、おらが町や村が無くなるくらいなら、どんなに貧しくてもみんなでがんばろうや、という住民の悲哀の心情と意欲を切り捨てようとしている。その証拠に、山添村(奈良県、人口5000強)など住民の意向を尊重した自治体は、自らの手で何とか生き延びる手立てを模索し、そのめどを立て、合併を跳ね除けて生き生きと単独行の道を歩み始めている。実際、合併特例債という目先の「飴玉」でハコモノを作り、いずれ多大な借金で押し潰される羽目になるのは目に見えている。鞭と飴で迫られている合併は、どうやら実態は鞭と鞭に過ぎないようである。

 ささゆりや町花の命いくばくか

(ささゆりを町花と定む町に住み、とここに載せていただいたのは、ついこの間のことであったが)

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『みちしるべ』熊野より(11)**<2004.5. Vol.29>

2006年01月11日 | 熊野より

三橋雅子

〈山姥署名に走る〉

 平成市町村大合併の嵐が吹き荒れている中、ご多分に漏れず我本宮町でも、「合併することの可否を住民投票に付するための条例制定請求」の署名活動が始まった(この趣旨の署名は県下初めて)。署名活動には積極的にはなれなかった私も行きがかり上、重い腰を上げることになる。ここまで来て署名活動に加わることになるとは!藤井隆幸氏の「日本国中どこまで行っても同だよ」の声がまたしてもよみがえる。

 まず我が家の周辺から、となると隣へ200メーター以上、あるいは石段をよいしょよいしょと登って大声で叫ばなければならない。3回呼んでも応答なしでは留守かな、ときびすを返そうとすると、なんじゃえーと薄暗がりから腰を曲げたおばあさんが出てきたりする。新興住宅地の、びっしり隣り合ったドアからドアヘとピンポーンを次々鳴らしていくのとは勝手が違う。もっともあのピンポーンから、なまの顔を玄関に出させるまでの手間ひまとテクニックは容易なものではなかった。十中八九は押し売りへの対応よろしく、今手が離せないだの、うちは署名はしない主義!少し反応があって、そんなん専門家の行政にまかせとったらよろしいやん、とプツン。ここではいきなり顔をあわせてしまうから、何はともあれ、よう来ておくれだのう、ご苦労なことで、と先ずはねぎらってくれる。しかし今回のようなややこしい署名の趣旨を簡単に正確に伝えるのは難しい。しかし反応はよい。決して無関心なのではない。本宮町だけでやっていけたらいいのにのう、というのが全員の願いだ。町長も職員もその気持ちは同じだけど、それしか生き延びる手立てがないちゅうもんは仕方ないかのう…誰も60数キロも離れた、滅多行ったこともない田辺市なんかと吸収合併(事実上)を望んでいるものはいない。まして健康保険料も、年金から差っ引かれる介護保険料もめちゃくちゃ上がるっちゃ、つらいことよなあ…ごみ出しまで銭取られっつうこったら、そのうち川ごみだらけになっとよ。

 実は既に二年前、住民アンケート実施を要望する署名があって1200名分(有権者数3千ちょっと)が集まったにも拘わらず、町は重く受け止める、とのみでアンケートをせず合併を推進して来た。今、合併決定が目前に迫ったこの期になって締めムードになった中、八十過ぎの年寄りたちが、どうしても、このまますっこむ手はない、もう一度署名を!と言い出したのである。法定有効数は60数名(有権者の50分の1)ではあるが、1000はないと格好が付かない、到底無理じゃろうが…と背水の陣の気分で始まった。

 よそ者への抵抗もなく、すんなり書く気になってくれるが、それからが大変なのである。もう目が見えんよってあんさん書いてや、という老婆にも原則、代筆は効かないから、と一字一字指で指しながら書いてもらう。今回の署名「住民投票条例制定請求」となると選管がばっちりあら捜しをして、ばしばし無効にするそうだから、慎重にも慎重を期する。年寄りほど生年月日はばっちりだが、住所欄の番地が問題。何度も表を見ては確認するのでなるほど、と賢くなったつもりで、次の家で、じいちゃんがやはりぶつぶつと番地を反芻しているので、違う違う、と表札の数字を読むと、ちゃうねん、そいつがまちがっとるねん、には恐縮、余計なことを言ってしもうた。確かにここで、番地を書くことなどは、まずあるまい。ハンコがまた大ごと。たいていは箪笥の奥をごそごそ、多分通帳などの貴重品の在り処でもあろうかと目をそらせて梅など愛でたりしていると、ややあって逆さまに押しちまうから、ねえさん押してやー(まもなく七十になろうというのに、ここでは“ねえさん”なのである)。一行を埋める重さをずっしりと受け止めていとま乞いをすると必ず、これでもなめなめ行きや、と飴玉を握らせてくれたり、断っても缶ジュースだのグロンサンなどがポケットにねじ込まれてしまう。こんなに重い署名は初めて。老人で生年月日に戸惑うものはなかったが、生まれは24年や、というだけで後が出てこないツワモノに出会った。九十近いおばあさんが、自分のはすらすら出て来たが、あれはいつだったかのう、には息子の生年月日を知らないとは、と少し驚いたものだが、少しもぼけた兆候もない屈強な五十代本人の、自分の誕生日知らずには、いささか度肝を抜かれた。日常生活に不必要なものは一切関知しないという潔さか。さてどないしょう?と私は手立てが思いつかなかったが、さすがに婆ちゃんは知恵者、保険証に何もかも書いとるで、と。それから、その健康保険証探しが大変。箪笥から、鞄類、袋物と、大変な家捜しとなってしまった。

 この辺りで留守ということはめったにないが、家の中で捉まえられるのもまた少ない。畑で土の手を拭き拭き書いてくれても、ハンコを押しに屋敷に戻らねばならない。それからまた、婆さんやー、そこらに居るはずじゃがのう、とひとしきり婆さん探し。かくて半日かけて二軒で終わりもざら。早くも正午を知らせる童謡、今は「はーるの小川はさらさら行くよ…」が聞こえてくる。帰り道、もうあらかた開いてしまった蕗のとうが、日陰ではまだ、むくっと顔を出したばかり。今夜は蕗のとうのてんぷらにしよう。ついでに蓬も、アザミの若い葉も…次々に摘んでポケットは満杯に。邪魔なジュースの缶もあるし…たちまち入れ場所がなくなって、仕方なく署名の画板をお盆代わりに、てんぷらの材料を山盛り載せて捧げ持って帰る羽目になった。

 本宮町民の名誉のために付け加えるなら、山を少し降りて平らな集落に入ると、さすがに番地も生年月日もはんこもスラスラ出てくる。やはり我が家の周辺は、仙人か山姥の住処なのだ。こんなものは念頭になくても暮らしに何の支障もない。

 この署名、たまげたことに1400名を越えてしまった。県下初の署名、有権者数の43%、と紀伊民報の一面トップを飾った。集めた本人たちが一番驚いて老人たちの顔がつやつやしてしまった。しかし議会はやはりこれを無視、却下するのではないかとの見通しが濃い。年寄りの落胆を見るのはつらい。

 はか行かぬ署名に代わる蕗豊か

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『みちしるべ』熊野より(10)**<2004.3. Vol.28>

2006年01月10日 | 熊野より

三橋雅子

<山中道路事情>

 道路を塞ぐのは動物たちばかりではない。対向車が来れば少し脹らんだ所までどちらかが戻って、それでもぎりぎりにしかすれ違えない道で、時にでんと車が道を塞いで運転手の姿はない、ということもしばしば。ややあって、おーい、ごめんなあ、の声はするが、はるか山の上の方だったり、はるか下の川べりだったり、戻ってくるまでにはなかなかの時間が掛かるのである。それも駆け足で恐縮して戻るわけでもなく、顔見知りだったりすると、どこ行くねん、とか、何してたん、きのこでもあったんかとか世間話でしばしの時間が経つことも。ま、いいか、急ぐ旅ではなし。

 プロとてここに入ると町の常識から開放されるのか、宅急便車が、脇に寄せるでもなしがんばっていることもある。ここにある、とうことはあの、かなり上まで荷物持って石段登って、おばあさんからハンコかサインもらってくるのは大変だなあ、と同情が先にたってしまう。しばし人影ひとつ見えない。やがて、さすがに恐縮して、配達員がへっぴり腰で降りてくると、郵便屋と同じように、うちのはない?と訊いて上げる。もっとも留守をしても支障はない。ちゃんと玄関の中に(鍵はないから)置いていってくれるから、置きメモを見て電話する手間が省ける。サインはどうするんだろう?この間は外出した連れ合いが、まもなく戻ってきたので忘れ物?と思うと大きな荷物を運んでくる。途中で宅急便と鉢合わせしたから受け取ってきた、と。

 電線やちょっとしたエ事車などは、自分たち専用の道と思っている節もある。車が行くと、ここ通るの?などと不審な顔で、この奥にも人がいたのか、なんて仲間同士でほざいている。ちょっと待ってな、といいながら、悠々と切りがつくまで仕事を止めない。ま、いいか、急ぐ旅でもなし。

 温泉街で珍しく工事があった。通行止めの標識もなし突っ込んでいくと、大掛かりに穴を掘っていて、到底通れるものではない。脇に馬鹿でかい板があるので、連れ合いが「通る時はそれを乗せるンかいな」と問えば「そうじゃ、だが、ちっと待ってもらえねえか、も少ししたら、バスが来るから、その時はちゃんと通れるようにすっから」「もすこしってどのくらい?」「そうさなあ、もう30分でバスの時間だから、もちっとだ」。30分工事見物をしていても仕方ないので、今来た道を大幅に戻って別の道路に入る。迂回道路なんてものではない。ゆうに6~7キロは余分に走らせられた。ま、いいか、山道のドライブと思えば。

 我が家の前は回転場であり、バス停もある。最初見に来た時、「うわーバスが来るんだ。家の前からバスに乗れる!一日何回来るのかしら」と時刻表に顔を寄せて見ると、たった1行、水曜8時00分とだけ。週1かあ。それじゃあ、水曜を買い物日にしようかしら、なんて思っていると、これも利用者がいないので、とっくに廃止とか。しかし年度が替わると、もしかして新住民のためだろうか、この路線、復活となった。マイクロバスとはいえ、この道にはでか過ぎるくらいの「便利バス」というのがやって乗て、我が家の前でブーブーと何度も切り返してUターンをする。これで起こされることもあり、バスの音を聞くと、ああ、今日は水曜日だな、と気付く。畑などに出ていれば、運転手は降りてきて一服したり、どうだね、などと世間話をして、大幅に定刻を過ぎてからやおら、そろそろ行きますわ、と乗り込んでいく。どこでも二百円で、これに乗れば診療所や役場に行けるが、八時過ぎに出て帰りが十二時まで待たないとならないから、どうも「不便バス」でまだ乗る機会がない。ここから乗るものがいないから、復路のバスが上ってくることもなく、従ってバスが来るのは一回きり。

 一度、遠くから馬鹿でかいエンジンの音がして、そろそろと4トンかそこらのトラックが入ってきた。この先は軽ならいけるが乗用車もきつい、という隘路でしかも曲がっている。当然のことながら我が家の前で立ち往生。運転手は「この道抜けられないんすか」と困り果てている。連れ合い、「もちろんじゃ、しかし、ようここまで入って来たなあ」とあきれている。道路地図にはこの道すら載っていない。我家の引越しでも、2トンのロングがぎりぎりだった。「もう少し行ったら抜けられるか、抜けられるか、と思ってつい…」。やむなく連れ合いの誘導で十数回切り返して、トラックはまたそろそろと引き返していった。

 元旦に救急車がやってきた。我が家のさらに奥に一軒ある家のおばあさんが、意識不明になったというが、我が家の前で救急車はストップ。その奥には進めない。数百メーターを担架で搬送するということになったが、そのうちおばあさんが意識を回復した、と担架も不要となり救急車はUターンとなった。しかしおかしい、と皆は言う。以前同じ家の息子が、夜、寝ぼけまなこで外におしっこをしに行ってマムシに咬まれ、救急車がその時は入ったと言う。真相は、その当時の救急車はもっと小さかった、今のはでっかくなってしまったというのだ。貧乏な町が大金を投入して“整備”したものは、過疎町の最過疎地には役立たずになった、ということだ。早速、直後の新年会では、緊急時の、この地への救急車進入を可能に、との申し入れをすることになった、とのこと。

 それより気になるのは、一時とはいえ“意識不明”になった80半ば過ぎのおばあさんのこと。つい暮れには、山ほど作ったというこんにゃくを、食べきれぬほど持ってきてくれて御節に重宝したばかりの元気印だが、久々に訪れる孫子達の為に働きすぎ、皆に囲まれて、のぼせたのだろう、しばらくは床の中だろうか、明日にでも様子を見に、と思っていると、当のご本人が、よいしょよいしょと我が家の石段を登ってくるではないか。心配かけたのう、と、その背から下ろす物を受け止めるこちらが、よろけたほど。何と大根25本には、ほんにおったまげた。

 老婆なほ白き歯を見せ春ことほぐ

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