しまなみ海道・大山祇(おおやまずみ)神社・太刀(たたら)
みちと環境の会 大橋 昭
3年前の初秋、愛媛県東予市の親戚から「しまなみ海道が開通したので」という頼りが届いたのを機に、物珍しさとちょっと息抜きにと大三島を訪ねた。完成直後の「しまなみ海道」を伊予側から海の難所と言われる来島海峡を一跨ぎし大島・伯方島・大三島へと北に移動する。架橋から航行する船の航跡に陽光がきらめく。豊かで温暖な気候風土の瀬戸内海の景観を満喫ししつも、島から島へと連なる巨大な「鉄とコンクリートの塊」に、この国が持つ土木建築技術に目を見張る。
本州と四国を結ぶ海の道、西瀬戸内海自動車道:通称「瀬戸内しまなみ海道」の建設は20世紀最後一大プロジェクトとして、尾道市より今治市への全長約60kmにわたる大小8つの島々を10の橋で結び、西瀬戸の活性化にと30有余年の歳月と莫大な税金を投じて1999年5月全面開通したことは周知の事。この辺りは海が荒れれば生活物資も通信も来ない島が点在し、日常生活で頼りになる唯一の交通手段は「渡海船」と呼ばれた水上船が、島の人たちの足として長い歴史を担ってきたが、その不便さは都会に住む私たちの想像を越えるものがあった。
故に古くから「しまなみ海道」の実現にかける島の人たちの熱意は並々ならぬものがあり、それはより豊かな文明生活への夢であり希望でもあった。その証拠にこの地には昔から歌い続けられてきた仕事の歌(石切り歌)の中にすら、本州・四国を繋ぐ橋への願望が切々と歌われ、フランク永井が架橋建設のPRソング「でっかい夢」を歌っているのを聴いたときには、人々の期待の大きさに感心させられた。
さて鳴り物入りで華々しくスタートした観光の目玉ルートには、どっと押しかけたクルマと人の洪水でどこも大混雑。大三島橋に着いたとたんに余りの混雑ぶりに唖然としてしまい、島々の観光は諦めて早々に大山祇神社の宝物館へ駆け込む。ここ大三島は伊予の中でも一番大きな島。この島には古くから「山の神・海の神」として信仰を集めて来たかの有名な「大山祇神社(おおやまずみ)神社」が鎮座し、その境内には樹齢3000年と言われる巨木(クスノキ)を含め、大小200余本の楠群が繁り見る者を圧倒するものがあった。広い鎮守の森に囲まれた境内に立てば、歌人西行が伊勢神宮に参った時の有名な歌に「なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」が思わず脳裏に浮かび、なんとなく厳粛な気持ちになってしまうのが不思議だ。神社の歴史は古く天平神護二年(766年)に遡ることが伊予風土記にあり、中世以降近隣の領主や海賊衆らが奉納したと言われる宝物はつとに有名で、一名「国宝の島」と呼ばれ、全国の国宝・重要文化財の8割がここにあり、l特に鎧、冑(兜)・刀剣類の多くは、期待した通り見事なものばかりで時間のないのが悔やまれた。それら刀剣類の中でもこの地の豪族・河野道信や源義経、源頼朝の兄弟が奉納したと言われる、鎧兜・太刀や小刀にしばし瞠目させられた。(但し本当に本人らが奉納したかどうか、伝説的なことかもしれないという解説もあり)
太刀の放つ妖しいまでの輝きを見るに付け、皇居内にあると言われるいまだ見ぬ三種の神器「草薙の剣」とはいかなるものか俄然興味が湧いてくる。「神と刀剣」というものが持ってきた日本人独特の思想や武の象徴「権威と権力としての刀剣を貴ぶ」を想う。
さて神剣の存在はともかくも、大小様々な太刀をこの世に送り出した源が「たたら」の製法技術であることはよく知られたことである。鉄分を含む砂鉄を精錬し造り出された「玉鋼(たまはがね)」を鍛練・熱処理・研磨・装飾加工されたものが、現在でも世界に比類のないといわれる「日本刀」のもつ高い芸術性は変わらない。しかしその反面では過去の忌まわしい軍国主義の歴史を連想さす「日本刀」ではあるが。
太刀の「鋼」は大気中に放って置けばたちどころに「錆」を生じてしまう。況してや周囲が海に囲まれ年中潮風に吹かれるこの島の自然環境の中で現在まで数世紀もの間、これだけ多くの遺品が見事に保存されてきたことに畏敬の念すら感じた。
長い歴史の中でこれらのすぐれた文化遺産を守ってきた(匠たちの技)を見るにつけ、「橋と太刀」を造る技術はどこかで繋がっているのではないかと思う。
翻って地球環境破壊が急速化する現在、自らは次世代に何を遺してゆくべきなのか。物見遊山の気分も次第に委んで行くのを覚えながら雑踏の大三島を後にした。