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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(9)**<2004.1. Vol.27>

2006年01月10日 | 熊野より

三橋雅子

<シカトする山の住人>

 猿達にはどうやら無視されてしまったが、シカトは猿だけではない。
 ばさばさと羽音がして、すぐ傍に烏が降り立った。こちらを見ても逃げようとしない。ほんとに烏?街中では烏をまじかにしげしげと見ることはなかった。人をみれば素早く逃げるのが烏。我家の前がごみステーションだったからひきも切らさず烏は群がるが、こちらの挙動に敏感に反応しながらの細心の餌漁りだ。その間猫も来る。おいしい物を先取りされちゃうなあ、とはらはらしての待機なのだろう。私が見ても、うちの犬達に与えたいと、よだれが出そうなご馳走がごろごろ、パックのまま手つかずのものまであって、肥料にされることもなく、こんなものを燃やすために貴重な燃料を浪費し、焼却炉を痛めるくらいなら、烏や猫達に処分してもらった方がましなのに、と胸が痛んだものだ。

 ここの烏は、無論ありもせぬ「燃えるごみ」漁りに来るわけではない。彼らなりの目的はあるのだろうが、その眼光の先には、人間の存在など全く関係ないらしい。ここまで無視されるとは。

 夜道、車の前方に小さな兎が頼りなげに小走りしている。轢かれちゃうよ、早くおうちにお帰り、といっても一向に逃げる様子もなく、茂みに入ったと思うとまたすぐ出てきて反対側に行ったり、どうやら帰るべき巣穴が分からなくなって探しているらしい。追っている車など全く無頓着で無視の構えだ。こちらは最徐行で出ては止まり、まるでひどい渋滞時さながら。ようやくおうちが見つかったのか、戻ってこないのを見届けて発進させると、急に前方直近にまた飛び出してくる。急ブレーキでこっちがフロントグラスにぶつかりそうになる。全くもう!相棒は舌打ちもせず、渋滞時のイライラはどこへやらハンドルにあごを乗っけてもう長期戦の構え、こちらもー眠りでもするか…。しかし出たり入ったりの小兎の仕草は可憐で眠る気にもなれない。やれやれ何時になったらこちらも家に辿り着けるのやら。

 外出しようと最初のカーブを曲がると隣の優秀な猟犬が道路いっぱいに寝そべって通行止めをしている。そろそろと車を寄せてもしらんぷり、相棒はオイどいてくれよ頼むから、と懇願するが完全無視。動物にはもうめろめろの舐められっぱなしである。仕方なく降りて、抱きかかえるようにして脇へどいてもらい、謝るようにしてやっと車のお通り。

 然しこの犬とて、いつも意地悪なのではない。熊野古道への上り道を訊かれて、連れ合いが我家の裏山から案内して行った。私はちょうどパンを捏ねていたところだったので、これを寝かせつけて、一足遅れて駆け上っていったが、殆ど人の通らない道のこと、伸び放題の草や枝葉で道なき道に等しく、獣道の方が開けていたりする。方向音痴の私は自信を無くして、たちまちおぼつかない足取りになった。するとがさっと音がして、まさか猪?とひるむや、真っ白い、「千と千尋」の狼かと見まごうものが目の前にぬっと現れて、腰を抜かすほどに驚いた。なんだ、となりの猟犬じゃないか、まったくもう、とぼやいている間に彼はきびすを返してサーッと駆け上っていく。八八ーン、道案内してくれるのか、と後を追えば、確かにいつもの道。逃げる猪に追いついて、がぶりと急所にかぶりつくという俊足は、あっという間に見えなくなるが、心細くなる頃またがさっと現れて足元にまつわりついては、先を駆け上る。尾根まで辿り着いて、先発隊と合流した時には、もうどこにも姿をみせなかった。賢い犬はとても優しく、つつましい。車に対してだけ意地悪で横柄になる。ここは歩いて通るものだよ、とさとしているかのようだ。ますます賢い。

 蛇も日向ぼっこか、べったりとお腹を地べたにつけてよく道をふさいでいる。足音などに機敏に反応して、こちらが気付く前にさっと身を翻して草むらに滑り込むのだから、車に気付かぬ訳はない。それが悠々と寝そべっていて、徐行する車すれすれに、やおら身を起こしてのっそり横切っていくのは、どうみても嫌がらせとしか思えない。一歩間違えぱ轢死してしまうのに。古来西洋では賢さの象徴として崇められた蛇の事、これこそ車社会に対する警告か?

 冬日落ち家路尋ぬる兎あリ

<猿その後>

 今年の猿害、猪害はことの他ひどいと言う。冷害で山の住民達にも辛い食糧難なのだろうか。彼らの好物サツマイモに至っては、早くも作付けの段階で苗を皆食べられてしまったとか、小指くらいで掘られてしまった、ガードを完壁にしていたから育つまでもったが、終にどこかから忍び込まれて泣く泣く全部掘ってしまった、後1週間置けばもちっと太るのに、などなどお風呂で聞く嘆きである。「畑作ってんの?」と訊かれて「ええ、今日はとうもうこしが2本採れて、おいしかった。」といえば「んまあ、もろこしなんぞ、ことしゃ一粒だって口に入らんだよ」と羨ましがられる。連れ合いが手ぐすね引いていた石投げもカンカン鳴らしも、とうとう出番はない。お隣さんの猟犬のお蔭だろうか。サツマイモは初めてなので、こわごわ我畑と、これはとても見込み薄かと、畑をしない隣の猟犬の真下に植えさせてもらった。財産の分割管理である。いずれも10月末に丸々太ったのを掘り起こすまで完全無傷。ありがたいことである。獣害よけに犬を飼う家は多い。しかし、わさわさ、ごーっと山を轟かせてやって来る猿の軍団には、犬の方が恐れをなして納屋に逃げ込んで震えているとも聞く。隣の犬達はいずれも筋金入りの優秀な猟犬である。2歳になるかならずで親について果敢に猪に立ち向かい、牙でやられて片目失明になっても猟を怖がる気配もないという。別の犬は、ある日通りがかると飼い主が片膝で押さえつけて、長ーく裂けた太ももを縫い合わせているところだった。犬は肩で息をしながら、悲鳴をあげるでも暴れるでもない。あっぱれだと思った。こんな、つわものどもが目を光らせていれば、猿はおろか、猪も鹿も手を出せないであろう。お犬さまさまである。

 しかし「どうれ畑の具合は?」と見に来た古老が言うには「ははー、こんじゃあ、猿もこんわなあ」と。??群れをなしてやってくる猿軍団をまかなうには、獲物が少なすぎるというのである。二人きりの口をすすぐだけの、ちょぼちょぼの作物である。そしておらが畑以外、辺り見渡す範囲に作物はない。猿も様子を見にきては手をかざして、群れの頭領はこれじゃあ喧嘩になるか、と諦めて素通りするのか。町からの配布物にも、猿害を防ぐには先ず餌場を作らない事、とある。我家はそれを実践していたのか。つくづく少なき事はよき事かな、と想うのである。しかし、ほんとにそうかなあ、という疑問も残らぬわけではない。真実は、神ならぬ猿のみぞ知る。

 くれないをチラとのぞかせ地の宝

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『みちしるべ』熊野より(8)**<2003.11. Vol.26>

2006年01月10日 | 熊野より

三橋雅子

<冬支度>

 冬至まで2ケ月足らず。杉と檜に囲まれた山の日暮れは早い。日中はさすがに日本列島をかなり南下しているのだな、と実感する強い日差しである。だが、さっきまで真上にあったお日様が、とんがった檜の先をかすめて見えなくなったかと思うと、急速な温度低下。冬支度の逼迫がひしひしと忍び寄る。焚き物は、春にたっぶり蓄えてあるが、焚き出せばまたたくま、備蓄に精を出さねばならない。きのくにのこと、木は豊富そのもの。雑木こそ、いくらでもというわけにはゆかぬが、杉檜なら間伐材始め切り出した後の落ちこぼれが、ごろごろ。拾いにいく分には整理に助かると大歓迎される。焚物には細めが運ぶにも割るにも楽なのに、欲張りの連れ合いは、到底一人では持ち上がらぬような大木に手をつける。当然私は、いくら軽い方とはいえ真っ赤になって腰がびびっと来そうになりながら汗だくの奮闘である。全く人使いの荒い!我ながらずい分使いでのある労働力だと思う。奴隷なら相当高く売れるだろうに。尤も私の殆ど唯一の取り得は、「丈夫で長持ち」なのだそうだから仕方ない。息子達が家を出るときの父親からの餞別の辞は「いいか、ちゃらちゃらした見ばえのいいおなごに引っかかるんじゃないぞ、お母さんみたいに、見かけは不細工でも丈夫で長持ちするのをじっくり探すんだぞ、それだけはお父さんを見習え」が決り文句なのである。私は憮然とするが、真実を含んでいるから異議も挟めない。神妙に正座して、ハイ、と聞いている息子の姿を見ると吹き出すのがおちである。かくして、貴重な労働力であった息子達は一人ずつ巣立った。あとは頑健な私が相棒を勤めるしかない。

 こうして運んだ木材は豊富な薪になるはずなのに、そうはいかない。連れ合いは吟味をして、これは何やらにいい、あれも何々を作るのに取っておく、と欲張りも極みに達して薪用から外される。おかげでそこら中ごろごろと材木だらけ、そして薪の運び出し、軽トラヘの積み上げ積み下ろし、石垣上りの運搬…の作業は続く。なかなかのトレーニングである。何回ジムに通う計算になるだろうか。しかし、門柱兼表札兼ポストにするのだと言うトーテンポールまがいの丸太はまだそのまま。郵便屋さんを待たせる訳にはいかないから、私が「不細工な」工作でにわか郵便受けを作って久しいが、作り手に似て、これもなかなか「丈夫で長持ち」をしている。

 ストープの前身はLPガスの空ボンベ。溶接設備がないのが幸いして、これの加工は板金屋に頼んで早々と出来上がった。受け台の枠作り、鉄板張り、煙突据え…の作業も、迫り来る寒さが想定できるのか順調に仕上がり、火入れ式は地酒「ほんまもん」でめでたくブラボーとなった。むせるような檜の香に包まれ、ごうごうと火の踊る様は、いつまで見ていても飽きない。上蓋の上でシュンシュンとたぎるお湯、このぬくもり…スキーの山小屋がよみがえる。若かった。結婚して一度だけ二人でスキーに行ったっけ、後は子育ての修羅場の連続だった。体が覚えた事は忘れないというが、今スキー靴を履いて、果たしてウェーデルンまがいのシュプールが描けるだろうか?そういえば子供たちとスケートに行った時、子供時代から40年のブランクがあったが、こわごわリンクに立って足を擦り合わせたら、しばらくよたよたしたが、まもなく「おかあさん、うめー」の歓声が上がったものだ。スキーもまだ捨てたものではないかも知れない。当節の、豪華絢爛というスキー場に行く気にはなれないが。(少し自慢話に滑ってしまった。)現実のストーブの前に戻ると、一番嬉しい副産物、ロストロの下、灰が落ちる所に放り込んでおいたサツマイモが、世にも絶品の焼き芋に出来上がっている。

 小春日の汗や肩食む木の香

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『みちしるべ』熊野より(7)**<2003.9. Vol.25>

2006年01月09日 | 熊野より

三橋雅子

<山姥、白兎になる>

 先に出かけた連れ合いと大阪で落ち合うべく、一人でバス停まで下山する事になった。5キロの下りはテクで十分だけど、自転車で、曲りくねった急カーブを下るスリルと、緑の風を切る快感が捨てがたく、荷物もあることだし、と愛車にまたがる。ブレーキを最強に、最細心のハンドルさばきで最大の難所を通過、やれやれ、ああ、この薫風の超特急…と悦に入りかかったとたん体がふわっと。スライディング、と思った最初のほんの一瞬はいつも“いい気持ち!”という気分がよぎる。次の瞬間恐怖に変わるのだが。いつか、まだもすこし若いとき、夜道の田畑を走りながら、うっかり他に気を取られていて、ガードレールに沿って曲がるのを忘れた。気付いたときには目の前に道がない、しまった!と同時に、気持ちいいー、私は飛んでる!。次の瞬間、自転車の突起物が凶器になる!と気付いて、出来るだけ遠くに飛ばした。そして着陸。幸運にもそこは収穫後の芋畑だったらしく、正に軟着陸。尻もちはついたものの気持ちよかった。散乱した商売道具をかき集め、自転車を“私が飛んだ”発車点まで担ぎ上げるのが、これは全くなんとも重労働だった。翌日、明るいときに通ったら、見覚えのある柄のものがふわふわしている。昨夜は書類に不足はないか、顔に泥がついてないか、ということにだけ気を取られて、首に巻いていた物など念頭になかった。よくぞここに無事踏ん張っていてくれた、とお気に入りのマフラーを拾いにもう一度飛んでみる。両手を広げて。しかし、ドスンと落ちてあまり気持ちよくはなかった。やはりあれは、自転車の助走があってこその、快適な飛翔だったのだ。

 この度はそうはいかない。そうだ、さっきまで小雨が降っていた、当然のこの滑りのよさ、と感心する一瞬の気持ちよさは、もしやこのスライディングはガードレールのない谷側へ?という現実にはっとして、とっさにかけた全身ブレーキの痛さに変わった。愛車は足で取り押さえ、荷物もかなたに吹っ飛んでいるとはいえ無事の様子。立ち上がればしゃきっと直立できる。骨の心配はないが一張羅のズボンは見事に膝が抜けた。そこから血が滲む。それを草の葉で落とし、目立たぬ程度に泥や葉っぱを払って温泉へ。これは予定のうち、バスまでの時間はたっぷりある。番台のおっちゃんの目から膝頭を荷物で隠して、住民無料の湯の峰温泉へ滑り込む。誰もいないのでほっと。あちこち赤剥けだらけの、泥付き山姥もどきが白髪振り乱して入っていったら、湯治客もドキッとするに違いない。さすが熊野権現の湯治場は、本物の山姥が徘徊する?と恐れをなすか。先ずは気をもませなくてよかった。泥やこびりついた葉っぱやこけを丹念に流したものの果たして湯船に入れるものか、手の平やタオルであちこち押さえて恐る恐る…しかし意外なことに、思ったほどの痛みもなく、やがて手を外して首まで浸かることができた。案外、思ったより軽症だったんだ。ああ、この広い湯船を独占する、一人っきりの静かな朝風呂の心地よさ!かくて、しあわせに、その後の気ままな一人旅に移行して、傷は忘れ去った。

 バスは川に沿って、朝日に踊る様々な川の表情を堪能させてくれ、2時間足らずはあっという間。終点、紀伊田辺からJRで大阪に向かう。もとより特急に乗るつもりはないが、うっかり大阪着の時間など聞こうものなら、駅員はホームが違う、と特急番線を指して促がす。鈍行に乗る、というと、「これは御坊までしかいかへんで、その先また和歌山で乗換えでっせ!」「分かってます、それに乗るんです」に、彼は私の頭の先から、つま先までまじまじと眺めた。なんでそう、乗客を画一的に扱うんだろう?急ぐ客ばかりではないのに。

 海岸線をぎりぎりに走る、列車ならではの景色もあるのだ。無論その逆もあって、車で通る時、ヤーイ線路はあんな遠くの山際だ、と存分に潮風を楽しむときもあった。その代わり車道が海辺をどんどん外れて、線路と入れ替わるときもある。車で見損なった小さな入り江に、ひっそり休む小さな漁船、小魚を一つ一つ干している小さな干物屋、今度車のとき、あんな干物を買おう、などと考えながら、列車がコトンコトンと止まる、小さな駅の知らない駅名を読む。特急列車はこんなものを全部吹っ飛ばして、あっという間に目的地に着いて降ろされちゃうのだ。もったいない。メリーゴーランドなら、永く乗っているほどお金が掛かるのに、列車は同じ目的地に行くのに、永く楽しませくれるほど安くなる。

 その夜連れ合いの実家で、もう温泉にはいってきたから、というがうちのお風呂もいいんよ、いつでも沸いてるんだから、一度入ってみて、と義姉に勧められて、えっ、あのラジオネア菌とかの騒ぎのあった?は飲み込んで、素直に入ってみる。お湯をかけた時にピリピリするな、と今朝の傷を少し思い出したが、そのまま湯船に浸かった。とたん、あちこちから火を噴いたかと思うような痛み、飛び上がって湯船からダッシュ、なんと足といい、腕といい赤剥けだらけが再現されている。咄嗟には事情が飲み込めなかった。今朝の傷は軽症どころか、かなりの痛みを伴う擦り傷だったのが、図らずも直後の温泉で癒され、忘却の彼方にいってしまっていたのだ。それが塩素がきついに違いないお風呂で、一気に赤剥けがよみがえったのだ。(大阪の水道水は、猫も飲まないというほどのシロモノだが、ラジオネア菌防御には更に塩素が投入されているのだろうか)さながら因幡(いなば)の白兎が、だました鰐たちに皮を剥がれ、それが効くとだまされて海水に浸かり、ひりひり痛がっているようなものだ。その晩、私は何度も痛みで目を覚ました。

 湯の峰温泉は正に、白兎が大国(おおくに)主命(ぬしのみこと)に教えてもらって傷を治した、あの蒲(がま)の穂である。帰宅後一回の湯治で痛みは消え、あっという間に喉もとを過ぎてしまった。この湯は糖尿病に効くとか、血糖値を下げる、あるいは皮膚病に、切り傷に、アトピーが完治したといって三重、大阪からポリタンクを10も20も満たして買って行くのを横目で見るだけで、これまで確かめる術もなった。ただ、温泉湯で入れるコーヒーはおいしい。朝粥ももっぱらこれ。うっすらと色が付き、ほのかに温泉の香がして、こくのあるお粥になる。温泉湯豆腐は固くならない。わらびやたけのこのあく抜きに、ゆで卵にとお風呂の度ペットボトルに汲んで帰る。その種の重宝でしかなかったこの湯が、抜群に傷に効くことを身を以って証明してしまった。

  一人湯の広き湯船に朝日受け

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『みちしるべ』熊野より(6)**<2003.7. Vol.24>

2006年01月09日 | 熊野より

三橋雅子

 月はこんなにも明るくまんまるくて、三日月はこんなにも鋭くとがり、星はこんなにも湧き出るように、見つめれば見つめるほどいくらでも増えてくるものか、と毎晩有頂天になっていた。ところがある晩、我が家に着いて車のライトを消したとたん、真っ暗闇。足元はもちろん天を仰いでも木と空の区別すらつかない。こんなにも本物の闇というのがあったのか…。漆黒の闇という言葉を思い出す。それにしてもあまりにも澄明な月と星に毎晩うつつを抜かしていて、こういう夜もある、ということなどすっかり忘れ、懐中電灯を積み忘れたのはうかつだった。とにかく玄関まで辿り着かねば。しかし十数段の石段は一段ごと個性豊かで幅も高さも不規則な上、カーブまでしている。文字通り手のひらでまさぐりながら這い上がる仕儀となった。やっと平地になったかと直立して歩き出したとたん、まだあった最後の段に、したたかにつんのめりそうになる。やれやれ何たるバリア!

 いつか高齢者の住み替えについてテレビで検証していたのを思い出す。それによると第一に配慮すべき条件は坂道がないこと。しょっぱなから違反。坂道どころか車から降りたとたん家に入るにも、畑に行くにも石垣だらけなのである。条件はさらに、今までの友人達と会いやすい距離、病院に近いこと、公的なケアを受けやすい距離…と続くがことごとく失格。いかに常識から外れているかを思い知らされる。

 たっぷりしし肉を食べ過ぎた腹ごなしに、散歩に出る。今夜は煌々たる満月、白く道を照らしてくれるのも心強く、ライトは不要と揚々と出かけた。ところが10メートルも行かぬうちカーブを曲がったとたん月は消えた。それでも杉と檜の木の間からちらちらと道が照らさている間はよかった。次第に月明かりは細り、遂に完全な真っ暗闇。またしても手ぶらのうかつさ。遠く下方に白っぽい川面だけが、うっすらと見える。次のカーブを過ぎればまた月が姿を現すであろうが、ガードレールも白線もない曲がり道は、谷側を踏み外せば川までの崖を転がり落ちることになるし、山側に寄り過ぎれば側溝に落ちる。つくづく中道を行くということの安全性と、かつ如何に難しいかを知る。遂に、楽しかるべき夜道の散歩は中断してUターンとなる。

 それにしてもこの暗闇、なにか記憶の底にうずくものがある。幼い時の…それはあの、満州からの引揚げの道行き、終着地に着ける保障は誰にもなく、いつ終わるかも知れぬ、広い中国大陸の果てしなき行軍のひとこま、無蓋車で荷物さながらに運ばれる揺れの記憶に、暗闇の恐怖が絡み合う。無蓋車の一番の敵は雨のはずだった。体が濡れるのは真夏のこと故大したことではない。それより荷物が濡らされたら最後、水を含んだそれは到底背負って行ける代物ではなくなってしまう。ビニ−ル製品のない時である。背中に背負い、両手はもちろん首にまでぶら提げるべく、厳選された荷物の大半は捨てなくてはならないであろう。星が翳る空を眺める大人達の不安は、そんな暗闇に列車が止まった時更に深刻な恐怖に変わる。無論用足しの為の定期的な停車はあるが、こんな夜は我慢を強いられて女子供達は中央に移動し、周囲は男達で固められ、傘を突き刺して防備態勢に入る。荷物を略奪に来る暴民の襲撃に備えてである。漆黒の闇は、この時の、息を潜めて発車を待つ恐怖のひと時を思い出させるのであった。

 ある夜帰宅の道中、我が家とおぼしき辺りにぽうっと灯りが見える。あるべきはずのないそれは、カーブのたびに見え隠れして狐の提灯でもあろうか?はたまた、本物の山姥が、えせ山姥と仙人という格好な獲物の帰りを待ちわびて、刃物でも研ぎすましている灯かりであろうか…?最後のカーブを曲がると確かに我が家の前に、なんとそれは本物の街灯であった。??? 区長さんが新住民の為に段取りしてくれたという。まあ、有難いこと、と感謝したものの、次の瞬間二人はおもわず顔を見合わせる。折角の星が、あの鮮明さを失うのだ。どうしよう、我々にとっては足元の便利さよりも空の明るさの方が大事なのに。区長さんに本心を吐露して元の暗闇に戻してもらおうか…悩んだ挙句、区長さんの厚意はそのまま受けておくことにした。10メートルも動けば、星の鮮やかな輝きと空の奥深さは取り戻せるのだから。

 星屑の湧いて溢るる天の川

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『みちしるべ』熊野より(5)**<2003.5. Vol.23>

2006年01月09日 | 熊野より

三橋雅子

<意外とグルメ?>

 熊野の中でもこれだけの僻地であれば、いよいよベジタリアンになるか、とそれとも年相応の食生活、と期待と覚悟をして来たのであったが。山の恵みの柿も栗も、猿か猪か鹿か、はたまた狸か狐か、ともあれ山奥の原住民が雑木を切られて食べ物を失ったのであろう、哀れを誘うほどの食べられようで残っているのは柚子のみ。棘がすさまじく、酸味のきついこの実だけは、山のけもの達も手がでないのか。単調な杉と槽の山を、たわわに黄色く彩っている様は“柚子の孤独”とでも名付けたい風景であった。

 めぼしい物は柚子だけ?さらば仙人の里にふさわしく木の皮とまではいかずとも、いずれ仙人食に甘んずることになるのか、といささかうら寂しく散策する足許に、おっとっとっと、と踏みつけそうになった赤いいたいけな沢蟹。いるわいるわ、うじゃうじゃと壮観な横歩きの行進。なんと可愛い、としばし眺めるうち「そうだ、これ唐揚げにして食べよう!」しかし「すぐ食べ物にすることばっかり…こんなん可哀想じゃん」と蟹とたわむる連れ合いは全然のってこない。「可哀想って、そもそも動物は何かしら命ある物の命をもらって命をつないでいるんだもの、最小限を有難く、心して戴くしかないんじゃなくって?殺すところを見ないだけで、肉だ、魚だ、と舌鼓を打っているのは誰?」食を司る者としては余計な感傷は禁物だ。

 現に翌朝川べりには、無残に食いちぎられた思わしき蟹の足と鋏だけが散乱していた。「ほら、私達が食べなくたって、こうして猿か鳥か何かに食べられているのよ、彼らの分け前をほんの少し分けてもらっても罰は当たらないでしょ?」。しかしいまだに蟹は口に入らない。ほんとは私とて、食材の払底より昔東京の新橋だったか、気取った飲み屋で付きだしに出てきた沢蟹の食感が忘れられないのだ。

 この地の住人となった挨拶に区長さんの案内で回ると、紹介は必ず「今度こっちに住民票を持ってきてくれた…」で始まる。なるほど常住していない別荘が2軒ほどあるが、ここは住民として認知されていない模様。住民票の有無がものをいうのは、財産区である湯の峰温泉が、ただになるか否かもこれで決まる。とはいえ、選挙権と同じく3カ月以上の居住が条件。晴れてみつきが満ちた時「住民票の写しを取ってくるんでしょう?」と番台のおっちゃんに聞けば「ほう、みつきになったか、はいり、はいり、そんなもんはいらんよ」。自己申告である。生粋の地元でも盆暮れに帰省する子供、孫はもちろん有料。

 紹介は更に「まだ六十台で…」と続く。ここには六十台以下の当主はいないそうな。還暦も遥かに過ぎて、貴重な若手呼ばわりされるとは…。住民票と“若手”ゆえの歓迎の印か、それはそれはと行く先々で庭から白菜、大根、高菜に生しいたけ…と自家製のお土産をどっさり。まだまだ畑の収穫には程遠い我が家には何より有難い贈り物。中には今朝採って来たンよ、少ないがのう、と中ぶりのマツタケ2個、そんな貴重品を、と恐縮するのを、なんの明日また採れるがな。有馬の鉱泉せんべい一つぶらさげていって、まさに海老鯛。ご近所回りと言っても、車での移動だからいくらでも鯛は積める。もっとも車を乗り捨てて登らなければならないところもある。そこが済んで下りようとすると、まだもう一つ、と上を指す。と言っても何も家など見えない。だいぶあるで、と区長さんはスタコラ上がっていく。けっこうな山登り、スピードは手加減してくれているようだが、息も大分荒くなってきた頃ようやく何か見えてきた。20匹ほどの犬とそれぞれの犬小屋20個ほどが、ほぼ等間隔に並んでいる脇に、お婆さんが、よう登ってきたのう、と出迎える。ああ犬屋さんなんですか、と言えば、なんの次々子を成したのが捨てられんじゃろ、とうとうこんなんなってしもうた。まあ、と呆れるが、分かる分かる、そういえば我が家とて人のことは言えない。住宅地のど真ん中で、5〜6匹は年中のこと、一時は子犬の貰い手が見つかるまで11匹のこともあった。人間の餌作りの前に、先ずは犬用のを大鍋一杯、お腹を空かせた子供たちがめいめいの担当犬の散歩と糞の始末を済ませている間に、本番の食事作りにおおわらわだった毎日。このお婆さんも大変だなあ。目の前は麦畑。この辺でも珍しい。全部犬の餌やで、とは何ともゆとりの暮らし。

 その夜はたっぶりの野菜に、炭火で焼く純国産のマッタケの香りを堪能した。

 ある日、お隣さんがもじもじと、しし(猪)なんか食うかのう、と聞きに来た。もちろん喜んで、と飛びつくばかりに答えると、じゃあうちの庭で一緒に、とのお誘い。だが食べられんかったら無理せんでええんよ、ちゃんとそういうてや、気にせんから遠慮せんでな、と念の入った気の使いよう、思いやり。私はふと、文化人とはこういうことではないのか?と思った。他人の暮らし方を犯すことなく認めあって、自分の価値観を押し付けない…。どこぞの国の、自国の宗教やら価値観やら自称民主主義の押し付けと我が身の繁栄のために戦争を仕掛ける野蛮極まる指導者は、この僻地の、他人、他文化への気遣いを見習ってほしい。

 少し冷え込む晩秋、景気よく燃える焚き火の脇にしつらえた木の株の椅子と板を渡しただけのテーブル、あ、これは歓迎会だったんだ、と遅まきながら気が付く。ぐつぐつと煮える猪肉は、あんなに注釈何だったことを思って恐る恐る口にすると、とろっと軟らかく、しかもこれぞ肉、というおいしさ。昨日仕止めた、ほんの子どもの猪だと言う。私達のために、軟らかく食べやすい、いわば極上物を用意してくれたのが問わず語りにありありと分かった。というのに我相棒は、軟らかすぎて物足りない、とぬけぬけとのたまう。私は慌てて「ビフテキでもサーロインなんかはふにゃふにゃでダメ、噛み応えのある安物の方がおいしいって言うんですよ」。猪撃ちは苦笑して「今度、年取った硬いのを持ってくるから」。野生のは個体差が大きい(人間と同じ?)餌によっても違うから去年と今年じゃ味が違うと。前々から猪は特性の味噌だれでなければ臭みがあって、と聞いていたから、このおいしさの秘伝を聞いておこうとしたが、なんも、醤油と砂糖だけ、とそっけない。それにしても体がぽっぽと火照るのは驚くほど。野生の命を戴くとはこのことか。夜道の冷たい風が心地よかった。

 後日約束どおり、でかいのが獲れた、硬いよ、と1キロ以上もある猪肉の塊を持ってきてくれた。シンプルな味付けでいけるのは本当だった。適度の噛み応えはなんともいえない。しかもいくら煮過ぎても硬くなることはない。鹿も時々やってくるが、これまた猪とは違ったおいしさ。何ともあっさりして、その疾走を思わせる軽やかな味である。やがて、清流に走る鮎の季節。まだまだベジタリアンヘの道は遠い。

 猪鍋に向かひて二人きりを知

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『みちしるべ』熊野より(4)**<2003.3. Vol.22>

2006年01月08日 | 熊野より

三橋雅子

く水のカルチャーショック その2>

 水柱の蛇口を開けっ放しというこの地の水事情は、ちょっと愉快なショックであったが、実は水のカルチャーショックを受けたのは初めてではない。敗戦後旧満州から引き揚げて来て、東京の小学校に編入した時のこと。休み時間に水飲み場で、みんなが水道から直接水を飲んでいる光景を見て、それはびっくりした。私にはこれがなかなか出来なかった。それまで水道水をそのまま飲むなんていうことは、自殺行為に等しかったのである。厳しく禁じられていたばかりでなく、現に昨日まで一緒に遊んでいた友達が、登校時に迎えに行ったら亡くなっていた、ということもあった。水ばかりが原因ではないが、疫痢、コレラは茶飯事のこと。外出時には必ず湯冷まし入りの水筒を持たされ、外で物を口にすることは固く禁じられていた。自分の子育て期にも外食をかなり忌み嫌ったのは、この時以来のトラウマを引きずっていたのかもしれない。

 後に私は、生水を飲めるということが、いかに恵まれた、すばらしいことかということに気付かされた。水がそうであるように、日本という場所は、自然が人間に優しく味方してくれるところなのだということに思い至り、ようやくこの地を受け入れようという気持ちになっていった。それまで私は多分に少女らしい感傷も手伝って、自分が生まれ育った新京(現、長春)という街こそが“美しい街、私の故郷”という想いを抱き続け、からっとした気候風土、食べごたえのある中国料理、地平線に沈む真っ赤な太陽…が忘れ難かったのである。実際、この満州国の首都は、かつて後藤新平が関東大震災後に立案した「東京復興」計画が挫折に至り、幻となった夢の計画を、この新天地に託してほぼ実現したといわれる。水洗トイレ、下水道完備、どーんと広い真っ直ぐな道路、だだっ広い公園…が私にとつては街の当たり前の姿であった。そこから自分の意志にお構いなく無理に引き剥がされてきた、という大人への恨み(身近な大人は同じく被害者だったから、漠然と大人社会というものの理不尽さ、あるいは負けてしまえばひとたまりもない国家というもののはかなさ)に悶々としてすねていたのである(あれから60年近い歳月を経た今でも、国というのはなんと多くの個人の幸せを台無しにし、個人の幸せの為に何をやってくれるというのか、到底当てにはならぬ、依然としてただ権力の魔物ではないのか)。大人たちは引揚げの道中、日本に辿り着きさえすれば…という、多分身の安全を保障してくれる地としての望郷の思いに支えられて、必死に強行軍に耐えているようだったが、その終着地が、なんとこんなとこ?という失望の想いばかりが私にはあった。焼け野原だというのに地平線も見えない息苦しさ、ちまちまと細く曲がりくねった道のせせこましさ、トイレの悪臭に日本家屋の冬の隙間風、なかでもじめじめした梅雨の到来には毎年泣きたい思いだった。

 高湿度の憂鬱から脱却したのはいつの頃からだろうか、梅雨がさほど苦にならなくなって気が付くと、私は日本という地の“生水が飲める豊かざ”を素直に有難いと思うようになっていた。同時に何と日本の自然は優しいのか、東京の冬くらいならコタツから出た素足のままでポストまで行つても凍傷になるわけじゃない、更に、真夏に大人も子供も平気で無帽で歩く気軽さ。大陸の自然の厳しさの中では、一歩外に出るにはそれなりの覚悟が必要であった。冬はしっかり防寒帽に耳覆いを垂らし(忘れるとたちまち耳が凍傷になる)、靴下の重ね履きに防寒靴、シューパーに二重の手袋…と準備万端の上で、いざ出動、とばかり歯をむいている自然に立ち向かうのだった。家の中も冬を迎える前には小さな換気窓を残して二重窓に目張りをし、厳封の態勢の上でスチーム暖房。夏の外出は必ず麦わら帽、さもないと日射病でひっくり返る。自然とは、油断をしたらいつ噛みついてくるかも知れぬ恐ろしい存在だった。(日本より寒冷で自然環境の厳しい多くのヨーロッパでは自然観が大きく異なり、自然を人間との対立物として捉えがち、従って人類の進歩は自然を如何に克服するか、が大きなテーマであったこと、快適な暮らしとは自然を如何に遮断するかにあり、冷暖房完備が早くから整ったのもうなづける。)

 内地の暮らしは、自然を排除するのでなく何と仲良く共存していることか。家の内と外を峻別するどころか、冬でも窓を開け放つ快適さ、さらに縁側という内とも外ともつかない曖味な空間の不思議な心地よさ、便利さ。この、自然との余りの身近さと仲良し感覚が、そのありがたみを忘れ、自然の懐の深さに甘えすぎ、ひいてはあなどり、列島改造論などという冒瀆をみすみす許してしまった一因では?と思えてならない。

 西宮北部を通る阪神高速道路7号線もいよいよ供用の時期が迫ったという。飲料水源池の上に高速道路を走らせるとは何という暴挙、という議論の中で、この計画の初期には「水は命の源、しかも食べるものは添加物を避けようと思えばましなものを選ぶことができるが、水は選べない」と言えば説得力があった。それが数年の内に、このセリフは無効となる。「今日の水はめちゃくちゃ臭い、水道局に文句言おうよ」とあちこち電話をしても「あらそう?うちは浄水器使ってるから気が付かない」とか「六甲の水買ってるから分かんない」と相手にされなくなった。もはや水も“選んで買う”時代になってしまったのか。貧乏人は臭くて毒の水を飲め、とでも?かつて幼い私を驚かせた日本ならではの生水は、もはや飲めない水になってしまったのか。よし、水質悪化の末路は最後まで見届けてやるぞ、と水道水を前夜から炭を入れて汲み置きをし、さらに煮沸を丹念に、と自衛をしたものだが…。

 今、目の前は澄み切った川、塩素と無縁の自然水が飲めるだけでも、我々にとっては熊野に来た価値はある。

 日向ぼこ柿の茶旨し熊野水

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『みちしるべ』熊野より(3)**<2003.1. Vol.21>

2006年01月08日 | 熊野より

三橋雅子

く水のカルチャーショック>

 最初まだ水源の確保が充分でなかった時、隣でもらい水をした。いつでも、ここから勝手に…と、外の蛇口は勢いよく水を噴出している。谷水のおいしさに感動したりして、ありがとうと蛇口を閉めようとしたら、閉めんといて、蛇口はそのまま、に???。閉めると圧がかかり過ぎてダメという。水事情はどこも同じ。

 蛇口を閉めない暮らしに慣れるのはなかなか…。つい閉めてしまって、オーバーフローさせているホースがガボガボとアップアップしているのに驚いて、慌ててひねりなおす始末。それどころか、長年染み付いた節水の習慣は一朝一夕には改まらない。洗い物の水はボールで受けて次次使い回しのあげく、まだ雑巾か泥の野菜を洗うかも、などとつい捨てきれずに…。かつては何よりトイレに、多大のエネルギーが投入された飲料水をみすみす大量に流すのが痛ましくて、洗濯のすすぎ水を、腕っ節の鍛錬と称してよく運んだものだった。一人の楽しみにしていたのが、いつの間にか子ども達が面白がってタンクに入れるレンガの個数をどこまで増やせるか(流す水量をどこまで減らせるか)、バケツで流すには瞬発力と角度が問題、と水量の少なさを競ったり(これは流す固形物の形状と質量によるところが大きいと分かってすぐゲームはパーになったが)これも懐かしい子育て期の賑わいだった。

 自然の恵みが如何に豊富であっても、時には自然のいたずらで供給がままなぬことも起きる。オーバーフローが止まっている、となるとようやく蛇口を止め、でっかいタンクはそう簡単には払底しないが、それでも気付かずに出しっぱなしにしていればひとたまりもない。昔取った杵柄の節水技で最小限の家事を済ませ、いざ水源調査へ出動となる。長靴に軍手、七つ道具に飲み物とおやつも忍ばせてちょっとした山登り。途中、あっ茗荷だ、こっちははじかみ、と見つけたものは、帰りは別の道かも知れぬから怠りなく掘り起こしては背中に放り込む。芳香が漂ってきて、頭上に柚子がたわわに垂れ下がってくることもある。1キロも行かぬうちに水管の継ぎ手がはずれていたり、穴があいて噴水が生じているのが見つかつたり(大雨の後に多い)、中継の貯水槽にほんの一ひらの落ち葉が網をふさいでいることもある。大抵は3キロほど迄に解決するが、時には猪の仕業と思しき痕跡の傍らで、水管が遥か谷に放り出されていることもあった。猟犬にでも追われたものか、ミミズを取るのに夢中だったのか…。とも角原因は単純で、よく目に見えて明快である。処置を終え、これで水流再起動の筈、と野草茶の一服でほっと。

 今連れ合いの工事計画には、オーバーフローの垂れ流し水をトイレに引き込んで、常時流しっばなしの万年水洗にしようというのがある(川に辿り着くまで充分、土壌浄化する距離がある)。これは工事の段取りは簡単だし、自動水洗は魅力的だが…。しかし固形物は我家の農作物にとって大事な肥料、みすみす水に流すわけには行かない。(畑にはコンポストが3基、既に完熟した有機肥料に出来上がったのと、枯草とよく混じり合って熟成を待っているのと、刻刻真新しいのが放り込まれるのとが、大きな顔で、でんと座っている)水分の方はあまり入れたくないから天然水洗で流したいが、分別排泄はまあいいとしても水分用のみの、それもほとんど私一人のための水洗トイレを作るのも労力不足の折柄もったいない。

 ある大雨の朝、ちょっとの地震くらいでは目覚めたことのない睡眠達人がすさまじい轟音で熟睡を破られた。川音とはせせらぎの音くらいしか知らなかったから、音の正体が眼下の、いつもより激しく蛇のようにくねっている川水のとどろきだと分かるのに暫しかかった。さらに、流しっ放しの水を受けるバケツに、自動すすぎの雑巾をつけておいたのが、丸ごとどこにもない。こんなところにも迷い込んだ、どじな泥棒が盗る物に事欠いてバケツを持って行ったのか…?これは数日後、下の畑から、おーいあったぞー、大事な探し物が…の声がして解決。車道を隔て道中いろいろかいくぐって来たであろうバケツも健在、見覚えのある柄の、いとおしい雑巾の員数も揃って、先ずはめでたし。暫し幼い日の童話「鉛の兵隊」が辿る水路の旅に想いを馳せていた。

 思えば日照り続きにも切れない水量、加えて、作業場、住居、道路、畑といずれも急な段差、息子たちに、バリアフリーの家なんかにしたらボケちゃうぞ、と親孝行か不孝か分からない脅しをされたからではないが、これまたよくも、というほどバリアだらけの環境、これは水力発電にもってこいでは?当初、先ずは太陽光による自家発電所の設置を楽しみにしていたのが、杉檜だらけの山奥とあっては、日照時間が短い上に雨も多い。これは無理、と諦めボックスにポイしていたのだ。早速、わがアラジンの魔法のランプ、インターネットを呼び出す。忠実なるしもべの迅速なこと、かしこまりました、ご主人様、と捧げ持ってきたるは、太陽光、風力発電の情報量には敵わないが、あるはあるは、これで水力発電の仕組みは分かった。鍵となる水量と落差は合格の筈。後は実践あるのみだが…。立ちはだかるのは未開拓の畑、決して広いわけではないが、草が生い茂る間は蝮を用心して、まだ境界線がどこやら、辺境を確認していないのである。作物の自給には、豆類各種、麦に蕎麦…とまだまだ畑は足りない。水力発電装置の着手はいつのことやら。夢の実現への道は遠い。

 雨去りて川音さらに高まりぬ

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『みちしるべ』熊野より(2)**<2002.11. Vol.20>

2006年01月07日 | 熊野より

三橋雅子

<来るのは猿か類猿人?>

 今年3月まで続いたNHKの朝のドラマ「ほんまもん」のロケ地がこの本宮町だ、という事を、テレビに疎い私は知らなかった。温泉地に「ほんまもん」「ほんまもん」とやたらうそっぽい幟が翻っている事情を知って思わず「しもうた」と頭を抱えたが遅かりし、すべて書類的なことは完了済みの後の祭りだった。行政の「手出し」についてはぬかりなく調査をしたはずで、人口4000足らずの、過疎の一途を辿るこの町に、更にここまで超過疎の地域には、もはや何の手も差し伸べられない筈。例えば全町、上下水道を持たないこの町も遠からず敷設の計画があるとか、ただしお宅のとこは…とても…と、申し訳なさそうに言うのを、「遠い将来には、とかいうんじゃなくて、まずは未来永劫見込みなしということですよね」と恐縮の上塗りをさせるような残酷な駄目押しをして確認。せっかくの、有機肥料のためのコンポストトイレの夢も、地域ぐるみの下水道強制で壊されたり、金食い虫の餌食になってはたまらない。これでまずは安心、とルンルンでいたところに、テレビで有名になってしまっては……。ああ……。

 しかしこれは幸い杞憂に過ぎなかった。お隣のマサ婆さん(83歳で杖を突きながら、遥か聳える、あんなとこまで?と思える山奥まで松茸採りに行ってしまうという、山姥の大先輩)日く「ほんまもんのロケ地(ここから15キロほど)じゃあ、ちっとばかり人出あるんじゃと、そっちの方もちっとは観光客が行くかい?と聞いてきたから、何の何の人っ子一人来るもんなんか、ありゃあせん、来るのは猿くれえなもんよ、と言っといた」。なるほど「私ら新参者も、まあ猿みたいなもんですものねえ」と二人で高笑い。その声は二重三重にこだまして、尾根を超えて行く。同類の猿たちよ、聞こえたかい?

 しかしその猿たち、マサ婆さんの恨みの種。丹精したかぼちゃを、「ちっとテレビを見に家に入ったすきに、猿の奴、持ってってしもうたんよ。あそこの橋をな、」と指差しながら言うには、「親猿がホイホい投げてやると子猿が運ぶんよ、5匹ほどでな」。私はその橋を眺めながら、子猿たちが嬉しそうにかぼちゃを一つずつ小脇に抱えてヒョイヒョイと渡っていく情景がありありと目に浮かんで、おかしくてたまらなかった。しかしその後のセリフ、「わしはその晩悔しうて眠れんかったよ」を聞いては笑うわけにいかない。こらえるのに苦労して、「親猿も子育てに必死なのねえ」と辛うじて言った。実際私は、5匹の子猿さながらの5人の子どもたちが繰り広げる、戦場もどきの子育て期を思い出していた。ところでマサ婆さんの嘆きをどう慰めようか、と思案するまでもなく、自ら「町に住んでる娘が言うにはな、かぼちゃで眠れんなんてまだましだとよ、娘ら商売さっぱりだし、ローンのこと考えると、ほんに毎晩眠れんのだと」。マサさんまだ不満げではあるが。

 さて我が家とて、猿の襲来には安穏としてはいられない。空気銃や花火は常套手段として、連れ合いは川向こうから缶缶を吊るしたロープを渡して、敵の姿が見えたら引っ張ってガンガン鳴らすだの、石を集めておいて奴らめがけて命中させるか、とか悪がき時代を思い出したかのように、勇ましい計画に張り切っているが、いざ、猿たちの姿に直面したら、心優しき仙人の卵氏、絶対、闘志が萎えること間違いない。道中、車の音に猿たちがわさわさと木陰に隠れるのを、わざわざ車を止めて「見てみい、あんなところに、いっぱし隠れたつもりで、ちらちらこっち見よる。」と口笛を吹きながら、早くも友だちになりかかっているのだから。難儀なことである。

 隠れおり小猿尾を出す夏木立

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『みちしるべ』熊野より(1)**<2002.9. Vol.19>

2006年01月07日 | 熊野より

三橋雅子

<道路は超過疎への道だった。>

 和歌山県の東南部に位置する熊野三社の一つ、本宮大社より10キロ、最後の随道を抜けると杉と檜がそそり立つ山道が曲がりくねり、集落らしきものは見当たらなくなる。3キロ程でようやく3軒ばかり、いよいよ山は深く道幅は狭く、遂にガードレールも白線もなくなって、路肩はどう見ても一部欠損していると思えるのだが(助手席からは一瞬タイヤが宙を飛ぶような気がする)このヒヤリを通過するとまもなく我が家の隣家。一応これに隣接している(とはいえ夫婦喧嘩は最大ボリュームでも聞こえない)のがわれらが新しき埴生の宿である。反対側の隣家までは300メートル、ここで完全に車道も民家も行き止まり。山を下りる時、途中で郵便やさんに出会うと手を出すことにしている。大抵は「おおきに。助かりますわ。お宅より先はないんで」と嬉しそうにUターンして行く。こうして受け取る「みちしるべ」は下界の匂いがぷんぷんとして、懐かしくも異世界の趣。

 「ほんとに大丈夫ですかあ」と前住者は気遣って言った。「仙人になるには良いとこなんですけどねえ」「そ、それそれ、私たち仙人と山姥だから…ほんと、良いとこ」

 30年前遅まきの子育てを始めた時、東京は折りしも光化学スモッグ全盛で日光浴も満足にさせられなかった。これが人の住む所だろうか?少なくとも子どもを育てるところだろうか?と愕然として即、脱東京を果たしたものの、どこに行っても「田舎の開発」に幻滅を感じ、そして何より、せっかくの田舎が高速道路に打ちひしがれていくことに耐えられなかった。藤井氏には日本国中どこに逃げたっておんなじだよ、と諭されたものだが、次々に子どもたちが家を出て行き、老いた二人だけになってようやく、高校も職場もない、本物の田舎に住める自由を得た。年を重ねることは楽しい。

 最寄りのポストまで3.5キロ、ごみステーションまで1.5キロ、町役場まで10キロ(支所はない)そして湯の峯温泉までは5キロ、これは地域の共有財産だから無料で入れる。こんな所でも、かつては5〜60軒ほどの住人がいたという(今、7軒)。「それがどうしてこんなに少なく?」先輩格の仙人日く「立派な道路が出来たからよ。家財道具積んで運んでいけるようになったんで、金持ちはみーんな下さ下りて行っちゃったがな。残ったのはほんとの年寄りの貧乏人ばかりじゃ、ハッハッハ」「なるほど、やって来るのも確かに貧乏人には違いない」と妙に納得。

 笹百合を町花と定む町に住み

<仙人の里は桃源郷>

 ここでは六〇代で年寄りぶるのは僭越というもの、ゆうに80代でかくしやくと山を闊歩し野良仕事をこなして、しわしわではあるが艶やかである。それも車なしで、この僻地に住む度胸故か。自称仙人と山姥なんて軽軽しくも口にしたのが恥ずかしい。ここでは皆、筋金入りの、苔が生えたような仙人と山姥ばかり。何とか婆さんが具合が悪くなって診療所に2時間かかって行ったと、まじめな顔をしてしゃべっているけど、往復4時間歩ける人が、果たして病人なのかしら?否、ここでは病人でもそのくらいの体力があって当然ということか?私はかつて犬の死に直面した時の驚愕を思い出した。車にはねられた愛犬がキャンキャンと悲鳴をあげながら脱兎の如く走ってきて、あ、こんなに走れるんなら大丈夫、と思ったのも束の間、腕の中でガクンと息を引き取ってしまった時のショック。悲しみもさることながら、死の直前まで、あんなに激しい運動ができるという、人間では到底考えられない、動物の体力に圧倒された。動物に、野生に近いほど死の間際まで体力を維持して置けるのだろうか。だとしたら、ここで少しでも修行して野生に近づこう。

 それにしても貧乏人の集まりは良い。みな安らかな顔をしている。多分失うべきものがないからだろう。鍵がないのは我が家だけではない筈。

 蟹よけてハンドル左右に奥山路

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