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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(28-1)**<2009.3. Vol.57>

2009年03月04日 | 熊野より

三橋雅子

《新しい住人》

 行き止まりかと誰もが見紛う我が家の更に奥に、昨秋未就学の子連れ一家が引っ越してきた。別荘にしていた持ち主が老齢化で、通うのがしんどい、管理に骨が折れる、と畑をぼさぼさの荒地にし放題で持て余していた。売りに出してはいても、こんなところを買う奇天烈人もなかろうと高をくくっていたら、冷やかしの下見に来たかと思いきや、なんと気に入って、ここに決める、と言うのにはこちらが驚いた。栗垣内(クリガイト)というと、どこで聞いても、あそこはやめた方が良いと言われるという。あんな不便なところにわざわざ住むことはあるまい、もっとましなところがあるよ、と異口同音に言うそうである。まあ、Iターンの三橋が住んでいるから訊くといい、と言われて訪ねて来た。

 我が家にとってのメリットは、塩素入りの簡易水道が未来永劫、敷設されないこと、自己流コンポストトイレが心置きなく可能なこと、近所が密集していなくて、生活が監視されない、夫婦喧嘩はまず聞こえる心配がないことを挙げたら、まさにそれが望むところだから、とほいほい引っ越してきてしまった。連れ合いなどは自分の仙人振りを棚に上げて、あいつアホとちゃうか、と呆れながら心配する。もちろん杉がまだまだ伸びて、畑の条件は悪くなるばかり、湿度がかなりのもの、子どもの仲間がいない、学校にはスクールバスまで4~5キロ送っていかなくては、とマイナス要因は漏れなく話した。救急車も入れないが、担架で運ばれて救急車が搬送してくれる大きな病院がこれまた遠いのも、老人の移転条件の最悪に挙げられるが、子持ちにとっても同じであろう。我が家にとっては、これは絶好の環境ではあるが。いざと言う時、苦しんでなければ救急車は呼ばないでおこうね、と言うのが二人の間の珍しく議論なしの合意である。痛かったりしんどい時は仕方ない、救急車のお世話になって、最小限の緩和策をしてもらって1時間半も揺られている間に事切れた、と言う展開になれば、めでたいからである。

 新住人の噂はたちまちの中に広がるようだった。人と顔を合わせれば、お宅の奥に引っ越してきたんだって? と皆呆れ顔で言うのである。情報伝達の早さは驚くばかりだが、さらに驚くのは、何を好き好んであんな所に、と異口同音の呆れようである。わが家のことも、こういう具合に人の口の端に上ったのか、と今更ながら驚く。道理で最近でも、初めての出会いの人に、ああ、あんただったんか、あんな奥に来てる人がいてるというのは聞いていたんだが、としげしげ見つめられることがある。何やら「伝説の人」になったような。

 どこへ行ってもその話で持ちきりで、どうやって暮らすんだろう、歳はいくつ? もう働き口は決まったのか、とか、いや、彼は働き口を探すつもりはないみたい、というと皆あきれ返る。お金を稼がなかったら、どうやって暮らすんだろう? 第一、子どもが育てられない、親はよくても子どもが可哀想だ、と。

 私には解せないことが多いが、これらの反応を、各人の人生観の一つのバロメーターとして面白く聞いている。 (続く)

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『みちしるべ』熊野より(27)**<2008.5. Vol.52>

2008年05月03日 | 熊野より

三橋雅子

<あさもよし紀の国の――新宮の文人達>

 東京から夜行バスで帰ると、尾鷲を過ぎる辺りから、木の間隠れに海が見え始める。明けかかる熊野灘。外洋につながる大きさを秘めた海の、幽かな明るさの中で少しづつ激しく光が踊り出す。

 拡がった海は青い。空も何という青さ。陽光の中の山の緑もまた何とみずみずしくあおいことか。何もかも青々と、ただ青い、ひたすら青いとしか言いようのないことに、私は自分の語彙の貧弱を思った。

 この明けてゆく熊野灘を、他の乗客を気遣いながら、そっとカーテンをめくって満喫する魅力が捨てがたく、池袋〜新宮の「しんどい」夜行バスが止められない。往復ざっと2万円(大阪〜東京のスタンダード型片道5千円――あるいはもっと安いのもあるのかも――などと言う代物ではない、ちゃんとリクライニング付デラックス型である。)という安さだけが魅力なのではない。この、明け方の絶景に加えて、夜乗り込めば翌朝6時に東京池袋に着いて即、その日まるまる行動できるのだから、なにやら得した気分になる。新幹線を使うには大阪まで出るか、新宮廻りで名古屋から、と簡単には乗れないのだから。飛行機には白浜まで出れば乗れるが、東京に着いてからがうんざりだ。どうしてもバスに落ち着く。しかし若い時はまあまあだったけど、もう、あかんわ、と40台の人に言われて苦笑する。気がついて周囲を見回すと、確かに年寄は見当たらない。現に連れ合いはアカンくち。ほとんど眠れないらしく翌日は使い物にならない。どこでも、いつでもばたんと熟睡に入れる者には、なんとも有難い。

 熊野三山のひとつ新宮速玉神社の一隅に、佐藤春夫記念館が密やかに建つ。赤煉瓦のアーチ型の門の脇にマロニエの木、といういささか場違いな洋風の趣だが、これはドイツに留学して夭折(ようせつ)した弟を忍んでのこととか。

 誰もいない館内に春夫が生前吹き込んだテープが流れる。

 「あさもよし、紀の国の‥‥‥空青し山青し海青し‥‥」望郷詩人の「望郷五月歌」。私は嬉しかった。彼にとってかけがえのない熊野灘の海、空、山を、春夫もただ「青し」としか言わなかった。かの、語彙豊かな詩人でも。

 酒落(しゃれ)たマントルピース、「小さき程よし」とした二階のちんまりした書斎。さして大きくない造りに、反対側にも狭い階段。その贅沢を怪訝(けげん)に思いながら、身幅ギリギリの「あそび」の階段を降りてみた。上ったときとは違う場所に下りる面白さ。

 この瀟酒(しょうしゃ)な家は、春夫が晩年まで過ごした東京文京区の家をそっくっ移したものという。やはりこの地で生まれ育った西村伊作の設計による。彼がその著作の通り、自身の「楽しい住家」を建てて家族と暮らしたモダンな家も記念館になっている。

 戦後のダイニング、リヴィングルームブームの先駆けとなった、家族中心の家のモデルである。絵画と陶芸、木工などの作品が溢れる「パーラー」。続く食堂はゆったりした空間に広いテーブル、ここで石井柏亭、与謝野鉄幹・晶子夫妻らとサロンを展開し「新しい時代の近代人を養う自由主義教育」を論じ、構想を練ったのであろう。この伊作邸完成の7年後、神田・駿河台に文化学院が創設された。鉄幹が文学部長(後に春夫も)、晶子が女性部長、柏亭は絵筆の手ほどき、と伊作邸の常連が教授陣を固めている。

 伊作が設計した座り心地の良い椅子にもたれれば、正面に彼が描いた濠と山の青々とした風景が迫る。彼もまた東京での忙しい日々に、青き故郷への思いを募らせたのだろうか? 多彩な才能を展示する片隅に、少し意外な食器棚風の家具が目に留まった。大石誠之助、大逆事件で処刑された、伊作の叔父の作品である。彼は確か「温厚な医者」だった筈。こんな、細工の難しそうなプロっぼい家具作りのゆとりがあるとは‥‥大正デモクラシーの基盤になった、多様な文化的素養の側面を垣間見る思いがする。

 家族達ののびのびとした空間が確保される二階。ここにも二つの階段を発見して、またしても、と伊作の遊び心を想像した。

 「与謝野晶子と周辺の人々」(香内信子著)には、いずれの記念館でもみられなかった「新宮鉄道新宮駅」の前にゆかりの人々がごちゃごちゃと並ぶ写真がある。晶子をはじめ、誠之助の妻や幼い遺児達、伊作の妻子達、総勢二十六人の中に伊作が見えないのは、彼が撮ったものだろうか。伊作の家が建った翌年のこと、新築祝いにでも集まった人々でもあろうか。一際高いところにソフト帽の、春夫二十三歳のダンディな姿が見える。

 テレビのない時代から、この「陸の孤島」新宮には、なぜか東京の流行は名古屋、大阪を跳び越して直輸入された、といわれるが、なるほど、明治、大正から、新しい思想もファッションも東京と直結していたのか、と改めて思う。清清しい青い風景の中の想いである。

あくまでも青きさつきの熊野かな

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『みちしるべ』熊野より(26)**<2008.3. Vol.51>

2008年03月05日 | 熊野より

三橋雅子

<小栗判官の壷湯――湯の峰温泉②>

 湯の峰にはもう一つ、小栗伝説にまつわる壷湯がある。これが世界遺産に指定されてしまった。小栗判官とは常陸の国の城主であったが、讒言によって攻められ落城、落ちのびていく途中盗賊に毒殺されて埋ゆられた。しかし餓鬼の姿で生き返り、湯の峰の温泉まで辿り着いて蘇ったと言うのが、ここの壷湯である。二~三人しか入れないので、シーズンには30分区切りの順番待ちになる。あと何時間待ちなどというのを、「これに入らずには来た甲斐がない」と辛抱強く待っている。世界遺産に浴場が指定されたのは世界初、と言えば、どうしても入りたがるものなのか。「日に七色湯の色が変わる」という神秘的な湯に、私も一度入ろうかと思っているうちに、世界遺産騒ぎで一躍ばか高い値上げになったので止めた。地元民たちは、あんな小さい壷の湯なんか、いくら流れているとはいえ汚くて、と入らない。汚いといえば、本宮でもう一つ観光客の集まる湯は川湯で、下から温かい湯が沸いてくるから自分で足で掘って温度を調節する。これも地元では、流れているとはいえねえ…と。〈こんな文章が観光協会の目に留まったら大変、クワバラクワバラ〉冬場は河原を一部堰き止めて巨大で豪快な露天の「仙人風呂」になる。

 当初、旅館の「小栗屋」はともかく民宿「てるてや」などという名前に戸惑った。小栗を見初めた照手姫は彼を追って難行苦行の旅を続け、出会ったものの、あまりの姿に小栗とは気付かず、その土車を押す。道中あまたの人々が次々と車押しに手を貸して湯の峰まで送り届けた。ひと引き千僧ふた引き万僧のご利益があるといわれる、地元の、熊野詣の人々への協力を惜しまない親切さは、この辺に由来するのだろうか。

 大雨の時は小屋ごと流されるのを避けて、すぐ営業停止、湯屋はあけ放たれて、内外をきつい流れがとうとうと流れるままにされる。時には扉をパタパタさせて暴れる流れに耐えている小屋が大丈夫だろうか、と危ぶまれることもある。ここの様子で雨量が分かる。

 小栗にまつわる伝承は多いが、表立っての話ではないものに、毒殺されてぼろぼろになった体とは、実はハンセン氏病だったという説がある。この病の人々をここでは拒むことなく営々と受け容れて治療させてきたという。熊野にはなんでもあり、何者も拒まない、ひたすら癒しの聖域と言われる所以の最たるものか。最近ではアトピーで見るも無残な娘さんが、湯の峰の湯で全治して、それはきれいになって帰って行ったと聞いた。土地の人たちに嫌な顔をされ、同浴を拒まれることはなかったのだろうか、とその時ふとよぎった疑問が、小栗ハンセン氏病説で解けた。どんな病気もこの湯ではうつらない、と土地の人々は断言する。この湯が、腐らず二年はもつと言うのも、90度以上のアツアツをお風呂のたびに汲んできて、日常の料理用はもちろん、災害時に備えておくのに誠に重宝である。我が家の谷水は同じ自然水でも、塩素抜きというのはこれほど腐敗しやすいものかと驚くほど、汲み置きは不可能である。

 脱東京を果たして以来、求めた土地が次々と田舎らしい田舎ではなくなることに幻滅しつつ、ほんまもんに近い「田舎」を求めて辿り着いたのがたまたま熊野であったのは、今更ながら幸運であった。なによりもおいしい水、そしてそれを維持するための心安らかな暮らしをしたいと、高コストが投入された飲料水を、惜しげもなく流す水洗トイレの痛ましさから解放され、代わりに貴重な堆肥に変える喜び、排水は行き着くまでに十分土壌処理されて川を汚すことのない嬉しさ。たったこれだけのことが満たされる場所を求めたことが、ようやくここ熊野に辿り着くことになったことをつくづく幸運に思う。

 そして、この貴重な掛け流しの湯の峰温泉が、本宮町のごく一部の地域の財産区として、その住民だけが無料で入れるという特典は、引っ越してくるまで知らぬ事であった。更なるラッキーの上塗りというものである。隣町の中辺路から、片道30数キロの道のりとガソリン代と入浴料を投じても、この湯の魅力には勝てない、と通ってくる人の中には、私もこの近くに家を探して買えばよかったと悔やみ、当方の慧眼を羨む人がいる。ひたすらこのお風呂ゆえに、この不便な地に居を定めたものと勝手に決め込むのである。

春めきてはや窓放つ一人の湯

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『みちしるべ』熊野より(25)**<2008.1. Vol.50>

2008年01月07日 | 熊野より

三橋雅子

<ここによき湯あリ――湯の峰温泉①>

 我が家のお風呂、湯の峰温泉は千八百年来の日本最古の花が自然に積もり薬師如来の形になったものを本尊、湯峯薬師として東光寺が建てられた。座像をなしている、この本尊の胸から温泉が噴出していたため、古くは湯の胸温泉と呼ばれていたものが、湯の峰になったという。この真っ黒けの如来様は年二回ご開帳になる。湯の噴出口と言われる胸の穴は、私には弾丸の痕のように見える。薬師本尊の他、ここには重要文化財の不動明王像など、見ごたえのある変わったものが数点あるので、暗くて狭い本堂をそろそろすり抜けながら眺めるのも楽しみの一つ。

 脱衣所に珍しく広告らしいものがあった。旅行会社の調査による、関西圏温泉のランク表である。第一位がこの、古びた湯の峰温泉なのには驚いた。ちなみに二位は神戸の有馬温泉。知名度では断然上回るが、この名湯も当節のご多分に漏れず、塩素消毒による循環湯になっては一位は無理なのか。西宮時代は、近かったのでよく来客を案内した。懐かしい。

 ここはかつての村の財産区で、その地域の住人は無料、古い家には浴室がない。尤も本宮町全域というわけではない。この前の合併の前の、昭和の大合併以前の旧村の範囲である。無料は引っ越してその日から、というわけではなく、選挙権と同じく三ヶ月を経て資格が得られる。「みつき経ったけど、住民票か何か入り用ですか」と訊けば、湯番は「ああ何もいらないよ」で手続きは終わった。当時この公衆浴場は二百円だったが、世界遺産登録を機に二百五十円に上がった。ここは九十二度の源泉を水でうめているが、三百八十円の薬湯は源泉百%、一旦タンクに溜めて冷ましている。とろっとして濃度が高い。石鹸、シャンプー類は使用禁止。ここは住民も正規の料金を払わなくてはならないが、病気や怪我の時は特別の計らいをしてくれる。連れ合いも電動鋸で怪我をしたとき、しばらくの間一回三十円でここのお世話になった。気のせいか、年の割りに治りが早かった。傷に良い、ということで、飲むと胃潰瘍などに利くというのも胃の粘膜修復が早いのか。薬効の適応症は多岐に亘る。大阪や三重ナンバーの車を横付けして、二十リットルタンク(二百円)を十も二十も積み込む人も少なくない。腐らず二年はもつと言う。温泉粥は少し黄色くなるがとろっとしてなんともいえない香りと味である。湯豆腐は煮立ててもスが入らないのでゆっくり濃厚な味を楽しめる。茹でものは何でもこれで、用途は広いが、温泉コーヒーは、安物のインスタントが一番おいしくて、高い豆を手間暇かけて挽いたり、丹念に淹れるのはだめなのである。

 観光客は入るなり、石鹸もなければシャンプーもシャワーもないなんて、とこぼす。外に出ても暇を紛らすものはない。こんなとこ一週間もいたら気が変になる、などとブーイングしきり。お陰でリピーターがほとんどいないのは有難い。ここの愛好者は、今や全く少なくなった本来の掛け流し(全国で10%とも20%とも言われる)を求めて来る昔からの常連で、世界遺産登録とは関係ない。ちっとも変わらないねえ、でも以前は湯筒で、自由にお湯が汲めた、無論只で、などの話が聞ける。

 今湯筒は観光客の、卵や薩摩芋茹でで賑わう。地元も筍の季節には長時間嵩ばる袋を大きい石で沈め、旅館や民宿の女将も、蕗やゴンパチ(すいば)など、客用の茹でものをここでしている。硫黄臭のある高温の湯(重曹硫化水素泉)は、沸騰させない為においしさを保つのか。茹で卵は白身が先に硬くなって「温泉卵」にはならないが、わざわざ遠くから、何ケースもの卵を茹でて行く人もある。

 我が家も遅れ遅れの芋堀りがようやく終わり、お風呂の間サツマイモ茹でに費やす季節になった。湯船に漬かっている間では茹で上がらないので、連れ合いは寺の住職が営む「湯胸茶屋」で時間を漬す。もっともこれは茹でものがなくても定番なのだが。新聞配達のない我が家ではここのお古の新聞をもらってくるのに、風呂?温泉コーヒー?新聞取りが欠かせないコースなのである。無論私は家で安いインスタントコーヒーで温泉コーヒーを楽しめるのに、と茶屋に入る気にはならないから、車で、ほとんど唯一の読書タイムを楽しむ。

 熊野本宮大社例大祭初日の湯登神事では、湯の峰の温泉で湯垢離をとり、温泉粥を食したあと、湯の峰王子で神事をする。それから稚児を親が肩車に乗せてアップダウンのきつい大日越えをして本宮旧社地に向かう。ここはお風呂の前後の、ちよっときつい散歩に良い速足一時間強のコースだが、私の足では届かないような段差の激しいところも多く、装束をまとったり軽いとはいえ、子供を乗せての道行きの厳しさはさぞかしと思われる。

 かつて熊野詣の人たちの、本宮大社に入る前の禊の湯でもあったし、熊野御幸の時代にも、皇族や貴紳が休養にこの地を訪れ長旅の疲れを癒した。いまだに皇族との縁は深く、現天皇の皇太子時代、近くは皇后が末皇女婚礼の直前、二人で、いずれもお忍び来訪があったとか。

 ふだんの昼間は大抵一人湯だが、たまには高野山から小辺路を三泊四日、一人で歩いてきた、と大荷物を下ろす人もいる。湯の中で幸せそうに足を伸ばす東京人の、道中の話を聴くのも楽しい。

  湯の花の浮きて一人湯秋深む

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『みちしるべ』熊野より(24)**<2007.9. Vol.48>

2007年09月03日 | 熊野より

三橋雅子

<「私のシベリヤ物語」本宮を駆ける>

 いささか古い話になってしまったが、「本宮9条クラブ」なるものが、数少ない若者を代表者にして発足したのは、この、古い高齢者の町では瞠目に値することだった。生みの苦しみには数ヶ月を要した。ここでなにやら活動らしいものをするといえば、先の市町村合併反対運動と同じく、共産党が核になるしかない。森林組合で働く若い「よそ者」達は組織が嫌だと言う。共産党色プンプンのビラは配る気にならない、あの抵抗感が分からないから、共産党は至極もっともな正論をどんなに展開しても選挙で票を取れないのだ、と。僅か10人足らずの発足準備会は、毎回堂々巡りのぶつかり合いとなった。こうもりの私はそのたび別々で発足しよう、その内一緒になれるかも、と提案するのだが、そうなりかかっては行きつ戻りつで振り子は止まらない。ところであんたはどっちに入るの?と訊かれて、両方です、と答えると、ほう、若いつもりなんだ、と失笑を買った。

 お互い人手も資金も足りないのが目に見えている。遂に老共産党は後方支援の形で、私自身もひどく抵抗を感じる名称で発足に至った。お産の軽い私には「生みの苦しみ」なるものがこんなとはとても想像できない。しかし正に案ずるより生むが易しで、とんとん拍子に会報が出たが、これを配るのが一苦労。出来たからには全町民に読んでもらいたい。大枚はたいて新聞折り込みも試みたが、配達地区はほんの一部、新聞と無縁な家が多い。(我が家などは新聞くらい欲しいと思っても、配達がない。毎日の郵送料を払えば来るが、郵政公社にそんなお金は払いたくない。)そこで、わがら(自分達)の手で各戸配布をすることになった。戸数にして2000余り、西宮で道路と水源池問題のビラ配りや署名で歩いた、当時3500戸の北六甲台を思い出すと、わけもなさそうだが、一つの集落に2~30戸固まっていれば御の字、我が家のように中心部の本宮大社から10キロ、人里離れてから2キロほどで4軒、更に2キロ分け入って離れ離れに我が家を含む3軒、というようなところも決して珍しくない。中には石段を100段登ってやっと一軒というようなところもある。だからといって飛ばす事は出来ない。段々配布員もばてて来たり脱落して、土地勘のない私も、いくらかでも知っている所、などと贅沢はいえなくなり、地図を頼りにどこまでも足を踏み入れた。おかげで本宮地区の大部分の土地勘が養われた。

 しかし大抵は段々に沿って、てんでに点在する同じ格好の家並み、塀もないから次々と隣に登ったり下ったり、ずるずると辿っていくと、入れた所、入れてない所が分からなくなる。表札は大体同じ苗字。目印にニュースの端を郵便受けの口に挟んでおくが、確かここは入れたはずなのにない!へンだなあ、と自信をなくしながら入れようとすると、もう貰ったで、と縁側で読みふけっていたりする。一生懸命、眼鏡をかけて、時には声を出して読んでくれている。張り合いがあった。かつてのように、目の前で右から左ポイされるのとは大違い。書き手は原則町民に絞った。こんどは誰々さんが書いてるから読んでくださいね。というと、俺よリ2級下やった、まだ元気しちょるかとか懐かしがる。極力写真も入れた。あいつもよくよく年取ったもんじゃなあ、と自分のことを棚上げして感心したりしている。

 配布物にシリーズ「憲法への私の想い」の連載を始めたとき、第1回目を持たされた私は「新憲法、は希望の星だった」と題して、幼いながら、敗戦後の大人達のぼろぼろの姿の中に、安堵感と新しい時代への期待が漲る明るさを思い出して書いた。戦後満洲から引き揚げてきた時の無残な想いと大人たちの開放感が、間もなく発布された新憲法への期待や明るい展望に凝縮されていたように思う。あの暗い、陰惨・無情な時代から脱却して、日本再生の展望が託されたのが新憲法だ、世界に誇る理想の憲法だ、と教師達も熱く語った。その一文をちゃんと読んでくれている証拠に、「あんた、引揚者だってねえ」と声をかけてくれる人も多々あることに驚く。年寄りの真面目さに勇気を得て、また石段の上がり下りに精を出した。

 しかし時には「こんなことやって、なにになるねん。」と言われることももちろんある。「そうですねえ、無駄骨かもねえ。」しかしかつての署名集めに、「暇人やなあ」と皮肉られる事しばしばだったのに比べれば腹も立たない。やっと辿り着いた石段で、「何のタシにもならん」のおっちゃんは「大体近ごろの、あんたみたいな若いモンが、我々の年代がどんだけ命からがらの苦労したかわかんねだろ」には、こちらも黙っていられない。戦争を知らない「若いもん」とは…。子供とはいえ11歳で満州から引き揚げてきた時のこと、その前のソ連兵達の横暴無残な略奪その他、あやうく残留孤児になったやも…の命からがらのあれこれをブワーッとまくし立てた。で、おっちやんの命からがらは?南方?と振れば、いや、そのひどいソ連や、シベリヤに4年いて帰ってきた。とおとなしくポツリボツリと話し始めた。よーく生きて帰ってこられたねえ、お互いハラショーハラショーだねえと、恨みのはずのロシヤ語が出て、手を取り合って涙ぐんだ。

 私はすぐに,砂場さんの「私のシベリヤ物語」を届けた。彼が暗い電球の下で、鼻水をすすりながら活字を辿る姿が眼に浮かぶ。

 本宮は高齢者人口が40%を超えた。限界集落はあちこち、我が家の回りは超限界集落か。ということは戦争体験を持つ老人パワーが溢れているということだ。これを利用しない手はない。「戦争体験を語る会」が始まった。戦艦大和の生き残りがいる、ニューギニヤの生還者、満州荒野を一人、本陣を探してぽつぽつと歩いた、かつての少年兵…神戸の大空襲で3日間焼け焦げた死体をひっくり返しながら、親を捜して回った、かつての少女、来る日も来る日も眠らず手当てをした、かつての健気な看護婦……彼ら、彼女らはしゃべりだすと止まらず、語る会は終わらない。総出で出世の見送りしてくれてなあ、ほれ、あそこの〇〇橋で万歳して、誰やんも一緒だった…とかで始まり、移動のたびに途中下車していると、肝腎のニューギニアまで辿り着かず、止む無く閉会になるのであった。それでも16歳で志願していく心情や、当時の村人の気持ちなどがひしひしと伝わってくる。戦争の悲惨は、戦闘員の悲劇だけではない。

 私はかつての兵士に、泣く子も黙る強大無比の関東軍は、中国大陸の在留邦人を棄民して逃げたが、軍隊の中で、兵隊達は救われたのかどうか、と訊いた。8月9日のソ連参戦後いち早く関東軍総司令部はわずかの留守居役を残してもぬけの殻になった。総司令部を安全な場所に移す、という名目ではあったが、仮にそれが賢明な策であったとしても、危険な首都から避難しようと列車に群がる市民達を阻止し、自分達の家族を優先して、家財道具一切、ピアノに至るまで積んで、あるいは軍用機を飛ばして、いち早く内地に逃がした。国も軍隊も決して我々を救ってはくれない、それどころか凶暴残虐な日本軍のお陰で、その犠牲になった身内への、仕返しの鬼となった輩のターゲットになったのは、何の罪も犯していない、けなげな開拓団の人達や、辺境からの、あるいは首都新京からの避難民達だった。我々は、無政府状態で横暴を極めた「戦勝国」ソ連の、荒くれ囚人部隊のなすがままの暴挙にも、素手で、知恵だけで身を守るしかなかった。ひたすら国体護持の名目で、一方的に強制的に協力を強いられただけの軍隊や国を、誰が信ずることが出来よう。

 「わしら一兵卒はやはり捨てられた方だ。ここで解散だ、と身一つで満州荒野に放り出された。しかし、列車が支給され、それに乗って帰る手立てがあっただけましかも知れん。途中民間人にすがりつかれ、子供だけでも乗せて行ってくれ、と泣いてしがみつくのを、軍の命令で乗せるわけにはいかん(解散したのに何で軍の命令に従う?と不思議だが)と列車の枠にしがみつく必死の手の指を、一本ずつ剥がして振りほどいたあの感触が、今でも忘れられん」と辛そうに言った。

 帰りに、「わしも満州に駐留しててな」と懐かしそうに言ってきた人がいた。「そのままシベリヤ行きや、4年後に帰されたが、生きて帰ってこられたのは全く運のいい方じゃ。皆よう次々死んだもんなあ。」私は持っていた「私のシベリヤ物語」を渡した。翌日電話があった。「一気に読みました。自分の体験が書かれているかと思った。(後に砂場さんが配置換えになったところが違うだけで全く一緒だ。)実に良く書けていて、わしの言いたいことも全くそのとおり書いてくれている。後書きも実に同感だ。こんな嬉しいことはない。」電話の向こうの声が潤んでくる。私は懐かしいであろうと、思い出す片言のロシヤ語を並べた。「ヤポンスキー(日本人)、アジン、ドゥバ、トゥリー、チェトゥイーレ…(1、2、3、4…)、ダヴァイ・ラボータ(しっかり働け)、私達はダヴァイ・ジェンギ、タヴァイ・チャスイ(早く金を出せ、時計を出せ)と毎日言われたものですよ。彼らのタワーリシチ(同志)はなんや…」と尽きなかった。

 彼は「ほんとに嬉しかった、この本の著者に、ついでがあったら、お礼を伝えてください」と滾々と頼まれたのに、私はまだ果たしていなかった。この場をお借りして、心からのお礼と、今までサボタージュしていたお詫びを申し上げます。砂場さん本当にご苦労様でした。そして本宮の住民にもこんな感動を与えてくださって、本当にありがとうこざいました。

 秋の雲遠きを語る想い乗せ

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『みちしるべ』熊野より(24a)**<2007.7. Vol.47>

2007年07月04日 | 熊野より

三橋雅子

<熊野の道>

 牛が草鞋を覆いて馬喰うと歩いた道は、当時は熊野古道とは当然言わなかった。これしかない、一番新しい道だったに違いない。いつから古道になったのか?新しく国道が出来、ほとんど省みられなくなって、あらかたが荒れ放題の、道なき道のようになってから、かつて都から「蟻の行列」をなして熊野詣に通った道を「古道」と称して整備したものであろう。それも「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、古道までが世界遺産に登録されてしまうと、ハイカー・観光客が足繁く訪れるようになる。折角隠遁の地をはるばる探し求めて来た者としては、これはちょっとした脅威ではあったが、何のことはない、観光客が増えたのは遺産登録認定(‘05年7月)後から1年余り、その後は減少に向かっている、と観光課は嘆いている。

 最盛時の賑わいとて、仙人とやまんばのわが住処には、何一つ聞こえてくる騒音も変化もないのだが。

 確かに800を超える世界遺産の中でも、道そのものの遺産は珍しく、他にはフランスからスペインのサンディアゴ大聖殿に至る巡礼道のみであるが、これはキリスト教徒だけが一直線に大聖堂へ向かう道。紀伊山地の参詣道は修験道の「吉野・大峯」、神仏習合の「熊野三山」、真言密教の「高野山」という異なる山岳宗教の三大霊場にそれぞれ向かう道であり、それには「紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し」(梁塵秘抄)の選択があり、紀伊路にも小辺路、大辺路、中辺路という多様なルートがある。宗教上の多様さだけでなく、特に熊野へは貴賎、身分の上下を問わず、女人も禁じられず「聖地」に向かって老若男女が苦難の道を一心に辿った。熊野が何も拒まず受け入れ、何でもあり、と言われる所以か。

 しかし「古道」として復活させる為の手の入れようは、ここまでしなくても、と思うくらい「懇切」である。往時、遥か彼方までの参詣への願いを込めて一足一足踏みしめた難行苦行の追体裁とは程遠い。本宮を訪れる人々は、あらかた発心門王子に向かう。五大王子の一つとしてバスも通り、桜と紅葉の名所でもあり、何より熊野本宮大社の霊域の始まりとあればもっともなことではある。さらに、本宮大社が初めて視界に入り、伏し拝んだという伏拝王子、最後の禊ぎをしていよいよ大社に至るという祓殿(はらいど)王子。(この、随所にある王子、熊野九十九王子といわれるものは、本社に祀られている神の末社で、参詣の便を図るための遥拝所であり、休憩所でもある道標的なもの。)しかしこのルートは、残念なことに大半がアスファルト道である。周辺の景観を除いて、道そのものは当然、世界遺産の対象ではない。見るべきものは多いが、古道を歩くという感触とは程遠い。「古道」を楽しむには、やはり田辺?本宮への中辺路や、石畳が見事な伊勢路であろうか。

 我が家の付近の、つい三十数年前まで子供たちが賑やかに分校に通ったという通学路は、文字通りの古道になって、鎌を片手に草木を掻き分けなければ進めない。また、我が家から二十分ほど薮を掻き分けながら登れば、赤城越えという古道に至る。世界遺産には入っていないが、本宮大社にも湯の蜂温泉へも通じる道でもあり、反対側は中辺路へ到る。古道通が一番いいという穴場の道。

 たまに道を外れた歩き手が、この辺から赤城越えに出られないだろうか、と我が家に迷い込んできたときには、鉈、鎌を手に案内役をかってでる。「古道」に着けばほどほどの整備済みで、たまに猪がミミズを堀りながら横切ったと思しき穴ぼこがある程度、人に会うことは滅多にない。私は時たま、ザックにお風呂グッズと、飲み物を入れて、我が家の風呂場、湯の峰温泉に、この道経由で行く。1時間20分。車なら15分ほど、その車道を歩けば50分だが、アスファルト道は気が進まない。赤城越えの、ふかふかの足元や、岩や木の根がごつごつの、スリルに満ちた行程は、温泉での足腰ストレッチを楽しみにさせる。遮る林が途切れれば、片手に発心門を俯瞰し、片や果無山脈、さらには奥駆道へと繋がる山また山が、熊野燃ゆ、とばかりにどこまでも深く緑を凝縮させている。

 初夏の熊野木々のみ賑わいて

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『みちしるべ』熊野より(23)**<2007.3. Vol.45>

2007年03月05日 | 熊野より

三橋雅子

<牛の草鞋(わらじ)>

 古道の木の根に足を引っ掛けそうになりながら、同年輩の女性が、「よく牛の草鞋作りを手伝わされたわ」と言う。馬喰(ばくろう・牛馬の売買をする人)の父親が牛を連れて、田辺への道を始終往復したものだという。「牛に草鞋履かせて、それも途中で破れるから替えを持って行くわけよ。人間の足元は少々ほころびてもかまへんけど、牛の草鞋が破れたらえらね。」なるほど、こういう道なら牛も、あの大きな図体で足を痛めるわけか。

 牽いて行くのは一頭だが、十足ほどの履き替えを持って行ったという。それを編むのは馬喰う自身。それぞれの牛の足に合わせて分厚く大きく編んだのを爪にしっかり挟み、紐を後ろにまわして結わくのだと言う。一頭づつのお誂えとは!靴なら銀座よしのやの誂えか、さしずめ外反母趾用の特注か。

 子供たちはめいめい履物は自分で編み、雨降りの登校には、濡らしてはすぐ破れるからと藁草履を懐に入れて素足でぱーっと走ったというのに。子供の仕事は、藁を編みやすくする藁打ちと餌用の藁切り。

 群馬県、長野県など養蚕の盛んなところでは牛の代わりに「おカイコ様」が人間より大切にされたのであろう。軍隊でも「馬は高い」と大事にされたが、「人間は一銭五厘でいくらでも補給できる」シロモノでしかなかった。関東では嫁を牛と言うところもあったとか、熊野の牛同様労働力としては貴重だったのか?

 今、国道が通る本宮?田辺は約六〇キロ、そこを縫うように、上り下りがきつい紆余曲折の道のりは、最近でこそ「熊野古道」と脚光を浴びて大勢が部分的に歩くようになったが、当時は未整備でさぞ難儀な道行だったに違いない。所用で田辺に行くには、夜明け前に家を出て日の落ちる前に着くのがやっとだったと聞いたが、人間は一日行程でも、牛を連れては、途中で一泊。牛も草鞋を解いて足を休めたのであろう。

 牛への手間暇は草鞋にとどまらない。角には綺麗な布を巻き、背中には筵などで立派な覆いを被せて装ったという。保温や日除けも兼ねたであろうが、何より見栄えがして綺麓なもんじゃった、そうだ。

 当時田を持つ限り、牛のない農家はなかったという。牛が人間以外の唯一の動力であった。今、車がないと、ここらでは暮らせんのと同じや、とかつての馬喰の息子は言う。馬喰は車のセールスマンや。新型が出ると、まだまだ走る車でも、買い換えたがるのがいるやろ、そんなんが、いいお得意さんなんよ。とことん動けなくなるまで使いきる農家も、いずれは買い替えにゃならんし仔が生まれるとそれを売る…客が途絶えることはないんや、と。しかしキャリアカーに載せて行くのと違って、売り物を歩かせ、餌を与えながら運ぶのは、神経を使ったことであろう。

 牛の市もあちこちで賑やかに開かれたらしい。本宮町の庁舎(今、行政局)がある所もかつての牛市の跡地で、市がすたれてからは子供たちの溜まり場だったという。平地で屋根もあり、手綱をくくりつけた柱や柵にもたれて相談ごとをしたり、何かと集合場所にしたものだ、と牛市の実態は見たことがない世代も懐かしがる。

 山の雑木が萌え出して代掻きが近づくと、馬喰の足元も活発になったに違いない。

 装ひし牛の旅路の春熊野

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『みちしるべ』熊野より(22)**<2007.1. Vol.44>

2007年01月04日 | 熊野より

三橋雅子

<遠い熊野>

 テレビで日本地図上に、東京からの距離を鉄道の所要時間で線に表していたが、新幹線が届いているところは東北も九州もきわめて短い線。近畿圏でありながら、本州最南端、紀伊半島先端の串本は当然、離島なみに馬鹿長い線で遠くに押しやられていた。私はうかつにも、ここ本宮は串本より少しは東京に近いかと思ったが、とんでもない、ここには鉄道そのものが通っていないのだから、新宮から不便なバスでトコトコ…となると串本より遥かに遠距離になる。高速道路もようやく紀伊半島に入ってきたが、これも熊野の入り口、口熊野といわれる上富田の近く、田辺・白浜にはまだ届いていない。息子連が「日本で一番遠い場所」と言うのも、ほぼ正しい。

 熊野のもともとの意味は「隅っこ」の「くま」だというのがある。都から見て紀伊半島の南のスミッコ、遠く離れた辺鄙な場所の意味では、その通り現代でもぴったり、と私はこの説が気に入っている。

 しかし遠い故か、他所にない便利さもある。東京行きの飛行機に乗るには白浜まで60数キロを走らなければならないが、空港に車を無料で自由に乗り捨てていける。先日関西空港から乗ろうとして、はたと日数と料金を計算したら、車を乗り捨てて行く怖さに気付いた。新宮から東京行きのバスに乗るのも、車はバス乗り場に何日置いておいてもいい。永いときは、「〇〇日頃に東京から帰ってきます」などと書いては置くが。

 それにしても一体「熊野」という領域がどこからどこまでなのか、かつて、この終の棲家を探すのに地図を片手に走り回っていたところが、後で辿れば熊野、その時そうとは気づかなかったのも道理、普通の地図に「熊野」は載っていない。熊野市(三重県)、熊野川町(和歌山県、現、新宮市)本宮を流れる熊野川はあるが、ここまでが熊野、と線で落としている地図はおそらくない。熊野古道を案内する語り部達、世界遺産としての<熊野>をPRする県職員…いろいろな「熊野」の関係者に出会うたび、私は訊いてみた。ほとんど皆が違うことを答える。辞書も同じ。A百科事典は「和歌山県と三重県に位置する…」といい、B百科事典は「和歌山、三重、奈良の三県にまたがる…」という。

 旧紀伊藩の四つの牟婁、東牟婁、西牟婁(和歌山県)、南牟婁、北牟婁(三重県)という、およそ紀伊半島南部の海岸沿いの地帯、というのがあらかたの通説のようだが、そうすると海なし県の奈良は入らない。都から「蟻の詣で」の行列をなして熊野に向かった、吉野を入れぬわけにはいかないと言う人もいる。が、吉野は別の文化圏だからこれは入れない、と言われればなるほど、とも思う。また南海岸沿いに限るとしても、西はどこから、東はどこまでなのか?紀伊藩の東の要所、尾鷲は別格、ここは伊勢により近く、独自の形成をしたから、これを入れると熊野のイメージが変わってしまう、とC氏が言えば、いや、尾鷲を入れない熊野は考えられない、とD氏は主張。私の質問から互いに譲らない、バトルになり、私はそっと傍を離れた。

 厳密な意味でいわゆる「熊野」を指すのは、本宮、新宮、那智の熊野三山を中心とした、西は勝浦、東は熊野市あたりまでの紀伊半島南海岸部、とするのが狭義の熊野だろうか?めいめいの気持ちの中で自分の好きな範囲をイメージすればいいのでは?と私は思う。

 最近、車のナンバープレートに「ご当地ナンバー」とかが認定されたという。「熊野ナンバー」申請の動きもあるとか。

 その時、どこまでの範囲で「熊野」が通用するのか?我々に「熊野」の意識はない、という串本、古座の住人たちや、むしろ伊勢神宮のエリアだという尾鷲の人々が、車には「くまの、くまの」と言い出しはしないか?と、私は意地悪く見守ることにしている。

 私にとっての熊野は、そっと「スミッコ」の熊野、ということにしておこう。熊野が黄泉の国の入り口と言われるのも、いずれは行くべきところへ近づいたことであり、その足がかりの終の棲家としては適切な選択だった、とこれにも満足している。

 鈍色の冬空に、果無山脈はその名の通りどこまで続くのか。その果ては、どう見ても黄泉の国へと消えていくように思える。そして四方、幾重もの山々の襞の奥に、日が昇る東の果てには想像だけの、みやびな「みやこ」があったに違いない。

 冬霧の熊野の果てはいづくにや

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『みちしるべ』熊野より(21)**<2006.9.&11. Vol.43>

2006年11月03日 | 熊野より

三橋雅子

<熊野・八咫(ヤタ)の火祭り>

 黒い熊野の山々を背景に、ごうごうと火が燃え盛る。山伏たちがなにやら儀式めいた火の扱いを繰り返して、やがて山の奥深くに消えていく(ように見える)。チリンチリンと鳴らしていく鈴の音だけが暗い中に寂しく響き、山伏の白装束が闇に吸い込まれていくのと一緒に、鈴もはかなげに消えていく。勇壮果敢な炎、それを操る山伏たちの勇姿と対照的に、消えていく鈴の音のはかなさが耳に残る。炎はまだまだめらめらと、黒い闇を舐めるように踊っているが、山伏達が消えた方向の視界は黒く閉ざされているだけに、他の感覚が鋭くなるのか、もう聞こえないはずの鈴の音が聴覚の底に残る。

 祭りはこれより前に本宮大社から、山伏が担ぐ炎の御輿や時代行列が大斎原(オオユノハラ)まで蝋燭を灯した参道を静々と行く。暮れなずむ、ほんの暮色が翳る中、点々と灯る足元の蝋燭はむしろ、ちょうど青々と実った稲穂を映し出す。かつての「蟻の行列」詣でを模した、平安装束に編み笠の女人達が一段と眼を牽く。これを追って、カメラを持って走るのや、行列の後に続くのは観光客か報道関係者で、地元の人たちはほとんど見かけない。行き先は熊野川のほとりの、もともと大社があった場所、水害(明治22年・1889年8月)で流されて、今の小高い所に移る前の本来の地である。今は大鳥居が一つあるのみ、高さ34メートル幅42メートルの日本一の大きさとか。この日はライトアップされて、空に向かって銀色に巨体をさらしている。

 毎年、定型の行事が行われる中、一つだけ年替わりのイベントがある。今年は佐野安佳里さんの弾き歌いライブ。雨の時は室内の会場も用意されているが、燃える火が黒い森と空に放たれ、ちらちらと火の粉が舞う中でこそのライブであろう。今年もぽつぽつと雨の兆しが関係者の顔を曇らせてはいたが、何とかそれ以上の濡れ場にはならず、手拍子がアンコールの拍手に変わって、いつも鎮まり返っている山と川が賑わった。

 目玉はやはり熊野太鼓か。大太鼓が文字通り熊野の神々に聞かせるごとく、厳粛に黒い森と空に轟く。このいざなぎ・いざなみを讃える天の舞に続き、地の舞、人(ジン)の舞で大小さまざまのあまたの太鼓を賑々しく奏でながら、打ち手はこの世の喜怒哀楽を髣髴とさせるように声を発しながら踊りまくる。若々しく腿高く舞いながら、確かなリズムと音を小気味良く発しているのは、連れ合いがよく行く喫茶店のママさん。中年も遥かに過ぎているはずだが。この日は店は閉めて、その代わり次の定休日は律儀に開けているとか。あらっ、あれは見たことあるような、ねえ、あれ、〇〇課長さんじゃない?あの白髪。ウン、そうみたいだな。きりりと鉢巻をねじり上げ、どすの利いた掛け声高く、軽々しいステップで打ちまくっている姿は、役所に所在なげに(?)座っている時より遥かにダンディだ。

 太鼓の余韻が冷めやらぬうち、八咫踊りが始まる。これには知った顔もいくつか。同じ浴衣がちらほらするのは、温泉の泊り客か?音曲と手拍子を背に蝋燭の帰り路を辿ると、むせ返るように迫る稲の匂い。風に揺れて頼りなげに点々と続く蝋燭だけの足元、またしても暗きに触発された嗅覚の活動か、稲がこんなに心地よく鼻腔をくすぐるとは知らなかった。昼間、あんなに田んぼの風を浴びているのに。

 我が家への山路を曲がりくねりながら振り返ると、遠くの山の頂が断続的にぽーっと赤らむ。踊りも終わったようだな。花火があんなにしか見えないの?そりゃあそうだろう、こんなに山が遮ってるんだから。三田の花火は家から見えたのにね。ここは10キロも離れてるし。車は真っ暗な山の深みに吸われていく。

 私は外でコーヒーを滅多に飲まないが、一度いざなみの君の店で太鼓のことを訊いた。祭りの間近には、猛練習で大変なんでしょう?お店を閉めてから?なにしろソロでなく指揮者もなくて独特のリズムがぴたりと合うのには、よほど息が合わなくては。しかし、毎週欠かさずやってるから、特に間際だからといって…と意外な返事。なるほど、そうでなくてはそれぞれ仕事持ち、長続きはしないだろう。それでも東京公演などで、永の休店のこともある。連れ合いが、まだ休みかな、と寂しがる。

 八咫の火祭りとは八咫烏の祭り。神武天皇が熊野の山深くで道に迷った時、道しるべになって案内したと言われる、あの八咫烏にちなむ。小学校の確か修身の教科書の一頁目に、色刷りで弓の先に烏が止まっている神武天皇の絵があった。あれが熊野の話だったとは。しかし戦後の小学生は神武天皇など知る由も無し?

 8月も暮れ、夏休みは残り数日。今年も無事祭りは済んだ。

 八咫祭り熊野揺るがす大太鼓

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『みちしるべ』熊野より(20)**<2006.7. Vol.42>

2006年07月05日 | 熊野より

三橋雅子

<蜜蜂住宅事情>

 ある晴れた日、気持ちのいい午睡を突然の異様な物音で中断された。ガーンガーンガーンガーンとけたたましく、さては火事?いや、いつかの山火事の時はこんなのではなかった、ちゃんと「〇〇で山火事発生」と広報のアナウンスが入ったもの。何が起こったかわからぬまま、連れ合いが音のする方、お隣さんへ走る。やがて帰ってきた彼は、一輪車の舟をはずして鉄パイプでガンガン叩き出した。私にも同じようにやれ、と目で合図をする。なんなの?何が起こったの?といっても、首を振って、俺にも分らん、とにかくやるんだ、と言う。やれったって…仕方なくそこらの金物を深して、古バケツと鉄棒の切れっ端でがんがんやり出した。何がなんだか分らないまま、しかしガンガン音を立てるというのは、なかなか楽しいものだ。別に解消させるほとのストレスがあるわけではないけれど、物音を気遣うのでなく、思い切り、でかい音をどんどん立てろというのだから、これは愉快。ええ調子でガンガンやっていたが、物の10数分も経たぬうちに、たちまち腕が疲れてきた。ボロンボロンとなると、もっとしっかりガンガンやらんか、とけしかけられる。ああ、もうしんど、それにしても、お隣さんは何ということだろう、目を覚まされた時からもう何10分もぶっ続けに、リズムを乱すことなく打ち続けている。すこい持続力に尊敬してしまう。

 やがて音も小止みになったので様子を見に行くと、音出しの張本人は「もうあかんな」と空を見上げている。尾根に向かって、空には真っ黒な塊が移動している。蜜蜂の大群である。こんな天気のいい日には、蜂が巣別れをして飛び立っていくのだという。次なる新しい巣に向かって行く蜂の群れを、自分が仕掛けた巣に呼び寄せるための音出しだったのだ。遠くに行こうとするのを、物音で脅かして諦めさせ手近に引き寄せるというのだ。尾根を越えてしまっては、もうダメというが、彼の眼光は突然鋭くなって「おう、いけるかも」とキッと黒い集団を見据えている。こちらには何の変化も見あたらないが、尾根を越える寸前にUターンして舞い戻る気配だと言う。ややあって、ほんとに黒い塊はこちらに向かって下降し始めた。ガンガンの脅しが功を奏して尾根越えを諦めたのだと言うが、シロウト考えでは物音に脅えれば、急いで尾根を越えてのがれようとするのではないかと思うが。現に舞い戻ってきているのは、危険を感じて飛行を続けるより、先ずは古巣へ退避!とボスが命じるのか?それは蜂に訊いて見なければ分らないが先ずはめでたし。お隣さんも、ようやく「おおきに」と笑顔を見せた。しかし果たして彼がしつらえた巣に入ってくれるかどうかは分らない。そこら中、木をくり抜いて作られた蜂の家があちこちの木の下に点在しているのだ。しかしまた、仮に他人の巣に入ったとしても、諦めるのは早い。しばらく様子を見て、居心地が悪いとまた飛立っていくのだと言う。ということは自分の巣に入っても安心は出来ない。お気に召さず、他所を求めて何時その巣を後にしないとも限らない。何せ蜂にとっては、これだけ選り取り見どりで好きな家が選べるのだから、ぜいたくな住宅供給過剰なのである。何を急いで、最初の物件で即決することがあろうか。それにしても、ごく一部の蜂達が、おさおさ怠りなく絶えず、よりよき住宅を求めて、あちこちの物件を偵察に行っているらしいという。スワあそこに移動するぞ!とか、せっかく引っ避してきたけど、ここはダメだ、また別件を探そう、などの重大決断を下すのは何蜂?それより何より、巣立ちの途中に危険を察知した時の、進むべきか退却すべきか、などのとっさの状況判断をするのは誰なのか?女王蜂はただ「よしなに」というだけで連れられるままなのか。連れ合いは「女王様、新居はお気に召されたでしょうか?それとも別件を探しましょうか?」くらいのお伺いは立てるじゃろう、ウン、とうなづいたり首を振るくらいの意思表示は…などと勝手な妄想に耽っている。それにしても、協議制でなく厳密な役割分担が整っているのかしら?蜜蜂の社会構造は奥が深いようだ。

 人間向けの住宅は、となるとそうはいかない。空き家は至る所、そのままにしておいて朽ちさせるのはもったいない、と思うようなのが蜂の家に劣らずあるのだけれど、他人を入れたり、人手に渡すことは滅多にない。盆暮れに帰ってくるのも事実だが、もうとうに、そういう往来が耐えて久しいのに、何時の日か帰るやも知れない、あるいは子供や孫達がいつ何時、UターンまたはIターンして来るかも知れない、という望みを託してのことだろうか。その望みを断ち切るのと引き換えの売値が、あまりにも低いということでもあろう。我が家の終の棲家が簡単に手に入ったのは幸運としかいえない。

 やがて古巣に舞い戻った蜂の軍団は、我々の眼前でブンブンウワーンウワーンと話し声も聞き取れぬくらいの騒音で飛び回っている。「刺されない?」と訊けば、「今それどころではないから、人間なんか構ってられない」とますます顔を近づけ、「その代わりチョッカイ出したら総攻撃に会うぞ!」と怒鳴る。またしても人間は無視されっぱなしか。無視といえば、ぼさぼさの裏山を掃除していると、連れ合いが蛇や鳥は平気で俺に寄って来る、それも綺麗にした後、した後を追って、と慕われたかのように喜んでいる。実はこうして下草を取り除いて土が見えると、ミミズなとの虫が出てきたり突っつきやすくなるので、後を追って寄って来るらしい。単に怖くない相手と無視されているだけなのだ。

 こうして蓄えたほんものの「山の蜂蜜」は貴重で、我が家もちょっと舐めさせてもらった。濃厚というか、山の味と言おうか、ガーンと五官こたえるような蜜である。高値で流通するようだが、ほんのちょっぴり舐めれば事足りる感じ。ちなみに「これ、もし分けてもらうとしたら、一体いくら?」と余計なことを訊いてしまった。向こうを向いて聞こえたのか聞こえないのか黙ったまま。無視されたか?ややあって、「キロ2万円」。これが相場で、それを思い出すのに時間を要したのか、これ位だったら我が家は手を出さないだろう、とその値踏みにかったのか、詮索する気もないが、商談はめでたく成立しなかった。猪肉の時もそうだった。お隣さんの差し入れに味をしめて帰った息子が、友人が食べたがっているから、送ってもらうのに値段を訊いてくれ、と言ってきたので、気が進まなかったがおそるおそる訊くと、やはり暫しの沈黙。ややあって、「キロ5千円」とポツリ。国産牛のヒレとやらに舌鼓を打つ趣味もない我が家はもちろん、東京の金欠若者に手が届くはずもなく後日断りに行ったが、食べるんならこれ、と1キロ近い塊を軽々とよこしてくれた。我が家とは金銭取引はしない、と言う意思表示と受け取ったのに、またドジをしてしまった。

 蜜蜂の巣立ちや黒き夏の雲

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