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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』若水**<2000.2. Vol.3>

2006年01月01日 | 大橋 昭

若水(わかみず)

みちと環境の会 大橋 昭

 「若水」

 古来より新年にあたって、生命を新たにするために「生命の水」「豊穣の水」を汲んできてこれを摂取、生気を貯えようとしてできたたことに由来す。日本の若水習俗を歌人西行も≪解けそむる 初若水のけしきにて 春立つことの くまれぬかな≫と詠んでいる。『日本民族事典』によれば、「元旦に汲む水」「初水」ともいう。歳神に供え、家族の者が口をすすいだり、お茶をたてて飲む。このお茶を福茶や大福茶などという。若水を汲みに行くことを「若水迎え」と称し、年男の役日とするのが一般的である。

 西日本では女性が行うところも少なくなく、正月三ヶ日行うところや若水を汲むに際して水神に供え物をする所も多い。徳島県の一部では元旦未明、手桶に米・大豆・里芋・つるし柿を入れて泉に行き、水神に供えるといって、泉に供物を投げ入れ、「福くむ徳くむ幸くむ」と唱えながら、杓子で汲み入れる。

 秋田、岩手県などでは餅を桶にいれ行き、二つに割って一方は井戸に供え、残りは若水に入れて持ちかえるという所もある。

 そのルーツは、むかし海の彼方にあると信じられた他界、常世(とこよ)の国から、春の初めに通ってくる水があって、それを飲むと若返るという信仰の存在したのが始まりとされる。このことは若水を飲み過ぎて赤ん坊になったという昔話からもうかがうことができる。この他にも日本列島各地には元旦の朝早く若水を汲む習俗は北は北海道から南は沖縄まで広く分布していると記されている。

 また、こうした若水信仰は広く東アジアにも存在し、必ずしも一月元旦に決まっておらず、正月の場合、七夕の場合などと地域によって種々ある。このうち正月型は日本、朝鮮、中国南部に見られる。中国では「神水」「井華水」と呼ばれるものが日本の若水にあたる。

 私たちの祖先は、自然に畏敬の念をこめて共に生き、その恵みに感謝しこれを子孫に残してきてくれた。しかし、ダム建設などで環境汚染が進み、地下水や湖沼、河川の水は急速にその安全性を失いつつある今、若水汲みも消えつつあるのは不幸だ。「水と緑」を守りどこでも若水が汲めるように、汚染源の「ごみ捨て」文化からの決別と、自然を破壊する化学的有害物質を使用しないライフスタイルを急ごう。

 そして、子や孫たちに安全でおいしい水をたっぷりと飲んでもらおうではないか。

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『みちしるべ』南北高速道路建設反対!市民の団結で計画をストップ!**<1999.11. Vol.2>

2006年01月01日 | 大橋 昭

南北高速道路建設反対
市民の団結で計画をストップ

南北高速道路の建設に反対する会(当時)
事務局長 大橋昭

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計画の概要

  • ルート中国自動車道「宝塚インター」と阪神高速湾岸線「末広ランプ」を結ぶ。延長14km。(公的空間を利用する)県道・尼宝線と武庫川沿いが有力視される。
  • 構造:4車線。自動車専用高速道路。
  • 通行量:6万~8万台/日(予想)

現在までの推移

1975年 武庫川左岸(尼崎市側)堤防上に高速道路計画浮上。全市をあげた反対運動(市民、市議会、市長、労働組合、社会団体)で「白紙撤回」を勝ち取る。
1988年 国土庁の近畿圏基本整備計画で再浮上。
1991年 六島市長が尼崎市の総合基本計画を改訂し、その中に南北高速道路計画を盛り込む。
1992年 尼崎市議会は「南北高速道路の建設」計画の調査費を計上を可決。
1995年 阪神・淡路大震災。震災復興3ヶ年計画で「防災道路」の性格を付し、1997年3月中にルート決定を表明。
1998年 諸般の理由(※)から、兵庫県と4市(尼崎市、伊丹市、宝塚市、西宮市)で構成する「推進協議会」は建設計画の「一時中断」を公表。現在に至る。

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☆反対運動のスタート

 私たちが「南北高速道路の建設」計画を知るに及んで、その計画の無暴さと計画決定過程の不透明さ、市民不在の事態が暴露し、市民の怒りは膨らんだ。

市があげる高速道路の必要な理由

 「市内の南北道路の渋滞の緩和」「尼崎南部地域の開発」「阪神間広域の利益」というもので、“今なぜ市街地を貫く高速自動車道路なのか”“尼崎市は大気汚染、騒音、粉塵などで国の基準を越える箇所があり、年々悪化している”“公害患者がまだ苦しんでいるではないか”“国道43号線の二の舞を踏めというのか”“市民の憩いの場である武庫川の自然を破壊するな”などの市民の疑問に答えることはできなかった。他方で、住民に知らせずに事を進めたやり方や、利便性のみを主張する市行政への疑問や批判が噴出した。

「南北高速道路の建設に反対する会」を結成

 「ルートをどこに決めようが市街地に高速道路を通す計画自体が無謀である」「公害をばらまく高速道路はいらない」「道路がいるか、いらないかは市民が決めることだ」などの考えを行政に反映させるために、1992年11月武庫地区を中心に「これ以上、尼崎の空を汚すな、次の世代にツケを回すな」を合言葉にして「南北高速道路の建設に反対する会」を結成。以後、私たちは自らもクルマのもつ利便性や効率性、快適さに埋没しているライフスタイルを問いなおしつつ、国の開発行政が過剰な道路需要を生みだす構造を推進し、「クルマ依存社会」が自然破壊と財政を大きく圧迫していることなどを広く市民に訴え続けた。

 この間反対運動は、二回の反対署名運動を展開した。地域で街頭宣伝・署名のお願いや、地域の自治会、労働組合、道路ネットワークの仲間、その他県外からの支援も得て二回とも大きい成果をあげることができ、署名簿をそえて市議会に陳情した。兵庫県知事や尼崎市長に建設の必要性、安全性の根拠、震災に乗じた新たな計画批判などの公開質問書、意見書、を時機を失せず提出した。私たちは一貫して、「主権在民」を掲げ、建設計画の意思形成段階での「情報公開と住民参加」を要求してたたかった。同時に運動の結束と市民の一層の理解を得るために、「交流と学習」を他の地域でもひろめるなど努力した。機関紙『青空だより』を毎月発行したが、これが果たした役割は大きかった。また、毎月定例で運営委員会を行った。運動の資金づくりと宣伝のために毎年1回、「バザーと環境バネル展」を開いてきた。

目に余る行政の対応

 尼崎市は建設のための調査を始め、当初の予定より大幅に遅れてきても市民や議会に、進捗状況や問題点(ルート、工法、時期、予算、環境アセスメントなど)を何一つ公表しないばかりか「県や他市との信頼関係」を楯に、市民の情報公開要求や、市長に対する当会の「対話申し入れ」をも拒否し続けた。

 さらに、1995年阪神・淡路大震災を機に、県と市は『防災道路』説を振りかざし、災害復興事業の中に南北高速道路建設を位置づけ「3ヵ年以内に決定する(ルートなど)」とした。その後も市民の疑問や不安には「意思形成の過程」「すべては調査中」「話しするものは何もない」と(反対運動団体とは会わない)門前払いを繰り返すという市民無視の状態が続いた。市民の間ではこの、「民主主義を踏みにじる前近代的姿勢」に対して批判が高まった。尼崎で活動してきた3つの団体が「阪神間道路ネットワーク」に結集して団結が高まった。

☆調査の「一時中断」。反対運動の勝利

 1998年3月5日、「阪神地域南北高速道路整備推進協議会」の幹事会が、ついで兵庫県議会本会議で芦田副知事が「阪神地域南北高速道路」建設について、計画策定作業の中断(※)の公式見解(建設計画のいきづまり)を次のように発表した。

①期日内に(98年度)南北高速道路の建設計画は具体化できない。
②将来に阪神間の南北の高速道路は必要。
③具体化にはなお時間をかける必要がある。

 その理由は「技術、環境、採算の上でそれそれ解決できていない課題があり、これらを同時にクリアーするのは不可能と判断した」と白状した。

 「会」では、依然、建設計画推進の「火種」は残されており、行政が「改心」したわけでもなく不満・不安は残るが、不屈に反対運動をつづけた市民の団結力と良識があったればこその勝利であるとの認識て一致し、完全勝利まで監視をつづけることを確認した。ことに6年に及んだ反対運動は転機を迎えた。今後、監視とあわせて地域に根ざした、多様な環境問題に取り組んでいくことを確認し、第7回定期総会(98年12月)で組織名を『みちと環境の会』と改めた。

☆建設計画を「中断」に追い込んだ背景

 成果の原動力はいうまでもなく運動主体の力であるが、状況が「追い風」となって有利に働いた。◆環境問題への市民の関心が高まってきた。それを背景にして、道路審議会の中間答申は、計画の見直し、市民参加を打ち出した。〔今後の道路環境政策のあり方=環境時代への政策転換〕◆95.7.7.最高裁「国道43号線は欠陥道路」の判決。川崎市大気汚染訴訟の勝利。◆阪神・淡路大震災などで、開発の名によって膨大な市民の財政が何に使われるのかが市民の目に一層明らかになった。◆情報公開要求、市民参加が全国的に高まってきた。

 以上駆け足で6年間の足跡を辿ってきましたが、今後は「みちと環境の会」に拠って「残された火種」の動向を監視しつつ「市民が主役」で自然と人間の共生をめざす活動を続けたいと願っています。長年にわたる物心両面からのご支援に心からお礼を申し上げ報告とします。

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