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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』しまなみ海道・大山祇(おおやまずみ)神社・太刀(たたら)**<2002.11. Vol.20>

2006年01月08日 | 大橋 昭

しまなみ海道・大山祇(おおやまずみ)神社・太刀(たたら)

みちと環境の会 大橋 昭

 3年前の初秋、愛媛県東予市の親戚から「しまなみ海道が開通したので」という頼りが届いたのを機に、物珍しさとちょっと息抜きにと大三島を訪ねた。完成直後の「しまなみ海道」を伊予側から海の難所と言われる来島海峡を一跨ぎし大島・伯方島・大三島へと北に移動する。架橋から航行する船の航跡に陽光がきらめく。豊かで温暖な気候風土の瀬戸内海の景観を満喫ししつも、島から島へと連なる巨大な「鉄とコンクリートの塊」に、この国が持つ土木建築技術に目を見張る。

 本州と四国を結ぶ海の道、西瀬戸内海自動車道:通称「瀬戸内しまなみ海道」の建設は20世紀最後一大プロジェクトとして、尾道市より今治市への全長約60kmにわたる大小8つの島々を10の橋で結び、西瀬戸の活性化にと30有余年の歳月と莫大な税金を投じて1999年5月全面開通したことは周知の事。この辺りは海が荒れれば生活物資も通信も来ない島が点在し、日常生活で頼りになる唯一の交通手段は「渡海船」と呼ばれた水上船が、島の人たちの足として長い歴史を担ってきたが、その不便さは都会に住む私たちの想像を越えるものがあった。

 故に古くから「しまなみ海道」の実現にかける島の人たちの熱意は並々ならぬものがあり、それはより豊かな文明生活への夢であり希望でもあった。その証拠にこの地には昔から歌い続けられてきた仕事の歌(石切り歌)の中にすら、本州・四国を繋ぐ橋への願望が切々と歌われ、フランク永井が架橋建設のPRソング「でっかい夢」を歌っているのを聴いたときには、人々の期待の大きさに感心させられた。

 さて鳴り物入りで華々しくスタートした観光の目玉ルートには、どっと押しかけたクルマと人の洪水でどこも大混雑。大三島橋に着いたとたんに余りの混雑ぶりに唖然としてしまい、島々の観光は諦めて早々に大山祇神社の宝物館へ駆け込む。ここ大三島は伊予の中でも一番大きな島。この島には古くから「山の神・海の神」として信仰を集めて来たかの有名な「大山祇神社(おおやまずみ)神社」が鎮座し、その境内には樹齢3000年と言われる巨木(クスノキ)を含め、大小200余本の楠群が繁り見る者を圧倒するものがあった。広い鎮守の森に囲まれた境内に立てば、歌人西行が伊勢神宮に参った時の有名な歌に「なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」が思わず脳裏に浮かび、なんとなく厳粛な気持ちになってしまうのが不思議だ。神社の歴史は古く天平神護二年(766年)に遡ることが伊予風土記にあり、中世以降近隣の領主や海賊衆らが奉納したと言われる宝物はつとに有名で、一名「国宝の島」と呼ばれ、全国の国宝・重要文化財の8割がここにあり、l特に鎧、冑(兜)・刀剣類の多くは、期待した通り見事なものばかりで時間のないのが悔やまれた。それら刀剣類の中でもこの地の豪族・河野道信や源義経、源頼朝の兄弟が奉納したと言われる、鎧兜・太刀や小刀にしばし瞠目させられた。(但し本当に本人らが奉納したかどうか、伝説的なことかもしれないという解説もあり)

 太刀の放つ妖しいまでの輝きを見るに付け、皇居内にあると言われるいまだ見ぬ三種の神器「草薙の剣」とはいかなるものか俄然興味が湧いてくる。「神と刀剣」というものが持ってきた日本人独特の思想や武の象徴「権威と権力としての刀剣を貴ぶ」を想う。

 さて神剣の存在はともかくも、大小様々な太刀をこの世に送り出した源が「たたら」の製法技術であることはよく知られたことである。鉄分を含む砂鉄を精錬し造り出された「玉鋼(たまはがね)」を鍛練・熱処理・研磨・装飾加工されたものが、現在でも世界に比類のないといわれる「日本刀」のもつ高い芸術性は変わらない。しかしその反面では過去の忌まわしい軍国主義の歴史を連想さす「日本刀」ではあるが。

 太刀の「鋼」は大気中に放って置けばたちどころに「錆」を生じてしまう。況してや周囲が海に囲まれ年中潮風に吹かれるこの島の自然環境の中で現在まで数世紀もの間、これだけ多くの遺品が見事に保存されてきたことに畏敬の念すら感じた。

 長い歴史の中でこれらのすぐれた文化遺産を守ってきた(匠たちの技)を見るにつけ、「橋と太刀」を造る技術はどこかで繋がっているのではないかと思う。

 翻って地球環境破壊が急速化する現在、自らは次世代に何を遺してゆくべきなのか。物見遊山の気分も次第に委んで行くのを覚えながら雑踏の大三島を後にした。

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『みちしるべ』故 黒住先生を偲んで**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 大橋 昭

故 黒住先生を偲んで

みちと環境の会 大橋 昭

 砂場代表から先生の訃報の電話を頂いたとき一瞬、晴天の霹靂とはこのことか、幾度もわが耳を疑いつつ一体何があったのか。落ち着かぬ気持ちを抱えながら生者必滅会者定離は世の常なれど人の命の儚さを過去に幾度も味わうもこれほど辛く迫って来るとは・・・。身体の力がぬけゆくような意識の中で、故黒住先生の在りし日の記憶が走馬灯のように浮かんでは消え往く。

 あれは大地震の後、住民生活が混乱の極みとただならぬ中にあって、西宮行政は住民の救済をよそにあろうことか、千歳一隅のチャンスとばかり、なんと50年前の山手幹線建設計画を引きずり出し、その実現に向け暴政を開始した。これに対しすかさず激しく抗議する住民側の先頭にたち、寒風吹く武庫川の河川敷で先生は、いつものやさしい眼ではなく、怒りをあらわにした眼で、まるで不動明王ごとき睨みで西宮行政の理不尽なやり方を糾弾され続けられたあのお姿は今も忘れられない。ご自身は反対運動への関わりを「僕はあまり得手ではない」と謙遜されておられたが、現実によくリーダーシップを発揮され、住民の団結の要としての役割を努められたように思う。

 桜の花が例年になく早く散り往く4月7日芦屋市のホテルに於いて先生を偲ぶ追悼会に出席させて頂きました。これまで知らなかった先生の内外でのご活躍と多くの逸話が紹介され改めてその偉業に胸を熱くさせられました。とりわけネパールに於ける眼疾病患者の人々に、光を取り戻す医療行為に尽くされ、かの国の人材育成にも大きく献身されたことに頭が下がる思いがしました。

 いまグローバリズムという妖怪が徘徊し、途上国の人々や私たちの前途に大きな影を落とす情勢下、この地球上のすべての人々が幸せを分かち合うという本物のヒューマニズムの精神に立ち、共生の思想の大切さが問われたとき、先生は身を以ってこれを黙々と実践されました。先生の無私・無償の行為は、多くの人たちに生きる希望を与えられたことを信じて止みません。先生の思想と実践が世界中で共有化されて行けば、あのテロなど起こらなかったのではないでしようか?ふとそんなことを思っていると「はっはっは……君はまだ甘いね。隗より始めだよ」あのやさしさ溢れる眼差し訥々と諭されるお声が今にも聞こえてきそうです。医学と文学を両手にこの世に光と心を送り続けて来られ、志半ばにしてさぞご無念だったことと思いまます。あまりにも早過ぎる鬼籍への旅立ちに私たちも心から無念に思います。

 これからはネパールの大自然の中で存分に羽根を伸ばして下さい。

 いろいろお世話になりありがとうございました。どうか安らかにお眠り下さい。

2002年4月27日

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『みちしるべ』今昔・子どもの遊び・雑感**<2002.1. Vol.15>

2006年01月05日 | 大橋 昭

今昔・子どもの遊び・雑感

みちと環境の会 大橋 昭

 古くからの友人に子どもの頃、どんな遊びをしたかと尋ねたことがあった。しかし彼からの返事は「ほとんど覚えがない」というものだったので、改めて自分の記憶で半世紀前の子どもの遊びを振り返り、子どもの遊びの変わり様をなどって見た。

 先ず思い浮かぶのが遊び場。敗戦後の焼け跡から驚異的な経済復興を遂げて行くまで、空襲で焼け残った道路にはクルマの姿はなく、子どもにとってそこは今では想像できない程の安心して遊べる空間が存在した。まさに道路は子どもたちの遊び場であり解放区であり天国であった。

 学校から帰って来た子どもたちは、カバンを放り出すと同時に身も心も、家の外に向けて矢のごとく飛び出して行く。食べ物は少なくいつも空腹で、ボロ同然の衣服をまとっていても、遊びを生活とした子どもたちは、乏しいものを拾い集めては遊具づくりに、寒暑や晴雨も時を忘れて没頭した。(例えは焼け跡の鉄片で小刀・棒きれでバツト・ぼろぎれの野球ポールなど)

 この時代、開放された道路は、子どもたちの健康的で明るい声が絶えず、大人たちからの干渉など、よほどのことがない限りなかったこともうれしかった。

 敗戦初期にはまだ軍国主義的な遊び(兵隊ごっこなど)も残されていたが、世を揚げての平和と民主主義の洗礼を受けつつそれらは次第に消えて行く。

 日常的な遊びは「鬼ごっこ」や「隠れんぼ」「陣取り遊び」「カン蹴り」「草野球」など伝統的で代表的な集団遊戯が好まれた。

 これらの遊びを通じて思うのは、一定のルールにもとづいて相手を捕らえたり、自分が逃げたりすることで身体強化と知恵・機転を学び、連帯感や協働性などチームワークの大切さを自然に身に付けて行ったことではなかろうか。

 また子どもの好奇心は絶えず探求や冒険ごっこを通じて、未知なる物への夢を膨らませた。時には命にかかわるような危険を顧みない挙動など、今から見れば冷や汗もの遊びなど、大人が見ていない所での遊びにしばしば快感を覚えたことも。

 勝負の遊び(ビー玉・メンコ・バイなど)は、前述のごとく何もないこの時代に、子どもなりの知恵と工夫で創造力を高めその技を競い合った。これらの体験は長じた後に特に労働の現場で、しばしば役立ったこともあった。

 お手玉・綾取り・おはじき・折り紙・ままごと。人形あそびなども盛んであった。これらは主に女子の遊びとされたが、どれをみても含蓄の深い遊びである。

 そこには共通して手先の器用さ機敏さを訓練し、創造性を養うものとして広く好まれ今に残されている。

 特にままごと「飯事」遊びを通じて大人に成ってからの家事労働の意味や、作法、言葉使いなどの練習を自然に身に付けさせることの意味は深いものを感じる。

 こうした様々な遊びには教育的・体育的効果を期待でき、時には信仰や宗教などと結びついていた故に、大人たちも安心して見守っていてくれたのであろう。

 概観すれば今様、子どもたちに見られる「きれる」や人間関係からくるストレスなどの言葉など無縁な時代ではあった。

 さて急速な経済成長による大衆消費社会と都市化の流れは、生活様式の中にクルマを急増させたが故に子供たちの遊びまでを大きく変えた。

 同時に伝統的な遊びを通じて大人への準備を自然に身に付けつつ、命やモノの大切さ。他人への労わりなど多くの事柄を学ぶ機会を奪ってしまったと言えまいか。

 わずかな空間やモノでも利用し、あらん限りの知恵と工夫を凝らして、楽しみの追求と人間形成にとり豊かな実りをもたらしてくれた道路での遊びも、スピードと利便性を求めるクルマ化やコンピュータ化社会の到来とともに解体されてから久しい。

 今や外で遊ぶ術を知らぬ子どもたちは部屋に立てこもり、スナック菓子を頬張り、テレビゲームに熱中する姿に変容させられてしまった。

 この日常に「時代を先取りするものだ」と言われればそうかもとも思うが、その陰気なムードにはへきへきさせられる。

 しかし、こうした現状を嘆き一刀両断に批判し、失われて行くものへの懐古趣味だけで往時を振り返るだけでは意味はないし無責任だと思う。

 伝統的遊びに込められた子どもの精神の解放と感性を高めて行く遊びの復権、これこそがこれからのまちづくりの原点として、今大人が考えなければならない問題ではないだろうか。

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『みちしるべ』中国街道ぶらり記(その参)**<2001.11. Vol.14>

2006年01月05日 | 大橋 昭

中国街道ぶらり記(その参)

みちと環境の会 大橋 昭

 中国街道の通る尼崎・西宮・芦屋は「茅渟浦曲(大阪湾)」の北岸に位置する西摂の中でも早くから開けた主要都市。

 近年、中国街道は人々の生活の中で「旧国道」の名で親しまれて、古くには大阪湾を左に尼崎・西宮から灘に至る重要な幹線道路と賑わったが、今は時代の流れの中に中国街道と呼ばれる事も少なくなった。この道も時代の流れの中に忘れられて行くのか。

 今に遺された古跡。名勝を訪ね武庫川橋を渡り、岡田神社を振り出しに西宮えびす社へ向かう。

■岡田神社

 残暑きびしい昼下がり、近くの小学校から家路につく学童たちの賑やかな声が境内を通りすぎてゆく。境内の東隅に立派な石碑「みちしるべ」が遺されている。「これより東・尼崎領、これより西・尼崎領他領入組」の堂々たる彫り文字が目に入る。江戸時代の雑に入り組む領地の歴史を今に映す貴重な石碑。6年前の大震災で西宮の指定文化財だった本殿は崩壊し今は見通えるようなモダンな神社に変身。楠や榎の巨本が茂り鬱そうとした雰囲気がなんとなく気持ちを和ませてくれる。社伝によれば901年(延喜元年)に土地の人で岡司新吾が神社を創設し岡田宮としたとあり、別名「おかしの宮」とも呼ばれることあり。ただただ風雪に耐えるその歴史に脱帽。

 また境内の南隅には小松内大臣重盛(平清盛の嫡男)の供養がひっそりと建っている。現在の地名の小松は平清盛につながるのか。

■鳴尾八幡神社から鳴尾の一本松ヘ

 岡田神社を後に道を南西に。途中に鳴尾八幡神社あり。ここの境内にも椋の木や黒松の大木が残り、人が住み着くまでは大きな森林があったことを偲ばせる。鳥居から本殿までの長い参道で、体内に眠る「巨木信仰」の遺伝子がふと目覚めるのを感じながら先を急ぐ。

 平安時代からこの里には沖行く船の目印になる見事な松が眺められたという。陸行く人も愛でたであろう鳴尾一ツ松はことのほか有名で西行法師も山家集に「つねよりも秋に鳴尾の松風はわきて身にしむ心ちこそすれ」と詠み、大国ノ孝政は拾玉集に「四方に名も高く鳴尾の一の松雲の山まで生ひのぼりけり」と遺している。

 今はその旧跡も住宅地の片隅にひっそりと移され、どこか寂しい風情を醸し出すのみ。

 かつて鳴尾といえばあの真っ赤で甘いイチゴの栽培で名を馳せ、競馬場や民間の飛行場もあった所である。古い記録には「鳴尾里、鳴尾一ツ松、鳴尾西瓜、鳴尾泊」とあり江戸時代には鳴尾西瓜を、旅人たちが沿道に茶屋に腰をおろし賞味とある。

 武庫川が何万年もかけて造ってくれた畑からの恵みは、この時代に綿や菜種の栽培が盛んにしたことも記されている。江戸時代に記録には生産性の低かった肥料(草木)に替え、干鰯を綿や菜種の肥料として用い、多大の収穫を得たとある。その鰯を求めて遠く房総半島付近まで出漁したとは。

 その逞しい生活力に今更ながら感じ入った。

■義民採水の地

 阪神甲子園球場から北に向けば甲子園三番町の北郷公園に立派な「義民碑」が建立されている。

 1519年(天正19年)の大旱魃の時、北郷の水利を巡り鳴尾村が瓦林村に水を乞うも談判決裂。「命よりも水が欲しい」とする鳴尾村が強引に我田引水したために代宮の裁きを受けるところとなり、村民25名が死罪と言う悲劇を生む。稲作の国では時代を問わず「水争い」は死活問題であった。その後和解した双方の村民たちはこのことを悼み、毎年夏には「酒と蛸」で友好を強めてきたという。

 この碑の前に立つと「水と空気」はタダと悪っている我々に、村民たちの「水の大切さを忘れていませんか」と問い掛けが聞こえて来た。

■与古道町(西国街道と中国街道の出会いの地点)

 これより更に西に進み久寿川を渡り「松原神社」に至る。この辺りも先の戦災による区画整理などで古地図にある街道筋は判別し難し。

 「松原神社」から東川に沿って西国街道を南下すれば、国道43号線の手前の交差点に出る。ここが西国街道と中国街道の出会いの地点。

 何の変哲もない場所なれど、古ノ旅人たちにとっては重要なポイント。現在では用海筋と呼ばれ川筋の片隅に与古道公園が造られ憩いの場としてその名を留めている。

■宮水発祥の地と酒蔵通り

 天下に名たる「灘の生一本」の故郷がここにある。左党ならずとも西国街道・中国街道を旅する人々を酔わせたところ。

 その銘酒を生む水源が、これも国道43号線のすぐ側に「宮水発祥の地」として遺されている。現在の酒蔵通りさらに南に下がればよく整備され、行き交う車の間から大きな酒蔵の建屋が覗く。

 宮水(西宮の水)は六甲山系から湧き出す地下水で造酒に好適の硬水(六甲山系の炭酸塩を含む鉱水や伏流水で鉄分が少なく、カルシウム・リンが多く醸造に最適)をもたらし天保年間に最適水として発見される。以来、清酒の名産地としての名を今も欲しい侭にしている。

 「宮水発祥の地」は20メートル四方の敷地の一角に、小さな石囲みがあり、宮水の湧水を期待して行ったが残念ながら水枯れでした。

 それにしてもこの周辺の騒がしさは異常だ。43号線に阪神高速線を走る間断なき大型車からの排ガスと騒音で折角の酔い心地も醒めてしまった。

 この一帯もあの大震災で大きな被害を受けたが今は復興され、すぐ隣の伊丹市の銘酒(丹醸)と共に、内外の愛酒たちに夢を贈っている。

 宮水発祥の地と酒蔵通りを更に南下すれば、ロマンチックなムードを漂わせ、若者たちに人気のある「西宮ヨットハーバー」や「西宮砲台跡」などがあり、ぜひ機会があれば訪れたいスポットなれど今回はパス

■西宮えびす神社

 与古道町に戻り町の中を西に往けばご存知、七福神の内で最も著名な恵比寿さんを祀る「西宮のえべっさん」の正面に出る。西宮は中国街道と西国街道の宿場町。西宮戎の門前町として栄え、「えべっさん」|「灘の生一本」で全国にその名を高める。

 表大門(赤門)の左右に連なる塀は日本一の大錬塀と言われる見事なもの(全長247メートル)。境内には都会のド真中にありながらクスノキ・クロマツをはじめ200余種の樹木が “えびすの森”を育てている。

 中世以降の「福の神信仰」の隆盛は商業の神さんとして、また豊漁をもたらす漁業の神さんとして今も多くの人たちの信仰を集めている。

 毎年1月10日には100万余の人たちの参拝で賑わうことでも有名。

■阪神甲子園球場(番外編)

 鳴尾一本松のすぐ側を阪神電車が走る。線路に沿って西に行けば全国の野球ファンがご存知の「甲子園球場」に到着。中国街道の旧跡探訪からの脱線を承知でちょっと立ち寄って見た。

 日本にも本格的な野球場を!の願いを込めてここ武庫川の支流、枝川の廃川跡に米国のニューヨークジャイアンツのグラウンドなどを参考に1924年(大正3年)の春、東洋一の野球場建設が始まった。昼夜兼行の突貫工事はわずか4ケ月で球場を完成させる。この年が甲子の干支であったことから「甲子園大運動場」と命名され、後に「甲子園球場」から現在の「阪神甲子園野球場」となる。

 その70余年の歴史は高校球児やプロ野球で幾多の名勝負を生み、プレーヤーが繰り広げる惑動的な数々のゲームは老若男女を問わず野球の魅力の虜にされて来た。

 太平洋戦争で「野球は敵性スポーツ」として禁止中断され銀傘の鉄骨は兵器にされたが、敗戦後の平和の訪れと共に球場はよみがえりますますその存在の大きさを示して止まらない。

 「平和な時代だからこそすべてのスポーツは100%楽しめる。」

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『みちしるべ』中国街道ぶらり記(その弐)**<2001.7. Vol.12>

2006年01月04日 | 大橋 昭

中国街道ぶらり記(その弐)

みちと環境の会 大橋 昭

 中世から近世にかけ、京都を起点とした西国街道が都と九州・太宰府を結ぶ官道であったのと比べ、大阪を起点とし尼崎を経て西宮で西国街道と結ばれる中国街道も時代の変遷の中でその道筋も幾多の変遷をする。いずれも人や物・文化を運び歴史を刻んできた畿内を通る古の道。前回は神崎の船渡しを起点に神崎遊女塚、浄光寺、長洲の天満宮、残念さんの墓、大物の浦を訪ねた。今回は年々その姿を変える町並みを見つつ、幾千年にわたって造られた武庫平野を踏みしめながら、海岸沿いの古い町並みを南西へと進む。

尼崎城

 阪神電車の大物駅あたりが史跡の多い所。ここ大物の浦から南に向かうと国道43号線の手前に城内小学校がある。この小学校、歴史は明治初めの学校制度の制定と同時に建てられ尼崎市で一番古い。後に建てられた金楽寺・開明小学校などの先輩格。ここの校庭には名城と謳われた尼崎城の四層天守閣の模型(セメント造り)が往時の姿を偲ばせてくれる。

 1617年(元和3年)江戸幕府は大阪の西の要塞として、ここ尼崎藩に築城を計画し、譜代大名戸田氏鉄に命じ、海と川を巧みに利用し四層の天守閣をもつ尼崎城を造らせた。天下の美城と言われたが明治維新の廃城令で取り壊される。

 大阪城を中心とした藩政の中でも尼崎藩は最重要地(幕府直轄領)であり、幕府のテコ入れで海岸地帯が続々と開発され、新田による農業(綿・薬種)の拡大、商業(米・酒)などは大いに振興したという。また古くから伝統を持つ漁業はイワシ(肥料の原料)を求めて遠く房総半島まで出漁した記録も残されている。

築地町

 城内小学校をあとに更に南へ。築地町の入り口の大黒橋を渡れば古い町並みと厚い人情を誇る町に入る。ここも築城時に城下町として建設され今に残る築地町は、町なかを中国街道が通り、諸国大名の参勤交代や朝鮮通信使などが行き交った由緒ある町。

 近年では工都尼崎の重化学工業の発展は戦争ごとに加速。東の京浜・西の北九州と並び阪神の中核都市として膨張。戦後では、朝鮮戦争特需で息を吹き返し、全国から多くの労働者が南部工業地帯に集まり、町の活力化をもたらす。因に人口のピークは1970年(昭和45年)55方4千人の記録がある。主に漁業や軽工業の町として栄えたが、近年工業用水(地下水)汲み上げが原因で町全体が海抜0m地帯に。故に戦後は度重なる高潮洪水被害と、あの阪神大震災の打撃に、町に今は昔の面影なく、ただ震災復興事業の音だけが響き、その激変にただ息を呑むばかり。しかし折からの公害問題(工場からの煤煙と国道43号線車の排ガス)は多くの住民に深刻な健康被害を与えて生活を奪い、いまなお多くの公害患者が苦しい日々を送り、今日の「クルマ社会」のあり方を、問い続ける。公害の町と言われ、道路公害反対運動のさきがけの地として有名となったことは皮肉。

 ここ築地も、毎年秋祭りの「喧嘩ダンジリ」は貴布祢神社に負けぬ賑わい見せるも、近年やや下火になった。若衆の勇壮な姿に人々はわが身を重ねて血をたぎらせ、酔い、わが町の名誉を競ったのも昔の夢か。

寺町界隈ヘ

 築地本町通りを西に歩き戎橋を渡り、庄下川(戦前、毎年冬にはここに広島からの「牡蠣船」が賑わい を見せていた)を右にして開明橋から寺町へ。阪神電車の南出口からすぐ右手の方向に寺町がある。この町も築城時に散在していた寺院を城下に集め造られた町。ここに十二ヶ寺が工都には珍しく静かな佇まいを見せている。ちょっとした散策には最適の所。本興寺を筆頭に全昌寺、広徳寺、甘露寺、方園寺、大覚寺、長遠寺、如来院、専念寺、常楽寺、善通寺が戦災や震災に負けずに城下町の面影を残している。各寺院はそれぞれの由緒を持つが、太閤記にある秀吉との関係が深い広徳寺や前回ルポした神崎遊女の遺髪がここの如来院に納められているなど歴史探訪の興味は尽きない。

貴布祢神社

 寺町から再び南へ下れば中国街道筋に「尼のきぶねさん」で有名な貴布祢神社が国道43号線のすぐ側に建っている。戦前、東は辰巳橋から、西はみの神社前を通る本町通りが尼崎随一の繁華街であったが、戦災で消失。のちにこの上に現在の国道43号線・阪神高速道路が造られる。案内板には主神は海人の守護神であり、古くから雨乞いの神様として敬われ幕末には、千ばつや黒船の来航時には藩のために盛んに祈祷が行われたとされている。

 毎年8月1日・2日の例祭はつとに有名で、大勢の老若男女が名物の「喧嘩ダンジリ」に押し寄せ、真夏の一時を心ゆくまで楽しむ。

 西国街道筋に建つ昆陽寺も、行き交うおびただしい車の排ガスの中でくすんでいたのを思いだし、改めて身近にある文化財の保存の有り様にもっと力を入れなければ……と痛感。

道じるベ

 貴布祢神社を出て旧街道を一気に北に向かう。阪神電車の高架をくぐり、街道筋を建家町へ。ここの狭い交差点の一角に「左西宮・右大坂道」の道じるべに出会う。国道2号線が完成した後でも、旧国道と親しまれた道筋に今は忘れられたように佇む石碑の大坂の{坂}という文字に注目。今では大阪の阪は{阪}を使っているが、その訳は大阪人が度重なる火災で土に帰るの{坂}を嫌い{阪}にしたとか。こんなところにも先達たちのわが町の繁栄にかける気概を思わせる。

琴の浦神社

 道じるべに従って旧街道を西へ蓬川橋を渡り琴浦神社へ。平安初期の嵯峨天皇の皇子源融公を祭神として祀る。このころの景色が他所よりも勝れていたので「異浦(ことのうら)」とも呼ばれていたともいわれ、毎日30石(1斗缶300個分)の海水を京都六条の邸宅に運ばせ塩を焼かせたという。市内に潮江の地名があることからも、当時は財力のあった貴族たちは潮汲みを盛んにし、大いに稼いだ?らしい。見事な白浜で人々の潮汲み、都への運搬のことなど想像していると、すぐ近くの尼崎競艇場からのものすごいエンジンの爆音。ここでもまた騒音公害のおかげで、遥かなる音を偲ぶ夢をあえなく破られ思わず嘆息。

武庫川の堤防.. …雉が坂付近

 琴浦神社前から旧国道(国道2号線が出来るまでは幹線道路として活躍した)を西へ歩けば、武庫川の堤防に突き当たる。「地図上の中国街道はこの辺りからかなりジグザグコースになっている」

 ご存知われらが武庫川!

 その源は丹波山地。河川流路約65キロメートル、流域面積500平方キロメートル、尼崎市面積の約10倍。周辺には約140万人が住む。中流域の武田尾渓谷は兵庫県下でも有数の景勝地。今ここに「治水とレクリエーション」を目的としたコンクリートダム建設計画が進む。片方では「税金を使い自然破壊をゆるすな」をスローガンに流域住民のダム建設反対運動も進んでいる。国土の7割が山また山。この国では毎年どこかで洪水の被害は起きることは必至。ならばどのような治水が理想なのか。住民も行政も知恵の絞りどころ!問題は解決の方法、手立てに民主的な配慮(情報公開と住民参加)をいかに保障し具体化して行くのか。課題山積。

 さて、中国街道に戻ります。ここから上流約5キロメートルには西国街道の川渡しで有名な『髭の渡し』があり、この付近にも渡し場があったが、今はその面影はない。その昔、秀吉が信長の異変を知り、急ぎ光秀を討たんと上洛の際、ここで光秀の兵の待ち伏せに会うが、雉の飛び立つのを見て難を逃れたと言う言い伝えがある。

 堤防から西に目をやれば、六甲の山並みが初夏の夕暮れに映え、美しい姿を見せている。私たちはこの山や川の恩恵を受けつつ歴史を紡いできた。これらは先祖からの預かり物。しっかり守り子孫に引き継がねば……向こう岸の西宮を望みつつ次回のぶらり記のプランを練りながら河川敷を帰途についた。

 次回は西宮市内を訪ね芦屋川までのコースを予定。


参考資料 尼崎市「地域史研究」・尼崎市史(第二巻)

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『みちしるべ』中国街道ぶらり記(その壱)**<2001.5. Vol.11>

2006年01月04日 | 大橋 昭

中国街道ぶらり記(その壱)

みちと環境の会 大橋 昭

 近代化された市街に鉄道や幹線道路が我が物顔で走る今に、長い歴史に耐え埋もれつつもなおひっそりと息づいているそんな古道にふとひかれる。前回の西国街道もその一つであり、今回ぶらりと訪ねた中国街道も、往古からの移り変わりにロマンを求めた残り少ない古道の一つである。

神崎の船渡し

 中国街道・古く大和朝廷の全国統一の機運に乗じて造られた「山陽道」の支線として発展してきた道。時代とともに河川交通発達が畿内の交通を盛んにし、都から西国への経路として北に位置する「西国街道」よりも便利で早いことから、中国街道の振り出し地点として大いに賑わったのがここ神崎の船渡し。諸国からの人や物が行き交う拠点として重要な位置を占め歴史の変遷を見つめてきたのも神崎の船渡し。

 大阪から西国・九州の旅の出発はここを起点に始まる。その昔、猪名川と藻川が合流する神崎川の両岸は葦におおわれ、松並木が美しい所といわれた。近世には海外との交流も見られる。将軍の代がわりや日本の慶事に際して海をわたり朝鮮国からの信使(正使以下300~700名)がここを通過して行った記録も残されている。堤防沿いの道路脇には航海の無事を祈った金毘羅さんの燈台(金毘羅大権現と彫られている)が残されており、旅人や諸国大名の参勤交代などを眺め、夜は川を行く船の安全を守った往時を偲ばせてくれる。

 古の神崎の船渡しを求めて神崎橋の西詰めに立てば、クルマの洪水と排気ガスに幻滅。

神崎遊女塚

 神崎の船渡しからすぐ北の市バス停留所西の小さな児童公園の中に「神崎遊女塚」の碑がある。中国街道の繁栄は神崎の船渡しにも及び、都から来た遊女たちで遊里は賑わうも、ここに悲しい話が残っている。

 今から八百年前の建仁二年(1207年)法然上人が四国の讃岐へ配流される途中、苦界に身を沈める五人の遊女たちは法然に教えを乞う。法然は念仏を唱えることで罪も消えようと諭し、自らの罪業を恥じた五人は神崎川に身を投げた。このことを哀れんだ人々が塚を
築き遊女たちを弔い、ここを通過し旅する人達の涙を誘ったという。

 昔はこの辺り長閑な田園の中にあったといわれるが、いまはすぐ側に新幹線の轟音がうなり、突然静けさを破られる。まさに新幹線公害?が走る。ここから少し西に「右伊丹中山池田能勢・左昆陽小浜有馬三田」のみちじるべあり。右にゆけば「くらがり街道」へ。旅を急ぐ人たちはどんな思いで通っていったのか。

浄光寺

 神崎の船渡し・神崎遊女塚から西川を経ていまの園田橋を南下し、JR尼崎東のガードを潜ればここから常光寺の古い町並みに入る。道路の東側に「浄光寺」がある。このお寺は真言宗で摂津国八十八ヶ所・第六十四番目霊場として名高く、南北朝の内乱の折、戦火に遇い消失するが再建されたという古い歴史を持つ。寺号は「浄光寺」と町名は「常光寺」とどんな関係?面白かったのは境内に「七福神」の石像が祭られ「神仏合祀」なんでも自己流に仕立てあげてしまう日本人の宗教観の曖昧さ、寛大さを感じる。

長洲の天満神社

 浄光寺を後に中国街道を更に南に行くも、戦後の土地区画整理事業などで古地図とは大きく変わる町並みをウロウロしながら長洲の天満神社に到着。ここはご存知菅原道真公を祭り全国に点在する約5000社天満宮のひとつ。菅公、幼少より文学に優れ若くして文章博士になり、政治家としても出世するも、左大臣藤原時平の陰謀で筑紫の太宰府に左遷されるの折、京を出て淀川を下り神崎川を経て大物の浦で潮待ちのため下船したとき、この辺りの砂浜を散策。砂に汚れた足を洗ったという池(御神池)がいまに伝わっている。ただし水を抜かれた池には石碑があるものの、ちっと殺風景でいただけませんでした。古くから学問の師と尊敬され、受験シーズンには殺到する若者の姿もなく境内の遅咲きの桜がわびしさを誘う。横を走る幹線道路のクルマの振動や排気ガスの影響が、神社全体の活気を殺いでいるのが気にかかる。

残念さんの墓

 長洲の天満神社からすぐ南に国道2号線が東西に走るのを横切れば大物公園。残念さんの墓は公園のすぐ東の墓地の入り口に祭られている。尼崎を通過する中国街道は幕末から維新への激しい歴史の動きも知っている。この残念さんの逸話はつとに有名で今も墓前にはお線香とお花が絶えない。尼崎市教育委員会の案内板にはこの墓の主人公・長州藩兵山本文之助について説明されているので引用させていただきました。

 文之助は元治元年(1864)の「蛤御門の変」のとき、京都から山崎路(西国街道)を経て帰国の途中、この辺りで補らえられ留置されたその日に自害する。時に29歳だったと言う。後に大阪本町の呉服屋・扇屋真助が手代に書かせたと言われる文之助の書置きには「残念で口惜しい。もし口惜しいことがあれば自分に参れば一つだけ願いをかなえてやろう」と書かれてあり、噂を伝え聞いた多くの人たちは大阪から文之助の墓へ参詣し、幕府の取り締まりにも拘わらず、反幕感情と長州藩への同情も高まり、以後残念さんへの墓参りがいまも続く。この暗き世に時代を越えた庶民感情の底にある人への思いやりの深さに頭が下がる。この墓の奥まった所に兵隊墓があるのを見つける。墓碑銘に目をやれば1938年(昭和13年)中国山西省北部戦線にて戦死。享年22歳。花も実もこれからという年のすべてを奪い去った、あの侵略戦争の犠牲者(国籍不問)の叫びを平和な時代を生きる私たちは忘れてはいまいか……。

大物の浦

 阪神電車「大物駅」のすぐ南に大きな鳥居の「大物主神社」があり「尼開祖一ノ宮」と記されている。昔からここを通り旅する人たちの無事安全を見守り、いまもここに住む人たちの厚い信仰を受けている歴史がある。今は国道43号線が走るかつての大物の浦は、源平合戦で源氏勝利のあと兄源頼朝と骨肉の争いに破れ、1185年(文治1年)海路を九州へ逃れんとする源義経を愛妻静御前が見送った浜としても有名である。しかし、義経一行はおりからの暴風のため泉南の地に流され、そこから吉野へと逃れるという史話もよく知られるところ。後世、彼らの不運を美化し同情する先人たちが「判官びいき」なるものを生み出し、いまの世にも伝えられていることに歴史のつながり、面白さを感じる。いまは無いが頼朝の追及を逃れて住んだという家の話も、ここ大物の浦を舞台とする日本人好みの悲話の一つ。

ちょつと一休み

 中国街道沿いの各町には「水」に因んだ地名がずらりと並びます。とりわけここ尼崎には東の方から神崎・西川・清水・浜・古川・長洲・潮江・杭瀬・尾浜・松島・難波・大島・水堂・上の島・初島・向島・丸島・大浜・中浜・浜田・蓬川・武庫川などの地名が並びます。太古から尼崎は淀川・猪名川・武庫川のデルタ地帯でもあり、瀬戸内海の砂州海岸として形成されてきた海岸付近は葦がぼうぼうと茂り、昔は「葦刈島」とも「大物浜」とも呼ばれていた頃もあったそうです。今に残る各町の地名もこうした地形や景観などの関連から生まれて来たことを思わせます。

次号に続く

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『みちしるべ』21世紀は「クルマから自転車」ヘ**<2001.1. Vol.9>

2006年01月03日 | 大橋 昭

ストップ!エネルギーの浪費!
21世紀は「クルマから自転車」ヘ

みちと環境の会 大橋 昭

 11月にオランダのハーグで開催された地球温暖化防止会議(気候変動枠組み条約「COP6」)は、増え続ける二酸化炭素(C02)の排出削減という共通目標が、日米両政府の「経済活動の低下を招く」という国益主義のために全体での合意は成立しませんでした。地球温暖化(先進各国のエネルギーの大量浪費が主な原因)が地球環境に深刻な影響を及ぼし、まさに待ったなしの事態の中で先進各国間で、化石燃料使用を減らす協議が不調に終わったことは不幸でしたが、今回の不成立には日米両政府が自国中心主義的な強硬姿勢を崩さなかったことにあり、その対応がきびしい非難を浴びました。地球環境問題は私たちの身近なライフスタイルから改善してゆくことは当たり前のことですが、今回の協議決裂は「持続可能な発展」に向けた社会の実現に逆行するばかりか、これから21世紀を生きる次世代に大きな負担を遺すことに繋がるだけに、今回の日本政府の対応には疑問が残ります。

 削減会議は失敗に終わり世界中に失望が広がりましたが、最後までC02の排出削減を主張してきたEU諸国、とりわけ会議開催国のオランダではこれまで生活を便利にしてきた「大量生産・大量浪費・大量廃棄」を見直し、すでに多面的なC02の削減に着手し大きな成果を挙げている明るいニュースは見逃せません。地球温暖化防止策には多様な方法や選択がありますが、エネルギー浪費の抑制を目指すEU諸国では、主要都市がクルマ公害で苦しみ、生活環境を脅かしていることを直視し、「クルマから自転車」への転換が、市民の総意のもとに意欲的な取り組みが行われています。

 オランダでは各都市でクルマの増加が大気汚染、騒音、交通事故など日常生活に多くの弊害をもたらし、地球環境への影響を憂慮するという認識に立って、いちはやくクルマ依存からの脱却に「自転車は最も効率的で有効な移動手段である」と自転車先進国へ権利拡
大を謳う『アムステルダム宣言』を発表しました。

 地球環境保全のためにはエネルギーの浪費を抑え、大気を汚染せず健康にも大きなメリットを持つ自転車に乗ることで自由な移動が可能だと考え、そのための環境整備が市民参加のもとに進められています。

 参考にすべきは自転車優先の交差点や専用道路、学校での徹底した交通安全教育や、都市の中心からクルマを締め出し、交通弱者(子供やお年寄り、身体障害者)の人たちが、安全で快適な生活ができるように多くの優れた施策(学校教育も含めて)が具体化され、人命尊重を第一に考える思想が行き渡っている点です。

 今回ハーグ会議ではC02の削減交渉が失敗に終わりましたが、独自に国を揚げて『サイクルパワーで新しい世紀を拓く』という発想を日本政府も手本にすべきです。

 これからの地球環境を考えるとき「クルマから自転車」への転換は、生活者の意識改革ぬきには実現しません。自転車が軽便で手近な移動手段としても、自転車・歩行者・クルマとの関係をより安全なものにする『みち・まち』づくりがそこに住む人たちの主体的な力で確立されない限り、安全で快適な生活環境は実現しません。

 現在の日本の道路交通法はクルマ最優先故に歩行者(とりわけ交通弱者といわれる子供、高齢者、身体障害者)の安全確保と言うことは後回しにされ、お上に人命尊重思想が薄い故に、市民自らが様々な障害物を取り除き自由な移動、快適な走行が出来るまちの環境整備、安全通行の確保のために、自治体に働きかけてゆく運動は不可欠です。

 ただルールとマナーを守り事故や怪我のない安全運転が求められることは言うまでもありません。

 21世紀、次世代に対する私たちの責務として、今回のハーグ会議の決裂を真剣に受け止め、地球環境保全に取り組む先進各国との共同行動を視野に、具体的なエネルギーの浪費の抑制に向け、一人ひとりが「クルマから自転車」への転換に、どんどん取り組んで行くことを呼びかけます。

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『みちしるべ』**会計報告**<2000.10. Vol.7>

2006年01月03日 | 大橋 昭

阪神間道路問題ネットワーク
会計報告(1999.9.19.~ 2000.8.27.)

会計担当 大橋 昭

★収入合計 147,514円

西宮山幹線環境を守る会****7,000
川西自然教室*********8,000
芦屋道路ネットワーク******5,000
北部水源池問題連絡会*****5,000
みちと環境の会********10,000
西宮市民連絡会********3,000
個人(藤井) **********3,000
個人(三橋) **********3,000
特別カンパ(正田) ******103,514

★支出合計 70,738円

会場費・会議費********14,590
資料費************6,000
郵送費 ***********11,415
活動費************3,200
印刷費(創刊~5号) ******35,250
その他(金銭出納帳)*******283

★残高(8/27現在) 76,776円

◆年間必要予算(概算)90,000円/年

会場費・会議費***1,500× 12=18,000円
印刷費*******8,000× 6=48,000円
郵送費*******3,000× 6=18,000円
雑費  ********500× 12=6,000円

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『みちしるべ』【はじめにダムありき】を糾弾**<2000.8. Vol.6>

2006年01月02日 | 大橋 昭

『はじめにダムありき』を糾弾
兵庫県、武庫川ダム説明会で立ち往生

みちと環境の会
会長 大橋 昭

 兵庫県土木局河川開発課は去る5月20日(大庄地区公民館)と5月27日、7月1日(武庫地区会館)に下流地域住民に対し、武庫川ダム事業の説明会を行った。

 この日県側は「最新の構造と細心の配慮で、自然にやさしい治水ダム」という宣伝文句を掲げ、関係部署12名が出席した。

 県の主張は、従来の繰り返しで、「100年に1回」の降雨確率規模の洪水に対応できる治水対策には、堤防の改修や総合治水などは財政的にも時間的にも実現不可能であり、ダム建設が最適の選択肢である、とする考え方をスライドで説明した。また、全国初の「穴あきダム」を採用するから、武庫川渓谷の景観や自然環境に影響を与えず阪神間(下流域の尼崎市と西営市)を洪水から守ることが出来ると、繰り返し強調した。

 これに対し参加者からは、予定時間を大幅に上回る発言があり、県側の「はじめにダムありき」の姿勢は揺らいだ。とりわけこの間、各地の説明会で真摯な住民側の意見や提言をないがしろにしてきた県側の尊大な対応(総合治水案の無視、説明会議事録の非公開など)にも激しい抗議の声が上がった。それと合わせ、この日の冒頭に参加者の質問に対して不誠実かつ高圧的な発言を行ったことに対する激しい抗議と批判が渦巻き、会場が騒然となる場面もあった。これは県側の陳謝で一応決着した。次に特筆すべきは、「ダムは必要」とする県側の過大な高水流量の数値設定の問題で、その誤り(日本のダム建設はこのフイクションを使いこれまで多くのダムを作ってきた論理【(注)参照】)を指摘した追及は鋭く、県側は答弁できず立ち往生した。ダム建設計画の根幹がいかにいい加減なものかを、白日のもとに明らかにした。住民側からの主な発言は!

  • いま、なぜ武庫川ダムなのか!
  • ダムは自然環境や生態系を破壊する!
  • ダムができたら河川は死ぬ!
  • 現在ダム計画はどこまで進んでいるのか、明らかにせよ!
  • 河川を流れる水量の最大値(計画高水流量)の数値は疑問だ説明せよ!
  • 上流地域での乱開発を止めて総合治水に取り組むべきだ!
  • 住民の提案する代替案をなぜ検討しないのか!
  • ダムを作らないと阪神間に洪水が起きるというのは脅迫だ!
  • ダムより内水対策が先だ!
  • 説明会はアリバイつくりで法的に疑問だ!
  • 古来からの治水に学ぶべきだ!ダムよりも堤防の補強や砂対策を!
  • さきに提出した住民意見書を公開せよ!
  • 兵庫県事業再評価委員会の審議は不十分だ!
  • 莫大な工事予算をどうするのか、次世代への負担をどう考えているのか!
  • これまでの各審議会、審査会等の全資料の情報公開を!

 7月1日の説明会は、県が「手続きを消化する」ための催しでしかなかった説明会に、初めて住民の意見を反映させることができたのではないだろうか。

 この出来事は、県の思惑どおりに進められてきた「武庫川ダム事業」の流れに一つの節目をつけたという意味で、大きな意義があった。それは県にとっては決して愉快なことではない。これからの県の出方は見えないが、いずれにせよ私たちがしなければならないことは、このことを流域全域の住民に知らせ、広い問題にしていくことである。

 一旦決めた公共事業は絶対に止めないこの国の「歪んだ政治」の在り方は、すでに私たちが南北高速道路の建設問題でも経験してきたところであり、この闘いの中で変えていかねばならない共通の日標である。

 1993年尼崎市は兵庫県に武庫川ダム建設の促進を要請し、尼崎市、伊丹市、宝塚市、西宮市の4市で「基本協定書」を締結したが、その経緯は不明である。この問題については尼崎市に対し、説明と情報公開を求めることが、尼崎連絡会で確認された。

 次回はさらなる住民パワーの結集をめざし、各地域の多くの住民の参加を呼びかけて報告とします。

(注) 尼崎市での説明会は当初2回の予定であったが、参加者の強い要求で3回目(7月1日)の説明会が開かれた。この説明会で、県側の説明資料の中の、ダム設計上の基本高水量算定(河川に流れる水量の最大値)の数値設定が、恣意的であり過大であることを住民側が指摘し、説明を求めた。だが、県側は明快な返答が出来ず、何度も立ち往生した。この問題はすでに専門家の間でも異論が出ていたのだが、この日の住民側の追及で不要なダム建設を正当化しようとする国と県の意図が一層明らかになった。これを不満とした住民側の強い抗議と要請により、引き続き4回目の説明会を開催(8月末を目標)することを県側が認めた。

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『みちしるべ』西国街道ぶらり記**<2000.6. Vol.5>

2006年01月02日 | 大橋 昭

西国街道ぶらり記
師直塚~昆陽寺~髭の渡し

みちと環境の会
大橋 昭

 私の好きな言葉のひとつに、温古知新(古きを訪ね新しきを知る)があります。

 これまで意外と知る機会の少なかった身近に残されている旧街道や文化財、歴史、時を超えてその時代に生きた人々の心に触れてみたい、そんなロマンを求めて西国街道周辺に残る史跡を訪ね、五月晴れの午後の一日ぶらりと出かけてみた。

★「西国街道」を西へ

 京の東寺を出て山崎(大山崎町)・芥川(高槻市)・郡山(茨木市)・瀬川(箕面市)・昆陽(伊丹市)・西宮・兵庫の各宿を通る西日本の重要道路。

 古代の山陽道にほぼ平行して走り、都に通じる極めて重要な官道(幹線道路)とされ、山陽道から中国、九州へ繋がる戦略道路としてその役割を果たす。

 建設は「律令時代(大化の改新~奈良・平安時代)」と古く、この街道もまた幾世紀にも亘って、道ゆく人の営みと栄華盛衰を見てきたが、今を生きる者はその歴史になにを想うのか。ロマンと推理は限りなく広がる。

 時代は進み近代になり人口が増加し、急速な宅地開発や道路整備の進展、渡し船の代わりに橋が架けられ、鉄道やバス路線の開通で人々の移動の変遷は街道の姿を大きく変貌させ、どんどん昔の面影を消しつつあるのは仕方ないが……

 古い地図では緩いカーブの道であったものが、時代の大きな変化を受け今日に至るが、この街道を通った人、モノ、情報をイメージするとき、道が果たす機能と大きさは現代にも通じるものを実感する。

 いまどき馬や駕籠に乗った移動はできないが、道路交通綱の未発達な時代ではこの街道など少なくとも、両脇に緑豊かな樹木を備えた快適空間をもつ道路ではなかったか。現代のようにスピードに任せてセカセカと移動する必要もない旅が羨ましい。とはいえ道中の災難(病気、盗賊、災害など)から身を守る安全な旅は至難であった。

 そして人々は魔除けの寺院や仏像や氏神を祭りこれを崇めた。

★昆陽寺

 現在は伊丹市寺本町の国道171号線の北側に見事な朱塗りの仁王門(二層の楼門)があり、思わずその偉容に立ち止まる。よく見れば、クルマの排気ガスに晒されている仁王が、ほこりまみれの姿がまことに気の毒。ここでも貴重な文化財の受難が!

 この寺を建てたのは和泉の人その名もご存じ『行基』さん。奈良時代(668~749年)の僧で、朝鮮百済からの渡来人の子孫といわれ諸国巡遊し各地に架橋5、道路1、池15(近くの昆陽池は有名)、堀4、樋3、船着場2、布施屋9、その他尼僧院49を造立。彼の徳を慕って来る人たちを集めて、今でいうボランティアで社会福祉事業lこ力を注じだ精神と渡来人たちの土木建築技術レベルの高さには感服させられる。

 また行基は昆陽設院(布施屋)『街道で倒れた旅人たちを救済する所』にも力を入れ、この近辺のみならず畿内一円にも行基信仰。伝説を多く残している。さて現代の宗教のあり方や自分たちの接し方はどうか。広い境内には訪れる人もまばらで、門前のクルマの喧騒とは逆に、ウソのような静けさと新緑の樹木の間を縫うようなさわやかな風にほっと一息しながら考えてしまう。四国の八十八ケ所の少石像の配置がユニークだ。

★閼伽井(あかい)の井戸

 国道171号線を鋏み昆陽寺の南側にあり。今は小さな公園の一角に石囲いの井戸があるだけ。

 閼伽井とは梵語で「水」をさし、特に仏前に供える水のことをいう。昆陽寺付近の地を閼伽井と呼んだことから、この井戸を「閼伽井の井戸」と言い、行基が旅で病み倒れた人たちをこの水で治療したとも。

 水は古来、神聖なものという信仰心がの井戸を今に伝えているのだろう。旅に疲れた人たちもこの水を飲んで、また目的地に向かって旅立つ姿が目に浮かぶ。

★師直塚

 尼宝線と国道171号線の交差点の北西にある小川の側。

 この石碑に彫られた塚には「土」扁がないのが気にかかるところ。

 ご存じの高師直は足利尊氏の執事として権力を振るい、弟・師泰と共に尊氏の信頼された重臣。『太平記』によれば南北朝時代に敵・味方入り乱れての戦いに明け暮れる観応2(1351)年、尊氏らが神戸の湊川や御影浜、打出の戦いで敗れ、京へ上る途中武庫川付近で上杉、畠山軍に捕まり兄弟と一党が殺された。これを憐れんだ人々が後に今に残る石碑を立てた。

 動乱の時代を生きた師直の傍若無人、尊大無礼、伝統的権威をものともしない生き方に、なにか引かれるものを感じるが「天網恢恢、疎にして漏らさず」か。

 目を閉じればいまにも軍馬の蹄の音や武者たちの叫びが伝わって来そうだが、喧しいクルマの流れがタイムスリップを邪魔する。

★髭の渡し

 その昔、武庫川の両岸にあったが……

 旧西国街道は国道171号線に沿って尼崎市に入り、バス停「髭の茶屋」のところで左手(南)に急カープする3差路を直進すれば武庫川の堤防にでる。現在の常松2丁目のあたり。付近には小学校や幼稚園、神社があり静かな住環境あり。この渡しは、今様「道の駅」か。

 茶屋に腰掛け一服しながら、旅人同士での世間話や諸国の情報に触れ見聞を広めながら、川渡しの具合を判断するもよし、川渡しという古風な交通機関は増水時は命がけで渡しを担った人たちのお陰で旅人たちは次へ進めた。権力者は非情にも軍事上の理由から橋を架けなかった。

 尼崎側には堤防の下に「ほこら」が二体と、文政に作られたという銘のある「常夜燈」1基が、5年前の大地震で倒壊したままの姿が痛ましい。

 西宮側には渡しの位置に解説の立て札はあるが、付近に渡しの面影lまない。

 ここから堤防を跨ぎ報徳学園前を西南に行けば、西宮えびす神社で中国街道(大阪から神崎川を渡り尼崎を経る道)とドッキングするも、戦災や区画整理で甚だ不案内となる。

★道標……みちじるべ

 西国街道だけではなく古い街道筋には、数多くの道標・碑(辻や交差点に立つ)が開発や区画整理を逃れてここかしこに残されています。多くの道標・碑には「すぐ尼崎」「すぐ西宮」とありますが、これは「すぐ先」ではなく「まっすぐ行くと〇〇へ行く」という意味。勘違いしそうですが面白い言い方です。地図も磁石も持たない旅人たちにとっては道に迷うことは死を意味します。文字どおり道標や常夜燈などは旅の安全にともて欠かすことの出来ないものでした。同じように道端の地蔵や道祖神にも無事を願う厚い信仰が注がれた事でしょう。

 こうして道標・碑に導かれて安全に無事、宿に着いたときに気持ちは想像するまでもないことです。現代の道路標識にあたる道標・碑はその長い歴史を通じてその役割を果たし、人の世の無常・栄枯盛衰を見ながらいまも静かに立っている。

 命がけの旅を通して自然や神仏への畏敬の念を高め、命やモノを大切にした先人たちの知恵や生き方は、あくせくと利便さと効率を追いかけ、心のゆとりを失った現代の私たちに何か忠告してくれているようだ。

 武庫川の堤防に立ち止まりおりから沈み行く見事な夕陽に、かつてここを通過して行った幾百千万の人々を追想しつつ、改めて「温古知新」の意味を考える。

  みちしるべなき闇夜の世をわれは如何に照らしむ

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