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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』年頭のご挨拶**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 大橋 昭

年頭のご挨拶

代表世話人 大橋 昭

新年明けましておめでとうございます

 師走から、年初めの記録破りの寒波と豪雪は想像を超えるものでしたが、皆様にはお健やかに新年をお迎えになられたことと存じます。年頭にあたり平素からの変わらぬご支援ご鞭撻に、改めて心からお礼を申し上げます。

 昨年は4月25日に発生したJR福知曲線の脱線事故に続き、クボタ尼崎工場のアスベス卜(石綿)問題の発覚。子供を狙う痛ましい凶悪犯罪の続発。「マンション耐震強度偽装」などこれまで想像し得なかった、暗い事件の続発にこの国の安全と安心は一気に崩壊し、息苦しい状況が続いた年でした。

 相次ぐ企業のリストラ失業者300万人。年間3万人もの自殺者の出現。一方、学校では給食費や修学旅行費が払えない児童が、4年間で30万人も増加するという「負」の側面も軽視されたままの越年でした。

 年明け早々のマスコミは景気回復と大銀行。大企業の収益向上、株価の大幅上昇、デフレ脱却を華やかに書き立てましたが、小泉政権発足以来この4年間の改革政策は、国と地方の借金を780兆円に膨らませ、国際競争に勝ち残る為にと、小さな政府や新自由主義と規制緩和を錦の御旗に『改革」を推進し、再現のない格差社会を生み出す現実には冷淡でした。

 国民には種々の規制緩和に伴う痛みと社会格差を押し付け、すべての分野にコストと効率を激化させ、莫大な儲けを得た大企業や大銀行の狙いは成功しましたが、世は「カネとモノ」崇拝主義の蔓延で、これまでにない弱肉強食を競争の展開が、人と人のつながりをバラバラにし、ますます自己中心の生き方を強めながら、本来助け合うべき者同士の疑心暗鬼を生むまでに至る世相を生み出してしまいました。

 現実には「勝ち組」と「負け組」という社会的歪みと貧富の格差を拡大させ、少子・高齢化社会への安全網の整備は遅々として進まず、やがて迫りくる増税と福祉政策の切り捨てに暮らしの活力は低下の一途にあります。

 加えて、大企業の談合などに見られる不正の横行・企業倫理の欠如による利益優先の体質は、企業自らの自浄能力と社会的責任への努力を放棄し、その無責任な体質はマンション耐震強度偽装を見るまでもなく、社会の至ところに安全と安心の喪失を生んでいます。

 昨秋の総選挙で圧勝した小泉内閣は、国際的競争に勝ち残るために、更なる規制緩和と「構造改革」の推進で、働く人たちや社会的弱者の既得権を奪い去り、日常生活に大きな不安感を与えています。

 私たちはあの敗戦から61年目を迎えた今、過度に技術文明に依拠した利便性を追求するライフスタイルを克服し、不毛な競争と格差を強いる社会ではなく、一人ひとりが互いの存在と生命を尊重し合い、共に助け合うという新しい価値観に根ざした社会つくりが、これからの課題であることを訴えます。

 そして、平和憲法のもと、主権者として自立した住民運動の結集を通じて、反戦平和。いのち・環境・自治の確立を目指し、次世代のためにも引き続き、協働と連帯を活動の原点に据え、活動してゆくことを表明し、新年のご挨拶といたします。

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『みちしるべ』ハリケーン(カトリーナ)に思う**<2005.9. Vol.37>

2006年01月13日 | 大橋 昭

ハリケーン(カトリーナ)に思う

代表世話人 大橋 昭

 今年の夏休みもそろそろ終わりになる頃、海の向こうのメキシコ湾では超大型ハリケーン(カトリーナ)が、アメリカ南部(ルイジアナ・ミシシッピ)に上陸。ジャズの発詳地として名高いニューオーリンズを直撃し、未曾有の災害をもたらしたニュースは世界中を驚かせた。

 昨年末、インドネシア・スマトラ沖での津波災害の惨状も癒えぬ中で、今回のアメリカ史上最悪と言われるハリケーンの風水害に、自然災害の恐ろしさに他所事で無い思いを強めた。

 また、アメリカを中心にしたメディアが今回のハリケーン被災を機に、政府への救援の対応を巡って、堂々と「失政」を強調し、手厳しく非難する姿勢はさすがで、多くのコメントに言論の大切さ認識させられた。

 周知のようにミシシッピ川とポンチャートレーン湖に挟まれた、ニューオーリンズは海抜ゼロメートルの地に造られた市街地。別名「スープの皿」と呼ばれる地形はいつ大洪水に見舞われても不思議でないと言われた地形と指摘されて来た。専門家たちはこれまでも風水害の危険性、とりわけハリケーンによる大惨事を警告して来たと言われている所。

 メディアによればこうした現状に対し、これまでハリケーン防災事業(堤防補強と治水対策)に、2700万ドル(約30億円)の経費を求めたのに、連邦政府が認めたのは570万ドル(約6億円)だけで、堤防を高め排水を効率的にする改良事業は見送られたと言う。このように工事費をカットし工事も長年放置されてきたことへの批判が行政に集中した。

 一方、周知の如くブッシュ政権の下で連邦政府の財政の内実は膨大な双子の赤字を抱え、更に対テロ戦費やイラク戦争で毎月52億ドル(6240億円)もの税金を戦争につぎ込んでいる。しかし、泥沼化した戦争が自国の財政をますます歪め破綻に向かわせている。

 今回のハリケーンで見せたアメリカの内情は、戦争に膨大な税金を当たり前のように使っても、国民の安全を守るべき防災事業や福祉には税金を出し惜しむ政治の姿勢であった。

 災害発生後の救援は72時間が勝負と言われるが、被災地の市民たちの生活は日を追って「水・食料・住む家・医療なし」の惨状を呈し、これが世界一の超大国の出来事かと驚くと同時に、国の内外からは被災者への対応が人種差別だときびしく非難された。

 これに対しライス国務長官がすかさず反論したが、大儀なきイラク戦争をゴリ押する顔が、見え隠れし説得力は弱かった。

 今日も現実にアメリカ社会の底辺に置かれている大多数の黒人階層は、貧富の拡大と競争原理の下で貧しさを余儀なくされ、今回のように行政が避難命令を出しても、圧倒的多数の社会的弱者たちは、お金も車も無い中で避難すらままならず、加えて堤防決壊による大都市(48万5千人)の水没の事態への備えがなく、炎天下にさらされる被災者への救援も大幅に遅れ、行政レベルでの対応の甘さと判断ミスが犠牲を大きくしたことは、他山の石として記憶されて良い。

 これはまさに「人災」であり失政への非難は免れないだろう。テレビに映る膨大な避難車で溢れる道路の渋滞は決して他所事ではない。アメリカと同様「自動車社会」が進む日本でも、緊急時の対応は行政任せではなく常にその時の「備え」を実行し、自らも防災の情報を身近に得られるようにして置く事が安全への第一歩だ。

 地震・台風・洪水の災害は間違いなくやって来る。これを根絶することは不可能だが、人命を守ることを第一に、叡智を働かせば被害を最少限に食い止める事は可能だ。それは我々も神戸淡路大震災で体験した国鏡を超えた「ボランティア」活動の存在だ。結局最後は自立した「人と人」の連帯が命をも救う。

 ここ30年以内に起きる確率が高いと言われる、東海・南海地震への「備え」をもう一度、根底から点検することをハリケーンは示唆している。

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『みちしるべ』企業の不正と働く者の立場**<2005.7. Vol.36>

2006年01月13日 | 大橋 昭

企業の不正と働く者の立場

代表世話人 大橋 昭

 このところマスコミを賑わす大手「鋼鉄橋梁(きょうりょう)」メーカー各社の性懲りもなく繰り返される談合事件に見られる、大企業の血税の詐取行為は許し難く、その傲慢さと社会的無責任さに対し激しい怒りを覚える。

 経済のグローバル化と長期不況の渦中で、日本の大企業は生き残りをかけ、なりふり構わぬ経営の効率化と利潤の拡大を求めてきた。しかしこの行き過ぎが社会のあらゆるところに大きな歪みを生み出し極大化していることにどこまで気づいているのか。日本の企業経営のリーダーたちは一番大切にしなければならない、社会への貢献と言う経営理念、倫理観を喪失し、既得権益にしがみつく政治家や官僚との癒着に活路を求めるまでに堕落したのか。

 ここ数年、大企業による不正や情報隠しなど国民の信頼を裏切るスキャンダルは跡を絶たない。三菱自動車の欠陥隠し、西武鉄道の有価証券報告書をめぐる不祥事などなど、やりたい放題の現状は目に余るものがある。最近でも社会的弱者を狙い卑劣な手段を用いて、金品を詐取する悪徳リフォーム業者の暗躍、JR西日本の大惨事など枚挙にいとまがないが、一連の不正行為の中でも三井グループの中核・三井物産による「ディーゼル排ガスデーター」偽造申告は許せない。

 周知のようにディーゼル車の排気ガス、煤(すす)には気管支喘息などを引き起こす「粒子状物質(PM)」が含まれ、早くから環境汚染や健康被害の原因といわれて来た。これを出来るだけ低減させるべく開発されたのが「ディーゼル排気微粒子除去装置(DPF)」で、三井物産はこの装置の製品性能検査データー(実際には40%しか除去出来ないのに60%以上とし審査基準をクリア)をごまかし、200億円の売上で80億円もの利益を上げていた。全くもって環境行政を食いものにした悪質な犯罪だ。

 大型車両が溢れる幹線道路沿いの大気汚染が悪化の一途をたどる時、排ガスが規制され、きれいな空気を願う切々たる沿道住民の期待を裏切り、汚い空気を吸わされ続ける被害ははかり知れない。人の生命維持に直接に関わるこの種の犯罪には厳罰が必要だ。官僚の「天下り」により引き起こされる組織的談合や大企業の犯罪的行為には、きびしい刑事罰が相当であるが、これまでの捜査を見ても国民の納得ゆく結末にはほど遠いのが日本の現状だ。

 これでは額に汗を流し営々と働き税を納め安全と安心を求める人々は報われない。問題は法律に違反してまでも利潤を追求する企業環境の中で働く人達の意識だ。

 企業の不正に沈黙し追従してまでも、そこに存在しなければならないという姿勢が問題なのだ。人はパンなくして生きてゆけないが、パンのみに生きるにあらず。今一度自ずから「働くことの意味」と「生き方」を問い直し、目指すべきは働く者の自主性と主体性をバネにした団結力で、企業社会の在り方を問う論理の再構築だ。

 戦後60年。この国のシステムが日々疲弊・劣化してゆく中で、主権者として民主主義(情報公開と参画)を武器に納得のいく社会への変革が緊要だ。

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『みちしるべ』JR西日本・脱線転覆事故で感じたこと**<2005.5. Vol.35>

2006年01月13日 | 大橋 昭

JR西日本・脱線転覆事故で感じたこと

代表世話人 大橋 昭

 JR福知山線脱線転覆事故で、尊い命をなくされた方、負傷された多くの方々に心からの哀悼とお見舞いを申し上げます。

 いつかどこかでまた大惨事が、という懸念が現実化し、大きなショックを受けた。この間、日本の各企業は経済のグローバル化をテコに、企業間競争に勝ち生き残るベくなりふり構わぬ、異常なまでのドラスチックなリストラ合理化を強行してきた。

 安全対策よりも生産性向上や効率化やスピード化を優先させ、利潤拡大路線を目指した結果、大小無数の事故が続発したことは記憶に新しい。

 三菱自動車のリコール・新曰鉄やブリジストンの大火災・関電原発事故などに共通するものは、リストラによる極端な人員削減が熟練労働者不足と重なり、設備安全管理態勢の弱体を招き、加えて極限までのコスト削減策による設備の劣化が進んだ結果、日本列島は連続して重大事故・災害に見舞われ、今回JR西日本が引き起こした大惨事もこうした状況と軌を一にしつつ、まさに起こるべくして起きた象徴的な人身事故災害だ。

 翻って私たちの日常生活はあふれるモノと情報に取り囲まれ、経済不況とも相俟ってたえず生活の不安と焦燥感に捉われた環境の中で、無意識のうちに利便性・快適さを求め「より早くより安くより効果的」という風潮に染め上げられ、他者を思いやるゆとりのない中でいつの間にかセカセカしイライラしたライフスタイルを身に付けてきた。

 今回の惨事の発端とされる電車の遅れの問題も、運転技術や運行ダイヤに多くの瑕疵が指摘され、事故原因は今後の調査に待たなければならないが、欧米では90秒の遅れは日常茶飯事で「定刻」と見なされているのに、日本ではなぜ致命傷のようにいわれるのか。例えばイタリアでは「5分から15分程度の遅れは乗客も認めている」。遅れて当たり前とするスローなライフタイル(価値観や文化の違いがあっても)が、かえって事故災害を減らしていると言われることに、眼を転じるべきものを感じた。

 しかし、当然に指弾されるべきはJR西日本の利潤追求一辺倒のモラルなき企業体質であろう。事故発生後の一連の信じられない労使の数々の不祥事は、人命救助をすべてに優先さすべき責務の放棄として許されない。この「稼ぐ」を第一に掲げ、本来厳守すべき「安全第一」は後回しとする、経営至上主義の企業体質を、だれがどう改革して行くのか。

 JR労働者への極端なまでの人員削減と人間性を無視した、あたかも旧日本軍隊の精神主義思想を下敷きにしたような、前近代的労働管理(日勤教育)の改革には、労働組合の存在が問われる。同時に関係する一連の情報公開が今後の改革のポイントであろう。

 今回の大惨事の遠因を探れば、そこには1987年当時の中曽根内閣「国鉄分割民営化」の歴史があり、それは如何なる政治的意図により断行されたのかを省みなければならない。国民の財産であった国鉄を解体し、同時にそこに働く人たちの生きる権利まで抹殺し、その直後から強行された「儲け第一主義」の民営化路線への転換こそが、今回の大惨事の出発点となったことを銘記すべきである。

 今後も営利会社としてのJR西日本は利潤の追求はするであろう。しかしそのために今以上に高速化や過密ダイヤ化を押し通せば、安全性への信頼は揺らぎ、乗客は移動手段として自動車への乗り替えも考えよう。そうなれば今以上に、都市の生活環境が渋滞や大気汚染によって大きなダメージを受けることだ。この点からも鉄道輸送を中心とした公共交通機関の安全性確保は地球環境・温暖化防止の面からも最優先課題である。

 JRの一連の許されない不祥事。ご遺族、被害者、破壊されたマンション住民への誠意のない対応への怒りの中で、特筆すべきは事故直後現場での救助隊員の働き、いち早く事故現場に駆けつけ懸命に努力した周辺の住民、仕事を中断し全力で救援活動に駆けつけた工場の人々の献身的な姿に、人の世に熱い一条の光を感じた。

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『みちしるべ』新年のご挨拶**<2005.1. Vol.33>

2006年01月12日 | 大橋 昭

新年のご挨拶

代表世話人 大橋 昭

 皆さん新年明けましておめでとうございます。

 旧年中はひとかたならぬご支援ご鞭撻を賜り、心からお礼を申し上げます。引き続き本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 さて異常気象や大地震など甚大な災害に見舞われた昨年は、地球自然環境の前途に大きな不安を感じさせました。また私たちを取りまく日々の世相も通常では考えられないような、様々な禍々しい事件が頻発し漠とした不安を抱かせ「安全神話」の崩壊を目の当たりにした一年でもありました。そんな中で八月一日に猛暑の中で行われた「みちじるべ」30号発行記念行事の成功は、住民が主人公の自治の確立に向け、地域を越えて団結を築くことの大切さを再認識させて余りあるものでした。そして引き続き「道路公害による生活破壊を許さない」と言う結集の原点に立ち、民主主義の実現に向け「情報公開と住民参画」を追求し、住民運動間の情報交流に向けての「みちじるべ」の役割と継続はますます重要性を増しつつあります。

 今年は阪神淡路大震災から10年目を迎えるのを契機に災害によって、尊い人命が奪われないためにも「安全で安心」の街づくりは依然緊要で、私たちの重要な共通の課題です。さらに今年はアジア太平洋戦争の敗戦から60年目を迎えます。改めてあの戦争の愚かさを反省し平和で豊かな安全な毎日を実現していくためにも、平和憲法の非戦・非核の思想を守り「戦争をしない・させない」国づくりと、何よりもアジア諸国との善隣友好を築いて行くことは、この国の将来に不可欠な課題です。

 様々な節目の年にあたり、不透明で激しく変貌して行く日々の諸情勢に一喜一憂することなく、人の生命と幸せを大切にする運動にこれからも取り組んで行きたいと考える次第です。

 どうか本年も何卒よろしくご支援ご鞭撻をお願い申し上げ、新年のご挨拶といたします。

2005年1月1日

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『みちしるべ』全員で合唱した「青い山脈」は青春の思い出**<2004.9. Vol.31>

2006年01月11日 | 大橋 昭

全員で合唱した「青い山脈」は青春の思い出

代表世話人 大橋 昭

 『みちじるべ』30号記念パーティーの参加者全員で歌った、映画「青い山脈」の主題曲は、久しく忘れていたこの歌の変わらぬ魅力と、合唱の持つ力強さに感動した。

 戦後日本映画史上の名作として、いまなお世代を超えて愛されている「青い山脈(1949)」(原作・石坂洋次郎)の主題歌は、戦後の混乱期から多くの人たちに歌い継がれ、いまなお機会あれば人々は口ずさみ時には合唱し、個々人の思い出の余韻に浸ることが出来ることは、他の歌謡曲にも共通するが、この日の合唱は私にとっては半世紀前の遥かなる、青春時代の思い出につながり感無量であった。

 この映画の話題を耳にしたのは確か新制中学に入って間もない頃(1950年)で、巻間ではやたらと「新憲法」「自由」「民主主義」なる言葉が使われ、大人たちに混じって訳も解らず言葉だけを振り回していた頃でもあった。

 この頃は日々、満足な食料もなく頭の中は「腹一杯食べること」の願望のみで、親たちは育ち盛りの子供を抱え、ただその日を如何に精一杯に生きるか。戦後の爪痕も生々しい廃墟の街灯もない真っ暗な夜と、信じられないような絶望的飢餓状態が事ある毎に、今も鮮明に脳裏をかすめる。映画「青い山脈」はこんな時に世に送り出された。

 長い戦争による精神文化の涸渇の中で、この映画はまさに多くの人たちが待ち望んだ「明るく爽やか」で、敗戦後の荒廃した人々の心を癒し、愚かだった戦争への反省も込め、明日への夢と希望を託すに有り余るものがあった。それ故に燎原の火の如き早さで、主題歌の新鮮さと躍動感は共有され全国に広まった。特に軍国主義と封建社会に決別せんとする意気は、歌詞の中でも「古い上着よさようなら」の一節に表され新生日本を象徴し、戦争は嫌だと言う人々の平和への願いと、ひたすら実直に勤勉に生き様とする気高さを思い出させる。

 しかし、映画の明るさとは反対に敗戦から僅か数年を経て、この国の「平和」を「再軍備」へと急旋回させる勢力の台頭も見落とせない時代でもあった。

 時に対米追従の第二次吉国内閣のもとで、いまなおその霧が晴れない奇怪な社会事件(下山総裁の怪死・無人電車暴走の三鷹事件。東北本線列車転覆の松川事件)が引き起こされ、人々の間に再び戦争への不気味な予感が広まって行く。

 そしてこれらの事件の直後、1950年6月25日朝鮮半島は戦火に見舞われ、南北分断で隣国の無辜の人々は塗炭の苦しみを受けることになる。

 熱気溢れる全員合唱の余韻に浸りつつも、いまこの国の平和憲法が蔑ろにされる中で、映画「青い山脈」の時代を忘れることは出来ないものとして、書き連ねればキリがないが敢えて、この機会にその時代背景も併記して置きたい。

参考 青い山脈 藤山 一郎 You Tube
http://www.youtube.com/watch?v=P-QUP13GAeA

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『みちしるべ』**お礼  『みちしるべ』30号発行記念パーティー**<2004.9. Vol.31>

2006年01月11日 | 大橋 昭

お礼  『みちしるべ』30号発行記念パーティー

代表世話人 大橋 昭

 去る8月1日の例年にない猛暑の午後、西宮勤労会館に於いて『みちしるべ』30号発行記念パーティーが行われました。うれしいことに各地から60名を超える人たちが駆けつけて下さり、盛会裡に終えましたことに心から厚くお礼を申し上げます。

 今回は1996年当会発足以来の初めての試みでしたが、30号発行の快挙を皆なでお祝いしようと企画しましたところ、会場一杯の参加者を得て終始、暑さを吹き飛ばす元気溢れんばかり盛り上がりを持つことが出来ました。

 当日は各界からのメッセージ、素晴らしい朗読やバンドの生演奏と全員でのコーラス「青い山脈」で賑やかに愉しく時の経つのを忘れる位でした。

 また各地域からの活動の報告、参加者全員からの貴重なご発言などを交え、記念祝賀会に相応しい有意義な交流は、これからの運動に勇気を与えてくれるものでした。

 私たちはあの阪神淡路大震災を契機に「道路公害による生活環境破壊を許さない」を掲げ、『みちしるべ』を結集の中心に据えてから、5年の歳月を経ました。しかし私たちを取り巻く現状はこれまで以上に住民主体の自主的な組織の重要性を求めています。

 引き続き運動の原点である「情報公開と住民参加」の具体化、運動を通じた情報の共有化を図り、「いつでもだれでも」が気軽に参加出来る作風を目標に、これからも各地の仲間との連携を図りつつ、それぞれの地域で主体的に活動し自治の主人公たる立場の確立に努めて行きたいと考えます。

 内外の諸情勢の不透明さが大きな変化を予感させる中で、戦争のない平和な社会を未来に手渡すことと、同時に地球環境に配慮して行く運動は待ったなしです。

 以上、今後とも変わらぬご支援ご鞭撻をお願い申し上げお礼と致します。

 末尾になりましたが記念祝賀会を最後まで、盛り立てお世話して頂いた各位に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

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『みちしるべ』30号発行記念に寄せて**<2004.7. Vol.30>

2006年01月11日 | 大橋 昭

『みちしるべ』30号発行記念に寄せて

代表世話人 大橋 昭

 1996年1月、阪神淡路大震災の生々しい灰燼の傷痕も癒えぬ中、阪神間各地で道路公害問題に取り組んできた地域住民の自主的な意志によって「阪神間道路問題ネットワーク」が立ち上げられました。

 時あたかも行政の震災復旧に名を借りた住民無視の強引な都市改造計画はそれまでに潜在していた矛盾を一気に噴出させ、それは震災という極限状況下にあっても行政は人命救済よりも道路建設を優先するという、この国の政治が明治政府以来とり続けている「愚民化と棄民化」政策を示して余りあるものでした。

 しかしこうした状況にも屈せずネットワークに結集した住民はこれ以上「道路公害による生活環境の悪化は許さない」を合言葉に、行政との厳しい対時を経ながら各地の新幹線道路建設を中心とした震災復旧の動向の情報交換、運動の経験の交流を重ねる中から、1999年9月『みちじるべ』創刊号を誕生させました。

 爾来5年の運動を経てここに記念すべき第30号の発行が、多くの人たちのご支援により実現しましたことに対し、厚くお礼申し上げ共に祝したいと思います。併せて私たちの運動に多大のご理解とご指導を惜しみなく注いで下さった、今は亡き諸先達に対し心からの追悼と謝意を捧げたいと思います。

 顧みれば結集の原点である「道路公害から住民の生活と健康を守る」という共通の課題は今なお色あせないばかりか、参加団体も時間と共に増えています。多彩な面々による議論と交流は、しばしば時の経つのを忘れさせ、意見の相違に直面すれば、お互いにそれを尊重しあうことを通じて、仲間のつながりを育み、自立した住民こそが主人公だということの意味を共有しながら『みちじるべ』は継続されて来ました。

 私たちはこれからも真の主権者として、何よりも戦争をしない、させない国で、人々が人間らしく暮らせる生活の実現に向け、より多くの人たちとの出会いに期待しながら、どんどん発信して行きたいと考えます。

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『みちしるべ』「初詣」雑感**<2004.1. Vol.27>

2006年01月10日 | 大橋 昭

「初詣」雑感

みちと環境の会 大橋 昭

 今年は元旦から好天気に恵まれ正月三が日、全国の寺社や行楽地には9703万人が訪れるという盛況でした。その内初詣には8889万人(昨年よりも241万人増)の人が出掛けました。よく外国人から日本人の無宗教性が指摘されますが日ごろは寺社など素通りしていても年があらたまれば、新鮮な気持ちで神仏を身近に感じ心身を清めるように、人口の大半の人々が寺社に繰り出します。

 どこからこんなに参拝者が出てくるのかが不思議だし、あの殺人的な人波に押されながら、なお神殿に向うエネルギーの源は何なのか。やはり日本人の心の奥深いところに神仏を敬う独特の心性の表れなのかを思う。

 その昔、遁世の歌人・西行法師が伊勢神宮を訪れたときに詠んだ『何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさの涙こぼるる』の厳粛な感慨を今も体感し追想する遺伝子が、時空を超えて目覚めさせるのか。

 それとも現実の長い不況と急速に戦争へ足音が高まるキナ臭い、暗く嫌な世相をせめて初詣で振り払らおうとする素朴な「苦しい時の神頼み」が正解なのか。

 そんなことを考えながらテレビで除夜の鐘とともに初詣する人たちの悲喜交々の姿を、各地の新年を迎える情景と共に観るのも、年末の慌しさを過ごした後の愉しみのひとつです。

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※ 《因みに「宗教年鑑2001年版」によれば、全国の神社数は8万1317社でその大部分は「神社本庁」に所属し、お寺の数は7万7128ヵ寺だそです。》

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 さて神社参拝には鳥居を潜り神殿に向います。参道の両脇には燈籠や狛犬(古くは高麗犬とも呼ばれ・朝鮮半島から渡来したもの)が神殿を守り、深い樹木に覆われて神仏が宿る神秘的な情景を引き立てています。

 普段は余り気に止めませんが神社の参道や神殿前には必ず「狛犬(高麗犬)」が祭られています。

 この狛犬の由来は古代オリエント・ペルシャ・インドの時代に起源をもち、神の守護神としての役目を担い、神前に向かい合わせに阿吽「口を開けた狛犬が(阿)で口を閉じた狛犬が(吽)」の一対が置かれ、威厳を示し魔除けにされ日本でもこれに倣ったと言われます。

 よく狛犬と獅子が混同されますが、平安時代にははっきりと区別されていたと言われ、日本犬との違いから異国の犬「高麗犬」とも呼ばれて来ました。その独特の容貌と千差万別の多様なポーズに関心が高まり、今や全国に無数の「狛犬ファンクラブ」が出来るまでの人気物です。周知のように犬の歴史は人よりもはるかに古く、人間との付き合いもあまたある動物の中でも最も長く、犬神信仰や伝説は多く、安産・子育ての守りとして昨今のペットブームにもつながるものも大いに頷けます。蛇足ですが人に最も近い「サル」とは何故か気が合わないことは気になるところですが・・・。

 その狛犬の前に立つと信仰あつい人々の自然崇拝・神への畏敬・厄病除けの一念から、丹精を込めて作った気持ちが感じられます。次世代のためにも大切にしなければならない貴重な文化遺産です。

 興味深いのは神の使いとして神社に祭られる動物の多数派は断然狛犬ですが、他にキツネ・サル・オオカミ・ネズミ・シカ・ウシ・ウサギ・カメ・ヘビ・竜など多くの石像・木像が置かれています。参拝の機会にぜひ出会いたい衝動に駆られます。

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『みちしるべ』戦時下の学童疎開のこと**<2003.5. Vol.23>

2006年01月09日 | 大橋 昭

私の戦争体験・覚え書
戦時下の学童疎開のこと

みちと環境の会 大橋 昭

はじめに

 第二次世界大戦での日本敗戦以降、58年という時間の流れは、国民の約7割が戦争を知らない世代に属するまで変化させて来た。私はそんな時代の変遷の中で、あの戦争体験が徐々に風化し、少年期に辛酸をなめた「学童疎開」という歴史的事実も、戦後社会の片隅に追いやられ、その言葉すらも聞かれなくなってゆくことを不安に思う。

 あの戦争の末期に「お国のため」と称し、「学童疎開」なる戦争遂行政策に組み込まれた者としての体験したことを、今ことさら誇示することなくその意味や経緯も併せて記して置くことは、戦争を知らない世代の人たちへの責務であると思う。戦後、平和憲法の下にあって今日まで、曲がりなりにも平穏な生活を享受してきたことに感謝しつつも、世界が日本が、再び戦火の危機に見舞われようとしている時、改めてこの思いを強くする。

 戦争は人命を損ない自然環境を破壊し、平穏な生活をも奪い去る。そしていつの時代でも戦争で一番悲惨な被害を受けるのは国籍の如何を問わず、最も弱い立場にある子供たちであることは、この間のアメリカ軍によるイラク空爆の非をみれば一目瞭然である。故に「学童疎開」と言う特異な戦時体験の一端を回想し記録することは、反戦平和へのささやかな行動であると信じ以下に遺して置く。

「学童疎開」とは

 第二次世界大戦の末期、敗色濃厚の情勢下の1944年6月30日、この時の小磯内閣は、日増しに激化する本土空襲時の混乱を避け、国民学校初等科学童をより安全な地域に分散、移住させる目的で学童疎開の実施を指令する。

 当初、国は家族制度の崩壊と国民の戦意喪失をおそれ、人員疎開に消極的であったが本土がアメリカ空軍B29大型爆撃機の航続距離圏に入るに及んで急遠、学童疎開が行われ、縁故疎開(空襲の少ない地方の親戚を頼る)を第一に促進させていたが、途中から「団体教育のいい機会であり、少国民の錬成をすべし」と方針転換を図り、全国主要都市の国民小学校初等科児童を対象に、戦火の少ない地方へ学童疎開が行われた。

※ 【因にイギリスやドイツでは戦時下の疎開問題を第一次世界大戦の教訓に学び、第二次世界大戦開始前の早い時期から、綿密な構想と計画が練られ戦災を最小限にする政策が実行された】

 こうして一般及び初等科児童の疎開促進が決定され、東京・大阪はじめ18都市(尼崎市も含む)における、初等科3~6年生児童を対象に疎開が実施された。

 この時、大多数の児童は集団的に疎開が行われ、縁故を有する児童は個人的に疎開したが、これらに該当しない児童は都市に残留し寺子屋式の教育を受けた。

 集団疎開組では8月には第一陣が出発、翌年には範囲が拡大され、敗戦までに推定50万人が、全国約7000ヶ所の社寺・旅館・寮などに寝泊まりした。

 先年、NHKが放映した戦時下の集団疎開(富谷国民学校・東京都渋谷区)を撮影した貴重なフィルムを観る機会があり、汽車で出発する学童たちはまるで遠足にでも行く気分がよく撮られており、反対に見送る親たちの表情は戦地に往く兵士を見送るがごとき悲壮な表情がリアルに撮影されており、往時を回想し思わず胸が熱くなった。

 親元を離れ慣れぬ疎開生活のスタートは、まだ親に甘えていたい子供たちに苛酷な試練を強いた。それは悲しいまでの食料不足による栄養失調や病気(蚤・虱の媒介による疾病、疥癬の蔓延や兵士との共同風呂から性病感染など)と疎開先の人々との人間関係のむつかしさもあり、児童にとってはつらい体験となった。

 更に深刻であったのは疎開先での受け入れ態勢の不備、生活習慣や言葉などの違いなど、数々のトラブルが生じ集団疎開児童の心に、暗い影を落としたという記録は枚挙にいとまがない。

 また成長期の児童たちにはキャラメルもチョコレートも『欲しがりません、勝うまでは』の残酷な一言で抑えられた。今から思うと想像を絶する飢餓状況に置かれ、口に入るものはヘビやイナゴなども手当たりしだいすべて食べた。ある寺では境内の池の蛙が瞬く間に食べ尽くされその姿を消したという。

 そして毎朝の皇居遥拝、御真影と奉安殿への最敬礼「兵隊さんありがとう」合唱による軍国精神の注入。軍国主義を支える皇国少国民への錬成は続けられ、家族との通信では疎開先での苦しいとか辛いは禁句とされ、家族には空襲による窮状などを書き送ることは固く禁じたりした。

 疎開先の生活は住居・食費一人一月23円~25円(内、10円は保護者負担)の窮乏生活を強いられ、日々の食料の確保、畑の開墾や薪拾いに追われ勉強どころではなかったことは当時の疎開記録が明瞭に物語っている。親、家恋しいと淋しさと、空腹は育ち盛りの子供たちには耐え難く、しばしば児童の脱走者が出た。都市空襲で多くの学童が、親、兄弟の命を、住家を奪われ戦後に至るも帰る家なく東京上野・大阪梅田の地下街に、膨大な戦災孤児を生み出した悲劇は忘れられない。

学童疎開とは何であったのか

 幼稚園を終えて国民学校入学、即学童疎開。暖かい親の膝元から離され、見知らぬ土地への疎開が「お国のため」という漠とした理由で行われる事に、何の疑いも抱かずまるで遠足にでも行く気分で出掛けた多くの学童たちは、環境の激変による希有な体験をどう受け止めたのか。「学童疎開」なるものが死語化して行く時、戦後から今日まで多くの「学童疎開」ものが著されたが、その評価は定まっていないと思う。しかしその多くは戦争被害者的立場からの記述であることには疑問を持ってきた。

 私たちは年齢的にも確かに直接戦争行為には加担していないまでも、当時は銃後を担う「少国民」と言われ、一部には軍需工場での兵器生産に従事や戦場に往く兵士に日の丸の小旗を振り続けた事実。また戦場への慰問文をはじめ、学校・家庭での遊びに至るその日常生活は軍国主義一色で、少年少女といえども侵略戦争に何の疑問も抱かず、加害者たる立場を意識して来なかった。

 「戦争中のことは何も知らなかった、解らなかった」で許されてしまっていいのだろうか。私個人はあの戦争を指導した者たち、とりわけ昭和天皇が私たち学童疎開者に対し、何一つ謝罪も反省も表さず、逝ったことは大いなる不満と疑問を持ち続けている。

 そしてこのことを戦後史の原点だと考えてきた。いま戦争の悲惨さを知らない世代の政治家たちが平和憲法を蔑ろにして、過去の歴史に学ぼうとせず再び強権を弄して、国民の生命・人権を奪い去る不条理な戦争政策を進めていることに沈黙しておれない。

学童疎開(抄)
 
1942.4.12.
日本近海のアメリカ空母から東京初空襲

1943.12.
閣議で都市疎開実施要綱決定
空襲激化による人・物(生産設備)の地方への分散令

1944.6.30.
閣議決定により主要都市から全国各地方への学童(縁故・集団)疎開始まる(学童疎開ニ於ケル教育要綱)
「皇国民ノ基礎的錬成ヲ全ウシ聖戦目的ノ完遂ニ寄与スルヲ以テ趣旨トナス」
(※)東京防衛局
「老幼者を早く疎開させ、後願の憂いなく本土決戦を貫徹するため」(一般及び学童疎開の強力推進)(縁故疎開から集団疎開への方針転換)「学童集団疎開ハ重要都市ノ防衛力ヲ強化スルト共ニ次代ヲ荷ウ」

1944.8.22.
疎開船・対馬丸が魚雷を受け沈没

1945.8.15.
敗戦・学童疎開終わる

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